※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
今の喫茶店とは別物の「カフェー」という店が、大正から昭和の初めにかけて、東京の夜を賑わせた。ここじゃ店名や料金には触れず、カフェー時代の流れを歴史の順に教える。
📖 カフェーにまつわるキーワード
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カフェーは、明治の終わりに生まれた
1911年(明治44年)ごろ、東京にいくつかのカフェーが開店した。西洋風の内装で、洋酒や洋食を出す、当時としては新しいタイプの店だった。
最初は、文化人や芸術家が集まるサロンのような場所だった、と伝わっている。そこから、少しずつ姿を変えていった。
「女給」が主役になった
大正時代になると、カフェーには「女給(じょきゅう)」と呼ばれる女性たちが、接客に立つようになった。客席に付いて、酒や話の相手をする仕事だ。
女給は、決まった給料ではなく、客からのチップで収入を得る店が多かった、とされる。この仕組みが、店ごとの競争を生んだ。
関東大震災のあと、夜の街は広がった
1923年の関東大震災のあと、東京の街は復興していく。そのなかで、カフェーは数を増やし、銀座をはじめとする繁華街に、たくさんの店が並んだ。
「カフェー」は、モダンで新しい遊びの場として、流行語のような存在になった。映画や小説にも、盛んに描かれている。
サービス競争が過熱し、規制が入った
店が増えるにつれて、女給の接客はどんどん過激になり、風紀の面で問題視されるようになった。のちに、警察による取り締まりも強まった。
戦時中には、営業が大きく制限された。戦後は、風営法の前身にあたる法律のもとで、キャバレーなど、別の形の店へと引き継がれていく。
「新しい遊び」が生まれ、また次の遊びに移っていった
カフェーの流行は、都市に暮らす人の暮らしが変わったことと、深く結びついている。会社勤めの人が増え、仕事のあとに立ち寄る場所が必要とされた。
遊びの形は、時代ごとに入れ替わる。カフェーの次はキャバレー、その次はまた別の店、というふうに、夜の街の主役は変わり続けてきた。その流れを知ると、今の街の景色も、違って見えてくる。
カフェー時代の流れ
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 1911年ごろ | 東京にカフェーが開店し始める |
| 大正時代 | 女給が接客に立つ店が広がる |
| 1923年 | 関東大震災。復興とともに店が増える |
| 昭和初期 | サービスの過熱で、取り締まりが強まる |
| 戦時中〜戦後 | 営業が制限され、別の業態へ移っていく |
知っておくと自慢できる豆知識
- 「女給」は、チップを主な収入にする店が多かったと言われる。
- 喫茶店と「カフェー」は、もともと別の業態として扱われていた。
- 昭和初期のカフェーの流行は、小説や歌謡曲の題材にもなった。
まとめ
カフェーは、洋風の文化人の溜まり場から、女給が主役の夜の店へと姿を変えていった。時代ごとに、夜の遊びの形が入れ替わる様子がよく分かる。次の時代の流れは、赤線・青線の記事とあわせて読んどけ。
よくある質問
Q. カフェーとは何か?
A. 大正から昭和初期にかけて流行した、洋酒を出し、女給が接客する店のことだ。
Q. 女給とは何か?
A. カフェーで接客に立つ女性のことで、チップで収入を得る店が多かった。
Q. なぜ規制が入ったのか?
A. サービスが過熱して、風紀が乱れると問題視されたからだ。

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