※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や人数は資料によって異なる場合があります。現地は住民が暮らす生活の場です。
古町花街は、新潟市中央区の古町通8番町・9番町を中心にひろがる花街だ。信濃川の河口に開けた湊町・新潟では、江戸時代から旅人や商人をもてなす座敷の文化が育ち、明治に入ると芸を売る街として整えられた。戦災や1964年の新潟地震を大きく受けなかったため、明治後期から昭和初期の料亭や置屋の建物が残り、いまも芸妓が活動する数少ない地方の花街のひとつだ。この記事では営業の案内ではなく、古町花街が生まれた背景、遊廓との関係、芸妓の歴史と人数の移り変わり、建築と文化財を、確認できた範囲で整理する。
古町花街の要点
古町花街とは|場所と範囲
古町花街があるのは、新潟島と呼ばれる信濃川河口の砂州にひろがる旧市街の中ほどだ。区域は、古町通の8番町・9番町、西堀前通の8番町・9番町、東堀通の8番町・9番町で形づくられる。かつては周囲を堀で囲まれた区画で、堀は1960年代に埋め立てられた。中央を南北に古町通、東西に坂内小路が走り、古町通をはさんで、裏通りにあたる東新道と西新道が南北に通る。明治後期からの建物は、西新道の9番町側と東新道に多く見られる。
古町というエリア全体は、1655年(明暦元年)の町づくりで骨格ができた港町の街並みを受け継ぐ。堀に沿って柳が植えられたことから、新潟は「柳都(りゅうと)」とも呼ばれる。銀行や企業が集まる柾谷小路周辺から北側(下手)にかけては、古町花街を中心とする繁華街になっている。花街と遊廓の言葉の違いは、花街と遊郭の違いと遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。
湊町・新潟|北前船と花街の土台
新潟は、日本海側の大きな河口港として、江戸時代に北前船が寄港する湊のひとつに数えられた。1843年(天保14年)に幕府領となり、初代の新潟奉行が置かれている。1858年の日米修好通商条約で開港五港のひとつに指定されたが、港の水深が足りず開港は遅れ、新潟港が外国船に開かれたのは1869年1月1日(明治元年11月19日)だった。
人と物と情報が集まる港には、座敷でもてなす文化が根づく。新潟の観光協会は、北前船の船乗りや文人、政財界の人びとを、料亭と古町芸妓がもてなしてきたと紹介する。古町芸妓の起源は、江戸時代にいた「新潟遊女」にさかのぼると言われるが、年次や経緯を確かな史料で確かめられる形では、今回の調査で確認できなかった。ここでは、湊町の遊びの文化が土台にあった、という程度にとどめておく。

Utagawa Hiroshige II / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
遊廓と花街が分かれた|1898年
江戸時代の新潟には、広い意味での花街がいくつかの場所に点在していた。転機は明治の後半だ。研究者の澤村明は、明治20年代に大火が続いたのを契機に、新潟県が市内の遊廓を整理して移転させ、古町には芸を売る狭い意味の花街がつくられたと説明する。1898年(明治31年)8月には、各地に散らばっていた遊廓が本町通14番町と常磐町(現在の翁町)に統合され、「新潟遊郭」ができたとされる。これにより、古町通の8番町・9番町には、芸妓だけの花街が生まれた。
全国的にも、1900年(明治33年)の娼妓取締規則で売買春が一定の地区に限られ、芸を売る街と色を売る街がほぼ分離していった。新潟の動きは、その流れの中にある。置屋の起源も、この時期に求められる。1879年(明治12年)に芸妓が貸座敷に同居することが禁じられ、芸妓は遊女と別に暮らすようになった、という年表がある。遊廓の側は戦後に赤線を経て、1958年に終わった(売春防止法の経緯)。新潟の遊廓については、中部・北陸の遊郭跡でもまとめている。

古町芸妓の芸|呼び名と市山流
京都では一人前の芸妓を「芸妓(げいこ)」、見習いを「舞妓」と呼ぶが、新潟では一人前を「留袖(とめそで)」、見習いを「振袖(ふりそで)」と呼ぶ。振袖は18歳以上の若い芸妓で、留袖になるまでには7〜8年かかるとされる。お座敷で披露する舞は、市山流が中心だ。
市山流は、19世紀半ばから続く新潟の日本舞踊の家元で、古町芸妓を指導してきた。慶応2年(1866年)に四代目市山七十世が市山の姓を受け、明治13年(1880年)には古町通8番町の貸座敷の広間を借りて稽古をつけたと伝わる。のちに新潟市の無形文化財第1号に指定されたのは2003年だ。毎年6月ごろには、古町芸妓が出演する舞台「ふるまち新潟をどり」が開かれている。
最盛期から減少へ|芸妓の人数
古町芸妓の人数は、時代によって大きく変わった。明治後期には約200人が芸を競ったとされ、最盛期には約400人にのぼったと紹介する資料もある。1914年(大正3年)に新潟市が信濃川対岸の沼垂町と合併すると、花街は古町、下町、沼垂の3つになった。昭和30年代の古町芸妓は200人前後で、1960年に出されたガイドブックには202人が載る。
| 年 | 古町芸妓の人数など |
|---|---|
| 明治後期 | 約200人とされる(観光協会の紹介) |
| 1960年 | 202人を掲載したガイドブックが出る |
| 1966年 | 168人に減少 |
| 1970年 | 136人に減少。1968年以降は振袖の希望者がいなくなる |
| 1976年 | 110人に減少 |
| 1986年 | 60人。最年少が36歳、平均年齢53歳と高齢化 |
| 1987年 | 柳都振興株式会社が設立される |
| 2011年5月 | 芸妓26人、料亭16軒(うち3軒は古町地区外。研究論文による) |
減少の背景には、娯楽の多様化や、企業の接待の減少がある。若手が育たないまま平均年齢が上がるのを見て、1987年(昭和62年)に設立されたのが柳都振興株式会社だ。全国で初めての「芸者置屋の株式会社」とされ、資本金は7,000万円。商工会議所が中心となり、料亭の関係者や新潟の財界人、企業が出資した。芸妓を会社員として雇う形で、所属の芸妓は「柳都さん」と呼ばれる。2011年時点で10人が在籍し、これまでに41人が入社して、一人前の留袖になったのは6人という分析もある。芸妓の人数は、近年は20人台前半と紹介されている。
戦災を免れた町並み|料亭建築と文化財
古町花街は、第二次世界大戦の空襲に遭わず、1964年の新潟地震でも大きな被害を受けなかった。そのため、明治から戦前の花柳界の雰囲気を伝える建物が残った。京都型の平入りと違い、妻入りの町屋が並ぶのも特徴で、現役の花街でこの様式が主体なのは全国でも唯一とされる。東新道の路面は、2020年4月までに石畳の舗装が完成している。
建物の一部は、国の登録有形文化財になっている。文化庁の登録データでわかる主なものは次のとおりだ。
| 名称 | 所在地 | 登録年月日 | ポイント |
|---|---|---|---|
| 鍋茶屋 主屋ほか | 中央区東堀通8 | 2000年4月28日 | 1846年創業とされる料亭の建物群。主屋は1910年築、1937年に増改築した木造3階建て。計7棟 |
| 行形亭 主屋ほか | 中央区西大畑町 | 2000年4月28日 | 主屋のほか座敷、土蔵、門などを含む10件が登録 |
| 瓢亭(旧花岡家住宅) | 中央区古町通8 | 2023年8月7日 | 1934年ごろ築。かつて古町芸妓を指導した師匠の住居兼稽古場 |
| 旧割烹有明 表棟・中棟・奥棟 | 中央区古町通 | 2024年12月3日 | 1907年創業の割烹の建物。のち芸妓の支度部屋としても使われた |
鍋茶屋の主屋について、文化庁の解説は、おおむねH字形の平面で、各室が1階から3階へ向かうほど大きくなり、欄間や棚に近代和風の意匠が凝らされていると説明する。花街の建物を守る動きは、市民団体の「古町花街の会」(2012年設立)が担ってきた。その活動は、2018年に日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」に登録されている。

撮影・作者: DAI-nk / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

撮影・作者: もけけんぬ / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

撮影・作者: Suikotei / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
古町花街の歴史年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1655年 | 新潟町が移転し、現在の古町の街並みの骨格ができる(明暦の町建て) |
| 1843年 | 新潟町が幕府領となり、新潟奉行が置かれる |
| 1866年 | 四代目市山七十世が市山の姓を受ける |
| 1869年1月 | 新潟港が外国船に開港する |
| 1879年 | 芸妓の貸座敷への同居が禁じられる |
| 1880年 | 市山流が古町で稽古をつけ、定着していく |
| 1898年8月 | 遊廓が本町通14番町・常磐町に統合され、古町通8・9番町に芸妓だけの花街が生まれる |
| 1908年 | 大火で古町の花街の大半が焼ける。鍋茶屋の現在の建物は1910年に再建 |
| 1914年 | 沼垂町と合併し、古町・下町・沼垂の3花街になる |
| 1944年 | 決戦非常措置要綱により、置屋や芸妓が休業となる |
| 1964年 | 新潟地震。古町花街は大きな被害を受けなかったとされる |
| 1987年 | 柳都振興株式会社が設立される |
| 2003年 | 市山流が新潟市の無形文化財に認定される |
| 2018年 | 古町花街の会の活動がプロジェクト未来遺産に登録される |
| 2023〜24年 | 瓢亭(旧花岡家住宅)と旧割烹有明が国登録有形文化財に |
まとめ
古町花街は、北前船の寄港地として栄えた湊町・新潟が育てた座敷の文化を受け継ぐ花街だ。1898年に遊廓が別の場所へ移され、古町は芸妓だけの街になった。戦後は娯楽の多様化や接待の減少で芸妓が減り、1960年の200人超から、1980年代には60人まで落ち込んだが、1987年の柳都振興の設立や、市山流の継承、建物を守る市民の活動によって続いてきた。戦災を免れた料亭や置屋の建物は、国の登録有形文化財としても評価されている。古町花街は、遊廓の街とは別に、新潟の芸と建築を伝える歴史的な町並みと見るのがよい。
よくある質問
Q. 古町花街はどこにありますか?
A. 新潟市中央区の古町通8番町・9番町を中心に、西堀前通と東堀通の8・9番町にひろがる。東新道と西新道が裏通りとして通り、明治後期からの建物は東新道に多い。
Q. 古町花街は遊廓だったのですか?
A. いいえ。1898年に遊廓が本町通14番町・常磐町へ統合され、そのあとの古町通8・9番町が芸妓だけの花街になった。遊廓と花街は別のものだ(花街と遊郭の違い)。
Q. 新潟では芸妓や舞妓を何と呼びますか?
A. 一人前の芸妓を「留袖」、見習いを「振袖」と呼ぶ。京都の芸妓・舞妓にあたる。留袖になるまでには7〜8年を要するとされる。
Q. 古町芸妓は今何人くらいいますか?
A. 2011年5月は26人で、そのうち10人が柳都振興の社員だった。近年の紹介記事では、柳都振興が12人、置屋が9人の計21人とされる。人数は年によって変わる。
Q. 柳都振興とは何ですか?
A. 1987年に設立された、全国初の「芸者置屋の株式会社」とされる会社だ。資本金は7,000万円で、商工会議所が中心となり、料亭の関係者や財界人が出資した。芸妓の担い手を確保するための仕組みだ。
Q. 文化財になっている建物はありますか?
A. 鍋茶屋と行形亭は2000年4月28日、瓢亭(旧花岡家住宅)は2023年8月7日、旧割烹有明は2024年12月3日に、国の登録有形文化財になっている。
参考にした資料
- 澤村明「花街の新しい試み -東京神楽坂「粋まち」と新潟「柳都振興」-」『新潟大学経済論集』第92号、2011年(新潟大学学術リポジトリ)
- 文化遺産オンライン(文化庁)「鍋茶屋主屋」(該当ページ)
- 新潟市「市内の国登録文化財一覧」(新潟市公式サイト)
- Wikipedia「古町花街」「古町芸妓」「鍋茶屋」「行形亭」「古町 (新潟市)」「新潟市の歴史」(古町花街、古町芸妓、鍋茶屋、行形亭)
- 地球の歩き方「古町花街」の紹介記事(芸妓の人数などの参照。該当ページ)
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- 中部・北陸の遊郭跡|新潟・名古屋など
- 花街と遊郭の違い|芸妓・舞妓とは
- 遊郭・遊里・色街・新地・花街の違い
- 日本の遊廓とは?成り立ちと全国の主な遊廓一覧
- 売春防止法(1956年)の歴史
- 歴史・トリビア記事の一覧
このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(東日本編)
北海道・東北・関東・甲信越・北陸・静岡の旧遊廓と花街の歴史。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 写真: DAI-nk 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
- 写真: もけけんぬ 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
- 写真: Suikotei 撮影(CC BY 4.0)/Wikimedia Commons
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