※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の作品・施設・営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
日本のストリップ劇場は、戦後まもない1947年に東京で生まれ、浅草を舞台に大衆娯楽として全国へ広がった。だが1960年代の取締りや客層の変化、1985年の新風営法の施行などを経て数は大きく減り、報道では現在20軒ほどとされる。この記事では、額縁ショーのあとの、戦後から現代までの劇場文化を歴史として整理する。
日本のストリップ劇場の歴史
舞台は浅草六区|明治から続く興行街
ストリップ劇場の話は、浅草六区の歴史から始めると分かりやすい。浅草寺の境内は1873年に公園となり、1884年に東京府が公園地を一区から六区に分けた。六区は埋立地につくられた興行街で、1887年には最初の劇場「常盤座」が建った。1903年には日本初の映画専門館「電気館」が開場し、六区は映画と演劇の町として栄えた。
1923年の関東大震災と1945年の東京大空襲で、一帯は大きな被害を受けた。それでも終戦後まもなく劇場は再建され、軽演劇、女剣劇、ストリップ、コントなどが人気を集めた。戦後の六区は、庶民の娯楽が一か所に集まる場所だった。
1947〜48年|ロック座の開館と踊りを取り入れたショー
1947年1月15日、新宿の帝都座5階で、動かない「額縁ショー」が上演された。企画の中心にいたのは、東宝の幹部だった秦豊吉だ。浅草ではその同じ年の8月15日に「ロック座」が創立された。宇都宮の実業家らが浅草六区の映画館の復活を準備していたところへ、秦がストリップの将来性を説いたため方針を変え、国華興業を設立して、万盛座の跡地に開館したと伝えられる。翌1948年には経営が東洋興業に移った。
1948年3月には、常盤座で、初めて踊りを取り入れた本格的なストリップが演じられた。額縁ショーが「動かない絵」だったのに対し、ここから舞台上の演目として発展していく。なお、この常盤座の公演を1947年3月とする資料もあり、年は一致していない。以後、浅草のストリップ興行は、東洋興業と中映(中央映画社)が競い合うかたちで育った。
大手興行の参入|日劇ミュージックホールなど
ストリップは浅草だけのものではなかった。松竹は東劇バーレスク・ルームや浅草公園劇場の「パークバーレスク」で、東宝は日劇ミュージックホールで、東京吉本なども含めて、大手の興行会社が相次いで参入し、全国的な大衆娯楽になったとされる。
日劇ミュージックホールは、1952年に有楽町の日本劇場5階の小劇場に開設された。創設者の劇作家・丸尾長顕は、東宝の小林一三から「上品なエロチズムの探求」という条件で承諾を得たと伝えられる。上演されたのは、最初からトップレスのダンサーが踊るレヴューで、衣装を脱いでいく過程を見せるストリップとは異なる。黄金時代は1952年の創立から1958年頃とされ、三島由紀夫、寺山修司らが特別な演目の脚本を手がけたという。劇場は1984年に閉鎖され、跡地には有楽町マリオンが建った。
ストリップ劇場とコント|喜劇人を育てた舞台
1950年代以降、ロック座や浅草フランス座などの劇場は、踊りの合間にコントを演じる場にもなった。フランス座は、映画館「三友館」の跡地に東洋興業の創業者が1951年に開いた劇場で、名付け親は永井荷風とされる。ロック座やフランス座の舞台からは、佐山俊二、渥美清、由利徹、三波伸介、伊東四朗、萩本欽一、坂上二郎ら多くの喜劇人が育ったとされ、井上ひさしもフランス座で無名時代に座付き作者を務めた。1970年代にはビートたけしがフランス座で修行している。
つまりストリップ劇場は、芸人にとっては最初の舞台であり、修行の場でもあった。幕間のコントという文化は、1980年代までは渋谷の劇場などでも続いたが、その後は養成所が修行の場となり、現在ではほぼなくなったとされる。
年表|戦後のストリップ劇場の主な出来事
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1947年1月 | 新宿・帝都座で額縁ショー『ヴィナスの誕生』 |
| 1947年8月 | 浅草にロック座が創立される |
| 1948年3月 | 浅草の常盤座で踊りを取り入れた本格的なストリップ(1947年とする資料もある) |
| 1948〜50年 | 広島のストリップ劇場が摘発され、1950年に最高裁が公然わいせつ罪にあたると判断 |
| 1951年 | 浅草フランス座が開設される(東洋興業) |
| 1952年 | 日劇ミュージックホールが開設される |
| 1965年8月 | 警察庁が全国で一斉取締り。313軒のうち90軒が摘発される |
| 1971〜72年 | 東洋興業がストリップから撤退。ロック座は出演者出身の経営者へ |
| 1984年 | 日劇ミュージックホール閉鎖。ロック座が改築のため閉館 |
| 1985年 | 新風営法が施行され、劇場が激減。ロック座はビルを新築して再開 |
| 1991年9月 | 常盤座が閉館(104年の歴史に幕) |
| 1999〜2000年 | フランス座がストリップ興行をやめ、東洋館として演芸場に |
| 2012年 | 浅草六区の最後の映画館5館が閉館 |
| 2021年4月 | 警視庁がシアター上野を摘発し、6人が公然わいせつの現行犯で逮捕 |
| 2023年 | 全国の劇場数は約18軒とされる |
取締りと規制|1950年の最高裁から1985年の新風営法へ
ストリップは、始まった当初から取締りと隣り合わせだった。1948年には広島市の劇場が摘発され、劇場側は芸術だと主張して争ったが、1950年の最高裁は、女性が下半身を露出して約1分半ポーズをとった行為などを公然わいせつ罪にあたると判断した。
1960年代には演出が過激化し、取締りも強まった。1965年8月、警察庁は全国のストリップ劇場に一斉取締りを行い、全国313軒のうち90軒が何らかの理由で摘発されたとされる。この取締りの通称は、確認した資料には見当たらなかった。
決定的だったのは、1985年に施行された改正風営法(新風営法)である。取締りが強まって劇場は大きく減り、閉店した跡地には新しい営業許可が下りない仕組みになったことが、減少に拍車をかけたとされる。現在、ストリップ劇場は興行場法の「興行場」であるとともに、風営法上は店舗型性風俗特殊営業の一つとされ、既存施設の増改築や移築、新規開業は原則として許可されていないという。条件は厳しく、新しい劇場が増えにくい構造になっている。
摘発は現代にもある。2021年4月14日には、警視庁がシアター上野を摘発し、経営者とダンサーら6人が公然わいせつの現行犯で逮捕された。
風営法の歴史全体については、風営法の歴史の記事でまとめている。
最盛期から衰退へ|浅草の人通りと劇場数
浅草六区は1950年代後半に最盛期を迎えたが、テレビの時代と1964年の東京オリンピックを経て、若者文化の中心は新宿、渋谷、池袋へ移った。六区のショー劇場は1954年に10軒あったが、1969年までに次々に閉館した。ロック座の踊り子は1955年に約30人いたのが、1969年には5人にまで減った。関西発祥の過激なショーが主流になる流れもあり、東洋興業はストリップ興行からの撤退を決め、浅草・新宿・池袋のフランス座を閉めた。ロック座は1972年に出演者出身の経営者へ正式に譲渡された。
全国の劇場数は、資料によって幅がある。1970年代の全盛期に300〜400軒あったとする記述がある一方、1977年は197軒とする記述もある。1980年代にはアイドル系の踊り手が人気を集め、AV女優の出演も目玉になった。だが1990年代のバブル崩壊とともに過激な演出は廃れ、劇場数も減った。2023年に全国18軒とする資料があり、2025年の報道では20軒ほどとされる。2000年のススキノ、2013年の船橋、2019年の歌舞伎町など、閉館の例は各地で続いてきた。
かつてフランス座だった劇場は、1999年(資料により2000年)にストリップ興行を打ち切り、同じ運営会社が「東洋館」の名で演芸場として続けている。常盤座も1984年に休館し、1987年に演劇や音楽ライブの会場として復活したが、1991年9月30日に建物の老朽化と再開発のため閉館した。
現在の劇場文化|ダンスとしての再評価
近年は、劇場の性格が変わってきたという指摘がある。ステージにエアリアル(空中演技)など高い技術を取り入れる劇場があり、女性客やカップル向けの席を設ける劇場も増えている。ロック座では、多いときに女性客が3割にのぼったという証言がある。一部の都市部の劇場では、入場料のほか、出演者との撮影の売り上げが経営を支えているとされる。外国人観光客が増えているという記述もある。
経営は厳しく、地方の老朽化した劇場が修繕費をクラウドファンディングで募り、3日間で目標の約500万円を超えた例が2025年に報じられた。目標に届かなければ廃業しかない、という危機感が語られていた。2018年にはNHKの番組「ノーナレ」が特集し、ダンス批評家の武藤大祐は2022年の著作でストリップをダンスの「ハードコア」と位置づけている。娯楽というだけでなく、舞踊の一つのかたちとして見直す動きも出ている。
浅草そのものでも、2012年に六区から映画館がなくなったあと、2013年から「浅草六区再生プロジェクト」が進められ、商業施設の開業やオープンカフェなどの取り組みが続いている。
文学・映画・演劇に残った劇場
ストリップ劇場は、多くの作品の舞台にもなった。演劇では、井上ひさし作『日本人のへそ』(1969年初演、1977年映画化)、つかこうへい作『ストリッパー物語』(1973年初演)がある。映画では、1951年の『カルメン故郷に帰る』、1972年に神代辰巳が日活で撮った『一条さゆり 濡れた欲情』、1975年の森﨑東監督『喜劇 特出しヒモ天国』などが挙げられる。1970年代には、テレビ番組『8時だョ!全員集合』で加藤茶がストリップをモチーフにしたギャグを演じて人気を博した。この時代の劇場は、お笑いや演劇と地続きの大衆文化だったことが分かる。
昭和の歓楽文化の広がりは、キャバレーの歴史と並べて読むとつかみやすい。
まとめ
日本のストリップ劇場は、1947年の額縁ショーと浅草ロック座の創立から始まり、1948年に踊りを取り入れた本格的な興行へと進んだ。浅草のフランス座などは、コントを通じて多くの喜劇人を育てた。一方で1950年の最高裁判決、1965年の一斉取締り、1985年の新風営法と、規制は段階的に強まり、新規開業が難しい仕組みもあって、劇場は全盛期の数百軒から20軒ほどにまで減った。いま劇場は、娯楽というより舞踊として評価される場面も増えている。
よくある質問
Q. ストリップ劇場は浅草でいつ始まりましたか?
A. 1947年8月15日にロック座が創立され、1948年3月には常盤座で踊りを取り入れた本格的なストリップが演じられました。常盤座の公演を1947年とする資料もあります。
Q. 日劇ミュージックホールはストリップ劇場ですか?
A. 1952年に開設された劇場で、昭和の裸体舞踊を代表する施設とされますが、上演の中心は最初からトップレスの女性ダンサーによるレヴューで、衣装を脱いでいくストリップとは異なると説明されています。
Q. ストリップは違法とされたことがありますか?
A. 1948年に広島の劇場が摘発され、1950年に最高裁が公然わいせつ罪にあたると判断しました。1965年8月には警察庁が全国で一斉取締りを行い、313軒のうち90軒が摘発されたとされます。
Q. 劇場はなぜ減ったのですか?
A. 1985年の新風営法で取締りが強まったこと、閉店した跡地に新しい許可が下りない仕組み、アダルトビデオやインターネットなど他の娯楽の増加、バブル崩壊などが理由として挙げられています。
Q. 全国に今は何軒あるのですか?
A. 資料によって異なり、2023年に18軒とする記述や、2025年の報道で20軒ほどとする記述があります。最盛期は300〜400軒といわれます。
Q. フランス座は今もありますか?
A. ストリップ興行は1999年(資料により2000年)に打ち切られ、同じ運営会社が「浅草フランス座演芸場東洋館」という演芸場として続けています。
参考にした資料
- Wikipedia「ストリップ (性風俗)」「ストリップ劇場」「浅草ロック座」「浅草公園六区」「浅草フランス座」「常盤座」「帝都座」「日劇ミュージックホール」「秦豊吉」「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」
- さんたつ「六区のストリップ劇場」(2021年12月更新)https://san-tatsu.jp/articles/146044/
- プレジデントオンライン(2025年、地方劇場のクラウドファンディングに関する記事)https://president.jp/articles/-/105825
- 文春オンライン「現代のストリップ」(2021年6月)https://bunshun.jp/articles/-/46360

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