平凡パンチと11PMとは?昭和の大人向け雑誌・テレビ番組の歴史

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の作品・施設・営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

1960年代から1980年代にかけて、日本の男性向けのメディアには「大人の娯楽」という一つの柱があった。活字では、1964年に創刊された『平凡パンチ』と1966年創刊の『週刊プレイボーイ』が青年向け週刊誌の市場を開き、テレビでは1965年に始まった『11PM』が日本初の深夜お色気番組と呼ばれて、四半世紀のあいだ夜の茶の間に流れた。この記事では、個々の中身よりも、いつ、なぜ生まれ、どのように終わっていったのかという歴史の面から、昭和の大人向けメディアを整理する。

昭和の大人向けメディアの歴史

1964年『平凡パンチ』創刊1965年『11PM』放送開始1966年『週刊プレイボーイ』創刊1980年『トゥナイト』開始1988年『平凡パンチ』休刊1990年『11PM』終了
昭和30年代の暮らしを再現した部屋。ブラウン管テレビとラジオが置かれている
昭和30年代の暮らしを再現した展示の一角。ブラウン管のテレビやラジオが見える(2007年撮影、展示施設名はCommonsの説明にない)。
撮影・作者: Satoru Fujiwara / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
1964年東京オリンピックのトーチの展示
1964年東京オリンピックのトーチ(展示品)。この年に『平凡パンチ』が創刊された。
撮影・作者: 松岡明芳 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
目次

背景|高度経済成長と青年向けメディアの誕生

1960年代前半の日本は、東京オリンピックが開かれた1964年に象徴されるように、所得が上がり続ける高度経済成長のただなかにあった。テレビは急速に家庭へ普及し、映画館の観客は1958年の約11億2,700万人をピークに減りはじめていた。娯楽の中心が映画館から茶の間へ移るなかで、働きはじめたばかりの若い男性や、大学生を対象にしたメディアは、まだほとんど存在していなかった。

この空白を埋めたのが、青年向けの週刊誌と深夜の情報番組だ。クルマ、ファッション、音楽、恋愛や性の話題といった、それまでの総合誌や新聞が正面から扱ってこなかった分野を、「若者の遊び」として一つの誌面や番組にまとめた。同じ時代に映画の世界で起きていた動きは、日活ロマンポルノの歴史の記事も参考になる。

平凡パンチ|日本初の青年週刊誌

『平凡パンチ』は、平凡出版(のちのマガジンハウス)から1964年4月28日に創刊された男性向けの週刊誌だ。日本初の青年週刊誌とも紹介される。創刊にあたっては、米国の『ヒッチコック・マガジン』を参考にしたとされ、初代編集長は清水達夫だった。「よそがやっていることは絶対やらない」という社の方針のもと、若者向け雑誌が存在しない市場に飛び込んだ、と当時の編集部員は振り返っている。

誌面の柱は「セックス・クルマ・ファッション」と語られた。主な読者は大学生から20代半ばまでの男性で、読者より少し年上の「お兄さん」が教える、という語り口だった。週刊誌として初めて女性のグラビアを載せたとされ、医師の奈良林祥による性の知識の連載が人気を集めた。一方で、野坂昭如の反戦デーのルポ、三島由紀夫の学生運動をめぐる寄稿など、社会や政治を扱う記事も載っており、「なんでもありの雑誌」だったという証言がある。ファッションの面では、1960年代半ばの「VAN党かJUN党か」という企画が、若者の服の好みを語るうえで影響を与えたと語られている。

表紙は、当初は女性を載せる予定だったが、俳優の岡田真澄の助言を受け、『メンズクラブ』のイラストで知られた大橋歩の起用に変わったと、マガジンハウスの沿革に記されている。部数は1966年に100万部を突破した。ラジオ番組『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』(ニッポン放送)との連動や、毎年選ばれる「パンチガール」の企画も話題になり、1980年のパンチガールの一人には松田聖子がいた。

週刊プレイボーイ|平凡パンチに対抗した集英社の週刊誌

『週刊プレイボーイ』は、集英社が1966年10月28日に創刊した(1966年11月15日号として発売)。平凡パンチの成功に対抗して生まれた雑誌で、初代編集長は五十嵐洋とされる。両誌は長く人気を二分し、記事に比重を置いた週刊プレイボーイに対して、平凡パンチはセクシーなグラビアとファッションに強みがあった、と比較される。

週刊プレイボーイはその後も形を変えながら発行を続けている。1990年代にはアダルト誌寄りの色合いが強まり、2000年代以降は、政治からスポーツ、流行までを扱うオピニオン誌的な位置づけに移ったと説明される。デジタル面では、2014年にグラビアの販売サイトを始めるなど、紙の週刊誌から配信へと軸足を広げてきた。1974年には小学館の『GORO』(1992年まで刊行、半月刊)も創刊され、1975年から始まった篠山紀信の連載「激写」が話題になるなど、グラビアを前面に出す雑誌はさらに広がった。

日本テレビの旧本社ビル(東京都千代田区)
日本テレビ放送網の旧本社ビル(東京都千代田区、2006年撮影)。『11PM』放送当時の局舎そのものではない。
Lombroso / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

11PM|日本初の深夜お色気番組

『11PM』(イレブンPM)は、1965年11月8日に始まり、1990年3月30日に終了した日本テレビ系の深夜ワイドショーだ。月曜・水曜・金曜は日本テレビ、火曜・木曜は大阪の読売テレビが制作を受け持ち、放送は全部で8,625回(東京制作6,095回、大阪制作2,530回)に及んだ。米国の深夜番組『ザ・トゥナイト・ショー』にヒントを得て、報道局が制作する時事解説の番組として出発したが、当初は視聴率が振るわなかったとされる。

転機は、放送作家だった大橋巨泉が「遊び」の要素を取り入れる案を出したことだった。巨泉はこれをきっかけに司会者へ転じ、釣り、麻雀、クルマ、旅行といった趣味の企画や、お色気を含むコーナーが増えていく。初代の司会は週刊読売編集長の山崎英祐で、その後は小島正雄、巨泉、愛川欽也らが東京側を、作家の藤本義一が主に大阪側を担当した。月曜には社会問題を扱う「巨泉・考えるシリーズ」のような硬派な企画も組まれ、お色気だけの番組ではなかった点は見落とせない。

一方で、この番組は放送の当初から批判にもさらされた。PTAや婦人団体から「子供に見せたくない番組」の上位に挙げられ、「ワースト番組」とも呼ばれた。反対に、井上ひさしや寺山修司のように高く評価する文化人もいた。年末には「紅白ストリップ合戦」のような企画も組まれた。浅草を舞台にした舞台芸能の歴史は、日本のストリップ劇場の歴史の記事で扱っている。

昭和の大人向けメディア年表(1958年〜1990年)
『平凡パンチ』『11PM』などの年表(本文の年号による)

年表で見る大人向けメディア

年出来事
1958年映画館の入場者数が約11億2,700万人でピーク(映連の統計)
1964年4月『平凡パンチ』創刊(平凡出版)
1964年東京オリンピック。テレビの普及が進む
1965年11月8日日本テレビ系『11PM』放送開始
1966年『平凡パンチ』が100万部を突破。10月に『週刊プレイボーイ』創刊(集英社)
1974年小学館『GORO』創刊(1992年まで刊行)
1980年10月テレビ朝日『トゥナイト』放送開始
1983年『平凡パンチ』がグラビアをやめ、コラム中心の誌面に刷新
1985年新しい風営法が施行される
1988年10月『平凡パンチ』休刊(「冬眠」を宣言)
1989年2月『NEWパンチザウルス』として復刊するも約4か月で再び休刊
1990年3月30日『11PM』が約24年半の放送を終える
2002年3月『トゥナイト』の流れを引く番組が終了(1994年から『トゥナイト2』)

深夜テレビの広がり|トゥナイトと「ほとんどビョーキ」

1980年代に入ると、他局も深夜の生放送に力を入れはじめた。1980年10月6日にはテレビ朝日の『トゥナイト』が始まり、映画監督の山本晋也が風俗のルポを担当して評判を呼んだ。ルポの決まり文句だった「ほとんどビョーキ」は流行語にもなった。『トゥナイト』は1994年から『トゥナイト2』に名称を変え、2002年3月に終わっている。11PMの終わり方について、日本語版Wikipediaは、こうした他局の深夜生放送番組が増えたことで、末期に視聴率が下がったと説明する。

この時期の風俗文化は、メディアの変化と切り離せない。昭和の風俗ブームの一つとして知られるノーパン喫茶については、ノーパン喫茶の昭和ブームの歴史の記事で扱っている。また、1985年の風営法の改正を境に、夜の営業のあり方が大きく変わったことも、背景として押さえておきたい。法制度の流れは風営法の歴史にまとめてある。

終焉|専門誌の台頭と娯楽の多様化

『平凡パンチ』は、1983年に表紙をサトウサンペイのイラストに変え、グラビアをなくしてコラム中心の誌面に刷新したが、部数は戻らなかった。『POPEYE』や『BRUTUS』のような専門性の高い雑誌が登場し、ファッションや生活情報を求める読者がそちらへ移ったことが、落ち込みの理由として語られる。1988年10月に「冬眠」を宣言して休刊し(休刊の月を11月とする資料もある)、1989年2月9日に『NEWパンチザウルス』として復刊したが、約4か月でふたたび休刊した。創刊からおよそ25年での幕引きだった。

『11PM』も、1990年1月に終了が発表された。日本テレビは「25年間放送し、功を成し、名を遂げた」とコメントしたと伝えられる。同じころ、ビデオの普及によって、映像の世界でも大人向けの楽しみ方は家庭の中に移っていた。その流れはアダルトビデオの歴史で詳しく扱っている。

まとめ

平凡パンチ、週刊プレイボーイ、11PMは、高度経済成長期の若い男性という新しい消費者層に向けて、遊びと情報と性の話題を一つにまとめたメディアだった。批判を受けながらも、社会を扱う硬派な記事や企画を併せ持っていたことは、時代の熱を伝える一面でもある。やがて専門誌、深夜番組の増加、ビデオの普及によって役割を終えていくが、昭和の「大人の娯楽」を知る手がかりとして、いまも多くの記録が残る。ほかの歴史記事は歴史・トリビア記事の一覧から探せる。

よくある質問

Q. 平凡パンチはいつ創刊されましたか?
A. 1964年4月28日に平凡出版(現マガジンハウス)から創刊された男性向けの週刊誌です。日本初の青年週刊誌とも紹介されます。

Q. 週刊プレイボーイとの違いは何ですか?
A. 集英社が1966年に平凡パンチへ対抗して創刊した雑誌です。記事に比重を置いた週刊プレイボーイに対し、平凡パンチはグラビアとファッションに強みがあったと比較されます。

Q. 11PMはいつからいつまで放送されましたか?
A. 1965年11月8日から1990年3月30日まで、約24年半にわたって放送されました。日本テレビと読売テレビが分担して制作しました。

Q. 11PMはお色気だけの番組でしたか?
A. いいえ。釣りや麻雀などの趣味、旅行、時事問題を扱うコーナーもあり、社会問題を特集する企画もありました。お色気企画が目立つため、批判の対象にもなりました。

Q. 平凡パンチは今も発行されていますか?
A. 週刊誌としては休刊しています。1988年10月に休刊し、1989年に別名で復刊したものの、約4か月で再び休刊しました。

Q. 平凡パンチの部数はどのくらいでしたか?
A. 1966年に100万部を突破したとされます。ただし、ほかの年の正確な部数は資料で確認できませんでした。

参考にした資料

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Satoru Fujiwara 撮影(CC BY 2.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: 松岡明芳 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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