※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の作品・施設・営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
かつて、駅前や繁華街の外れ、鉄道の高架下には、昼間から暗がりの中で映画を観られる小さな映画館が並んでいた。旧作を2本、3本とまとめて見せる名画座と、成人向けの映画を専門に上映する成人映画館は、どちらも昭和の映画文化と街の風景の一部であり、いまは大半が姿を消した。この記事では、全国の映画館数の推移を手がかりに、名画座と成人映画館がどのように生まれ、なぜ閉館が続いたのかを、歴史として整理する。作品の中身ではなく、館の成り立ちと街との関わりが主題だ。
名画座と成人映画館の歴史
映画館の黄金期|1958年と1960年のピーク
日本映画製作者連盟(映連)の統計によると、全国の映画館の入場者数は1958年に約11億2,700万人でピークを迎えた。スクリーン数が最も多かったのは1960年の7,457で、その後は減少に転じる。テレビの普及により、映画館へ足を運ぶ人が減りはじめた時期だ。減少は長く続き、1955年以降の統計で最も少ないのは1993年の1,734スクリーンだった。
この数字が示すように、昭和の映画館は「放っておいても人が入る」商売ではなくなっていく。大手の映画会社は、自社の封切館を維持しながら、客足の落ちた館を別の形で生き残らせる必要に迫られた。その延長線上で、旧作を安く見せる名画座や、独立系の成人映画を上映する専門館が増えていった。
名画座とは|旧作を安く、まとめて見せる映画館
名画座は、主に旧作の映画を上映する映画館の総称だ。上映の組み方は、作品を寄せ集めたもの、テーマ別のもの、比較的新しい作品を中心にしたものなど館によって異なる。かつて「二番館」「三番館」と呼ばれた、封切りから時間をおいて上映する館も、広い意味では名画座に含まれる。2本立て、3本立てが多く、作品ごとの入れ替え制をとらずに途中から入れる館が多いことと、入場料が1,000円前後と手頃なことが特徴だ。
1980年代以降は、レンタルビデオ、ケーブルテレビ、DVD、動画配信と、自宅で旧作を観る手段が次々に増えた。名画座の需要はそのたびに減り、全国的に館数は減る傾向が続いている。映画ファンにとっては、見逃した作品に出会う場であり、同じ客席で見知らぬ人と感情を分け合う場でもあった。
名画座の閉館と再生|並木座、文芸坐、シネパトス
名画座の閉館は、1990年代から目立ちはじめる。東京の銀座並木座は1998年9月22日に、大井武蔵野館は1999年1月31日に閉館した。銀座のシネパトスは、2013年3月31日に閉館している。
池袋の文芸坐は、少し違う経緯をたどった。1956年に、作家の三角寛が、東口の映画館「人世坐」の姉妹館として現在の場所に開いた。1960年代には松竹系の洋画の封切館だった時期があり、1970年代に名画座となった。建物の老朽化などを理由に1997年3月に閉館したが、同じ場所に建てられたビルの中で、2000年12月12日に「新文芸坐」として復活した。2本立ての低料金、監督や俳優のトークショー、オールナイト上映が特徴として知られる。名画座の歴史には、閉館だけでなく、場所を受け継いで再開する例もあることが分かる。

撮影・作者: RuinDig/Yuki Uchida / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons
成人映画館の成り立ち|ピンク映画とロマンポルノの専門館
成人映画館は、映倫が成人向けに指定した映画を上映する館をいう。映倫は1954年8月に「青少年向」「成人向」の選定を始め、1957年には「成人映画」の呼び名が使われるようになった。1962年の『肉体の市場』をきっかけに、独立系の会社がつくるピンク映画が広がると、上映する専門館も増えていった。1960年代の半ばには、新東宝興業や大蔵映画が、全国の成人映画館のチェーン化を進めた。ピンク専門館は1968年に約200館、1970年に220館とされ、東宝系の約160館を上回ったという記述がある。館数は資料によって差があり、正確な統計があるわけではない。ピンク映画そのものの歴史は、日活ロマンポルノの歴史の記事とあわせて読むと、背景がつかみやすい。
成人映画館の多くは、もともと別の目的で建てられた館の転用だった。たとえば京都の本町館は、1951年に木造2階建て・約400席の映画館として開館し、当初は東宝、松竹、大映、日活、東映の五社の作品を上映していた。1971年に日活がロマンポルノを始めたのを機に、成人向け作品を主に上映する館へ変わったと、同館の沿革に記されている。客足の落ちた一般館が、成人映画で営業を続けたという流れは、全国のあちこちで見られた。
街の風景としての映画館|高架下、地下、駅前
こうした館は、街の中心から少し外れた場所に多かった。東京の新橋では、JRの高架下に新橋文化劇場と新橋ロマン劇場が並んでいた。ともに客席は81席ほどの小さな映画館で、35ミリフィルムで上映し、入れ替え制をとらず、900円で一日中過ごせる点が愛されていた。両館は合わせて1957年から60年近く続いたとされ、2014年8月31日に閉館した。理由については、耐震補強のためとする紹介がある。ロマン劇場の最後の上映は、成人向けの3本立てだったという。
飯田橋のくららは、神楽坂に近いビルの地下にあった成人映画館で、昭和30年代の開館から約60年続き、2016年5月31日に閉館した。報道によると、この閉館で、東京都内に残る成人映画館は4館になった。大阪市東住吉区のタナベ国際劇場は、1958年に「田辺国際映画劇場」の名で洋画の3本立ての館として開業し、1970年代末に1階をパチンコ店に改装して2階に2館を設けたときに、いまの名前になった。座席は約90席で、ピンク映画の上映館として知られたが、2012年3月31日に、姉妹館とともに閉館した。

撮影・作者: street viewer2 / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
浅草六区|映画の街から映画館のない街へ
映画館の街として知られた浅草六区の変遷も、閉館の歴史を考えるうえで外せない。テレビ東京の番組紹介では、最盛期には30館近くの映画館が集まっていたとされる。しかし、浅草東映は2003年5月22日に、浅草東宝劇場は2006年2月13日に閉鎖された。そして2012年には、中映系の最後の5館が相次いで閉館する。9月17日に浅草世界館、9月25日に浅草シネマ、10月21日に浅草新劇場、浅草中映劇場、浅草名画座だ。日本語版Wikipediaは、これで六区から映画館が完全に消えたと記している。浅草のストリップ劇場の歴史については、日本のストリップ劇場の歴史の記事も参考になる。

パブリックドメイン / Wikimedia Commons

『世界畫報』昭和十二年二月號 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
年表で見る名画座・成人映画館
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1954年8月 | 映倫が「青少年向」「成人向」の選定を始める |
| 1958年 | 映画館の入場者数が約11億2,700万人でピーク |
| 1960年 | 全国のスクリーン数が7,457でピーク |
| 1962年 | 『肉体の市場』公開。ピンク映画の第1号とされる |
| 1968〜70年 | ピンク専門館は約200館(1968年)から220館(1970年)とされる |
| 1971年 | 日活がロマンポルノを開始。成人映画を主とする館が増える |
| 1980年代 | ビデオ・アダルトビデオの普及で映画館の観客が減る |
| 1993年4月 | 日本初のシネコンとされる施設が神奈川県海老名市で開業 |
| 1993年 | 全国のスクリーン数が1,734と最少に |
| 1997年3月 | 池袋の文芸坐が閉館(2000年12月に新文芸坐として再開) |
| 1998年9月22日 | 銀座並木座が閉館 |
| 2012年3月31日 | 大阪のタナベ国際劇場が閉館 |
| 2012年9〜10月 | 浅草六区の最後の映画館5館が閉館 |
| 2013年3月31日 | 銀座シネパトスが閉館 |
| 2014年8月31日 | 新橋文化劇場・新橋ロマン劇場が閉館 |
| 2016年5月31日 | 飯田橋くらら劇場が閉館。都内の成人映画館は4館に |
| 2025年10月30日 | 京都の本町館が閉館(1951年開館) |

閉館が続いた理由|ビデオ、シネコン、デジタル、老朽化
閉館の背景は、一つではない。まず、1980年代以降にビデオが普及し、自宅で映画やアダルトビデオを観られるようになったことが、成人映画館にも名画座にも打撃になった。AVについてはアダルトビデオの歴史で扱っている。さらに、1993年4月に神奈川県海老名市で日本初のシネコンとされる施設が開業すると、郊外の大型の複合映画館が主流になり、都市部の小さな単館は相対的に厳しい立場に置かれた。
設備の問題も大きかった。映画館の上映がフィルムからデジタルに替わると、映写機の入れ替えに費用がかかる。タナベ国際劇場は、デジタル上映設備への投資を断念したことが閉館の理由とされる。新橋の両館のように、高架下の建物の耐震補強を理由に閉じた例もある。ダイヤモンド・オンラインの2015年ごろの記事では、上野の成人映画館の事例を取り上げて、観客の高齢化、シネコンの拡大、施設の老朽化が閉館の原因として語られていた。同じ記事は、10年前に国内に100館以上あったピンク映画館が、半分以下になったと伝えている。
現在|シネコンが9割、残る名画座と専門館
映連の統計では、2025年の全国のスクリーン数は3,697で、そのうちシネコンが3,305を占める。割合にすると約89%で、いまの映画館はほとんどがシネコンだといってよい。1960年のピーク時の約半分の数字ではあるが、1993年の最少からは倍以上に回復している。ただし、その中身は大きく入れ替わった。
名画座は数を減らしながらも、東京の神保町シアター、早稲田松竹、ラピュタ阿佐ヶ谷、新文芸坐、福岡県の小倉昭和館などが、現存する館としてWikipediaの名画座の項目に挙がっている。成人映画館も細々と続いているが、京都の本町館が2025年10月30日に閉館するなど、閉館の知らせは止まっていない。個人経営の館が多く、老朽化と後継者の問題を抱える点は、名画座にも共通する。
まとめ
名画座と成人映画館は、テレビの普及で観客を失った映画館が、旧作の安価な上映や、独立系の成人映画という形で生き残りを図った結果として、街の風景に根づいた。やがてビデオ、シネコン、デジタル化、老朽化が重なり、館数は急速に減った。小さな映画館の閉館は、一つの建物がなくなるだけでなく、そこで育った映画の見方や、街の記憶が消えることでもある。昭和の娯楽をほかにも知りたい方は、歴史・トリビア記事の一覧や、ノーパン喫茶の昭和ブームの歴史も参考にしてほしい。
よくある質問
Q. 名画座とは何ですか?
A. 主に旧作の映画を上映する映画館の総称です。2本立てや3本立てが多く、作品ごとの入れ替え制をとらずに途中から入れる館が多いとされます。
Q. 成人映画館とは何ですか?
A. 映倫が成人向けに指定した映画を上映する映画館です。ピンク映画やロマンポルノの上映館として、1960年代から昭和の末にかけて各地に広がりました。
Q. なぜ映画館の数が減ったのですか?
A. テレビ、ビデオ、シネコン、動画配信の普及によって、単館の映画館の観客が減ったためです。全国のスクリーン数は1960年の7,457をピークに、1993年には1,734まで減りました。
Q. いまは何館ほど残っていますか?
A. 2025年の全国のスクリーン数は映連の統計で3,697で、その約89%がシネコンです。成人映画館に関する最新の全国統計は確認できませんでしたが、2015年ごろの報道では10年前の半分以下とされ、東京都内では2016年に4館になりました。
Q. 日本初のシネコンはどこですか?
A. 1993年4月に神奈川県海老名市で開業した施設が、日本初のシネコンとされています。
Q. 文芸坐は今もありますか?
A. 1997年に閉館しましたが、2000年12月12日に同じ場所のビルの中で「新文芸坐」として再開しました。
参考にした資料
- 日本映画製作者連盟「過去データ一覧」(スクリーン数・入場者数)https://www.eiren.org/toukei/data.html
- Wikipedia「名画座」「成人映画」「浅草六区」「タナベ国際劇場」「ピンク映画」(日本語版)
- artscape「新橋文化劇場・ロマン劇場」のレビューhttps://artscape.jp/report/review/10103333_1735.html
- 市ケ谷経済新聞「飯田橋『くらら劇場』閉館 都内に残る成人映画館は4館のみに」https://ichigaya.keizai.biz/headline/2377/
- ダイヤモンド・オンライン「女優も歓喜!ピンク映画館で『神イベント』を仕掛けた支配人」https://diamond.jp/articles/-/81112
- 京都 本町館のページ(沿革・閉館のお知らせ)http://pinklink.movie.coocan.jp/honmachi.html
- san-tatsu.jp の新橋文化・新橋ロマン劇場に関する記事https://san-tatsu.jp/articles/58685/
- シネマトゥデイ「失われつつある感性を伝える名画座! 池袋・新文芸坐」https://www.cinematoday.jp/page/A0005831
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