※本記事は美術史・出版史・文化史の解説であり、特定の商品やサービスを紹介するものではありません。縄の技法や実践の方法には立ち入りません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
緊縛は、縄などで人の体を縛ることをいい、日本では、SMやフェティシズムの一つのジャンルとして、絵画と雑誌の文化の中で育った。海外では Kinbaku や Shibari の名で知られる。起源を江戸時代の捕縄術に結びつける話がよく語られるが、これは慎重に扱うべき俗説だ。この記事では、実践の方法ではなく、江戸の浮世絵から、大正・昭和の画家、戦後の雑誌、近年の学術研究までの流れを、美術史と出版史の面から整理する。江戸の艶本や浮世絵の文脈は浮世絵と春画の歴史も参照してほしい。
緊縛・SM文化の歴史
用語の整理|SM・緊縛・責め絵
SMは、サディズムとマゾヒズムの略称で、支配と被支配をめぐる性的な嗜好や遊戯を指す。緊縛はそのなかで、縄で縛ることに重点を置く分野だ。責め絵は、縛られたり折檻されたりする人物を主題にした絵のことで、明治から昭和にかけて活躍した画家の伊藤晴雨がその第一人者とされる。これに対して、幕末から明治に流行した、残酷な場面を描いた浮世絵は「無残絵」と呼ばれ、月岡芳年が代表的な作者だ。名前が似ているが、時代も目的も異なる。
前史|江戸末〜明治の無残絵と捕縄術
無残絵の代表作が、月岡芳年と、兄弟子の落合芳幾が競作した『英名二十八衆句』(1866〜67年)だ。歌舞伎の残酷な場面を集めた揃物で、28枚のうち14枚を芳年が描いた。血の表現に膠を混ぜて光らせるなどの工夫をしており、当時の芝居小屋の見世物の流行を背景にしている。芳年はその後も、1885年(明治18年)の『奥州安達が原ひとつ家の図』などで、同時代の人気絵師の筆頭に挙げられるまでになった。無残絵は、芥川龍之介、谷崎潤一郎、三島由紀夫、江戸川乱歩ら、近代の作家たちの創作を刺激したといわれる。
もう一つの前史が、捕縄術だ。罪人や敵を縄で捕らえる武術で、江戸時代には捕手術の一環として盛んに行われ、150以上の流派があった。明治維新後も警察で教えられたが、昭和に入って手錠が普及し、必要性がなくなって逮捕術の科目から外れた。「お縄になる」という言い方も、この捕縄術に由来する。
ここで注意したいのが、「緊縛の起源は江戸時代の捕縄術にある」という説明だ。欧米を中心に広まっているが、事実とは言いがたい俗説とされる。戦後に活躍した緊縛の担い手のなかに、捕縄術を参考にした人がいるのは確かだが、それは捕縄術が起源だという意味にはならない。芳年らの無残絵も、あくまで絵画であり、実践との直接の系譜を示す史料は見つかっていないと説明される。つまり、江戸の絵画や武術は、のちの文化と同じ「縄」という素材を共有するが、連続した伝統とみなす根拠は乏しい。
伊藤晴雨|責め絵と風俗考証のあいだ
伊藤晴雨(1882〜1961年)は、東京の浅草に生まれた画家だ。生年は、資料によって1880年とするものもある。彫刻師の丁稚を経て絵師として独立し、新聞社で挿絵や評論を書いた。女性の責め絵・縛り絵を生涯描き続け、この分野の第一人者とされる。同時に、芝居の舞台美術や幽霊画も手がけ、江戸の風俗を調べた『いろは引・江戸と東京風俗野史』(1927〜32年)のような時代考証の仕事で高い評価を得た。「異端」の画家と評されることもあるが、落語家や文化人との交友も広く、落語家の桂文楽らには「駒込の先生」と慕われたと伝わる。
責め絵については、江戸の刑罰や拷問を考証した仕事とも結びついている。1928年(昭和3年)に刊行した『責の研究』は発禁処分を受けたが、当時の名著とされる。戦後の1948年には、風俗史家の藤澤衛彦と『日本刑罰風俗図史』を出している。月岡芳年の『奥州安達が原ひとつ家の図』が想像で描かれたのか、写生に基づくのかを、写真を使って検証し、想像画だと結論づけたという逸話も伝わる。こうした考証的な姿勢が、単なる趣味にとどまらない面として語られてきた。1945年の東京大空襲で家財を失い、戦後の出版活動は少なくなったが、1960年には長年の功績で出版美術連盟賞を受けている。
晴雨の再評価は、幽霊画の分野で進んだ。2016年8月11日から9月25日まで、江戸東京博物館で「伊藤晴雨 幽霊画展」が開かれ、落語家の五代目柳家小さんが全生庵に寄贈した19点の幽霊画を中心に、江戸風俗図なども展示された。責め絵を含む全体像は評価の分かれる領域だが、少なくとも博物館が取り上げる画家であることは確かだ。

朝日新聞社 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

撮影・作者: Sailko / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons

撮影・作者: Marco Almbauer / CC0 / Wikimedia Commons
戦後の雑誌文化|『奇譚クラブ』と「SM」の成立
戦後の文化を語るうえで欠かせないのが、1947年(昭和22年)11月に創刊された『奇譚クラブ』だ。元新聞記者の吉田稔が、当時のカストリ雑誌のブームの中で創刊した。翌年に、絵を売り込みに来た須磨利之(1920〜1992年)を社員に加え、売れ行きが落ちた1951年から、内容を須磨が得意とするSMに切り替えて人気を集めた。1952年には判型をA5判に改めて、サディズム、マゾヒズム、フェティシズムを正面から扱う雑誌になった。1954年と1955年に、一時的な発行禁止処分を受けている。発行部数ははっきりしないが、最盛期の1950年代前半に5万〜8万部と見積もられる。1975年(昭和50年)3月に終刊した。
この雑誌の特徴は、読者の投稿が中心で、文通の仲介や情報交換の場にもなっていたことだ。性的な嗜好をもつ人が、匿名で交流できる数少ない場であり、1960年代に増える私的なサークルの先駆けとなったと説明される。作家や評論家にも読者がいたとされる。須磨は、伊藤晴雨の画集で縛りのデッサンを学んだと伝わり、「美濃村晃」「喜多玲子」などの名で絵や編集を手がけた。後に『奇譚クラブ』を離れて上京し、1956年に久保書店から『裏窓』を創刊、1968年にはコバルト社から『SMマガジン』を出した。晴雨から須磨へ、という画家の系譜が、雑誌文化に受け継がれたといえる。
小説では、団鬼六の『花と蛇』が最もよく知られる。団は、1961年ごろから変名で『奇譚クラブ』に投稿を始め、1962年8・9月合併号に載った「花と蛇」が評判になって連載が決まった。連載は断続的に13年に及んだとされる。1969年に自ら立ち上げた制作会社で、1972年にSM専門誌『SMキング』を発行し、1974年には日活ロマンポルノ初のSM映画として『花と蛇』が公開されて大ヒットした。以後、2022年までに計9回映画化されている。ロマンポルノの全体像は、戦後の映画史の資料に譲るが、この流れで、SMは一部の愛好者の文化から、映画や写真集を通じて一般にも知られるようになった。戦後の風俗の動きは、赤線・青線の歴史や、ビニ本・裏本の歴史も並べて読むと理解しやすい。
緊縛が「文化」になった過程
緊縛が独立した文化として形づくられたのは、1950年代以降の雑誌が中心だとされる。伊藤晴雨が先駆者で、本格的には『奇譚クラブ』に集まった画家、編集者、写真家が担った。須磨のほか、同誌の緊縛グラビアを長く担当した辻村隆、別の雑誌でそれより早く緊縛グラビアを載せた編集者の上田青柿郎らの名が挙がる。さらに、1968年創刊の『SMマガジン』の編集者・飯田豊一らを中心に、縄目の美しさへのこだわりが強まり、見せ方や様式が複雑になったと説明される。つまり、現在の様式の多くは、江戸の伝統というより、戦後の雑誌文化の中で磨かれたものだ。
その後は、写真の分野でも扱われた。写真家の荒木経惟は、SM雑誌『SMスナイパー』に緊縛を題材にした写真を載せた。商業誌、写真集、舞台、映画と、媒体を広げながら、美術や写真の領域に近づいていく。

年表で見る緊縛・SM文化
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1866〜67年 | 月岡芳年と落合芳幾が『英名二十八衆句』を競作する |
| 1882年 | 伊藤晴雨が東京の浅草に生まれる(1880年説もある) |
| 1885年 | 芳年の代表作『奥州安達が原ひとつ家の図』が刊行される |
| 1927〜32年 | 晴雨の『いろは引・江戸と東京風俗野史』が刊行される |
| 1928年 | 晴雨の『責の研究』が刊行され、発禁処分を受ける |
| 1947年11月 | 『奇譚クラブ』が創刊される |
| 1951年 | 『奇譚クラブ』が内容をSM中心に切り替える |
| 1954・55年 | 『奇譚クラブ』が一時的に発行禁止処分を受ける |
| 1956年 | 須磨利之が久保書店から『裏窓』を創刊する |
| 1961年 | 晴雨が死去(1月28日) |
| 1962年 | 団鬼六『花と蛇』が『奇譚クラブ』8・9月合併号に載る |
| 1968年 | 『SMマガジン』が創刊される |
| 1972年 | 団鬼六の会社が『SMキング』を発行する |
| 1974年 | 日活ロマンポルノ初のSM映画『花と蛇』が公開される |
| 1975年3月 | 『奇譚クラブ』が終刊する |
| 2016年 | 江戸東京博物館で「伊藤晴雨 幽霊画展」が開かれる |
| 2024年 | 河原梓水『SMの思想史』(青弓社)が刊行される |
規制と社会の見方
この文化は、長く取締りと隣り合わせにあった。晴雨の『責の研究』は1928年に発禁処分を受け、『奇譚クラブ』も1950年代に二度、一時的な発行禁止を受けている。出版物や映像は、刑法のわいせつ物頒布等の罪などの枠組みで判断され、時代の社会通念によって線引きが動いてきた。一方、愛好者のコミュニティは、雑誌の読者欄や文通という、匿名の場で育った。
身体を縛る行為には、血流や神経に影響が出るなど、現実の危険が伴うことが知られている。そのため、現代の議論では、当事者間の合意と安全への配慮が前提とされる。創作として描かれる世界と、実際の行為は区別して考える必要がある。
現代|学術研究と国際的な広がり
近年は、SMを文化史・思想史の対象として研究する動きが進んでいる。2024年5月に青弓社から刊行された、歴史学者・河原梓水の『SMの思想史 戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望』は、1950年代の戦後風俗雑誌7誌を全号通覧し、『奇譚クラブ』の史料としての価値を検討した。サディズムが「病理」から「遊戯」へと位置づけ直されていく過程や、同意、自立、愛といった論点を扱っている。それまで名前は広く知られていても、本格的な研究は少なかった雑誌が、学術の対象になったわけだ。
国際的には、日本の緊縛が Kinbaku や Shibari の名前で紹介され、実演や撮影、アートの分野に取り入れられている。一般向けの解説では、1970〜80年代にSM雑誌を通じて海外に伝わり、1990年代以降はインターネットで広がったとされる。どこまでを日本の伝統とみなすか、という問いは、前述の起源をめぐる俗説とも関わるため、歴史を知ることが、誤解を避ける土台になる。
まとめ
緊縛・SM文化の歴史は、江戸末〜明治の無残絵、大正〜昭和の伊藤晴雨の責め絵と風俗考証、戦後の『奇譚クラブ』と団鬼六の時代、そして近年の学術研究という流れでたどれる。「捕縄術が起源」という通説は俗説とされ、現在の様式の多くは、戦後の雑誌文化の中で形づくられた。出版や映画の規制と、匿名の読者共同体という二つの側面を押さえておくと、この分野の位置づけが見えてくる。ほかの風俗の歴史は、風俗の歴史の一覧からたどれる。
よくある質問
Q. 緊縛の起源は江戸時代の捕縄術ですか?
A. そうした説明が広く流布していますが、事実とは言いがたい俗説とされます。戦後の緊縛の担い手のなかに捕縄術を参考にした人はいますが、起源を意味しません。江戸の無残絵も絵画で、実践との直接の系譜を示す史料は見つかっていません。
Q. 伊藤晴雨はどんな画家ですか?
A. 1882年に東京の浅草に生まれ、1961年に没した画家です。責め絵や幽霊画を描き、江戸の風俗を調べる時代考証家としても知られました。2016年には江戸東京博物館で幽霊画展が開かれています。
Q. 『奇譚クラブ』とはどんな雑誌ですか?
A. 1947年11月から1975年3月まで出版された読者投稿雑誌で、1951年からSMを中心に扱いました。団鬼六の『花と蛇』などが掲載され、愛好者が匿名で交流する場でもありました。
Q. 責め絵と無残絵は同じですか?
A. 別のものです。無残絵は、幕末から明治に流行した残酷な場面を描く浮世絵で、月岡芳年が代表です。責め絵は、縛られたり折檻されたりする人物を主題にした絵で、伊藤晴雨が第一人者とされます。
Q. 団鬼六の『花と蛇』はいつ生まれましたか?
A. 1962年の『奇譚クラブ』8・9月合併号に載ったのが始まりで、連載は断続的に約13年続きました。1974年には日活ロマンポルノ初のSM映画として公開され、大ヒットしました。
Q. 現代ではどう扱われていますか?
A. 学術研究の対象になっており、2024年には河原梓水『SMの思想史』が刊行されました。海外では Kinbaku や Shibari の名でアートや実演の分野に取り入れられています。
参考にした資料
- Wikipedia「緊縛」、「捕縄術」、「月岡芳年」
- Wikipedia「伊藤晴雨」、コトバンク「伊藤晴雨」(世界大百科事典ほか)
- 国立新美術館 アートコモンズ「伊藤晴雨 幽霊画展」(江戸東京博物館、2016年)
- Wikipedia「奇譚クラブ」、「須磨利之」、「団鬼六」
- 青弓社「SMの思想史 戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望」(河原梓水、2024年)
- 団鬼六『伊藤晴雨物語』(河出文庫、1987年)、金森敦子『お葉というモデルがいた』(晶文社、1996年)、飯田豊一『『奇譚クラブ』から『裏窓』へ』(論創社、2013年)
あわせて読みたい
このテーマの全体像:日本の性文化史ガイド(成人映画・出版・表現史)
成人映画・出版・メディア・わいせつ裁判の年表と読み方。前後に読むならこのあたり。

コメント