秋田・川反とは?花街の成り立ちから歓楽街へ、歴史・場所・今の姿を解説

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

秋田市の中心部、旭川の西岸に広がる川反(かわばた)は、東北でも指折りの歓楽街として知られる。同時に、明治から昭和にかけて「川反芸者」で名をはせた花街でもあり、「秋田美人」という言葉の出発点だとも語られる土地だ。この記事では特定の店には触れず、川反がどんな町割りの中で生まれ、どんな出来事を経て花街となり、いまどんな姿をしているのかを、自治体や新聞、百科事典の記述など、資料で確認できた範囲で整理する。

川反の歴史

久保田城下の「外町」=町人町に生まれる1886年の俵屋火事が転機大正8年に芸者97人・舞妓47人「秋田美人」の由来とも語られる今は県内一の歓楽街2014年にあきた舞妓が復活
目次

川反はどこにある?|場所と地名

川反は、秋田市大町の旭川沿いに広がる繁華街だ。JR秋田駅から歩いて15〜20分ほどで、旭川の西岸に沿う川反通りなどを中心に、飲食店が連なる。Wikipediaの「大町(秋田市)」の項は、川反を「県内一の歓楽街」で「旧町名」と記しており、いまの住所表記は大町一〜六丁目だ。「川反」という名は、住所ではなく通称として残っている。

「かわばた」は本来、川のほとりを意味する「川端」と書くのが普通で、「川反」と書くのはとても珍しい。地元の案内では、藩政時代は「川端」と書き、住人はほとんどが武士だったが、町づくりが進んで町人の町になり、武士が川の東側へ移り住んだため、川の西岸の川端は「武士から見て川の反対側」になり、「川反」の字が当てられた、と説明されている。ただし、確定的な史料に基づく話かどうかは確認できておらず、「とされる」説の一つとして受け止めておくのがよい。

久保田城下の外町に生まれた町|藩政時代

川反の背景にあるのは、久保田藩の城下町の区画だ。1603年(慶長8年)、初代藩主の佐竹義宣が神明山に新しい城の築城を始め、翌1604年に本丸が完成した。このとき、それまで城の直下を流れていた仁別川が西側へ掘り換えられ、外堀の役目も持つ流れになった。これが現在の旭川だ。地元の振興会の説明では、旭川を境に東側が侍町の「内町」、西側が町人町の「外町」と分けられた。旭川という名は、雅名を求める藩士たちの意を受けた9代藩主・佐竹義和が、菅江真澄に命じて源流の旭岳にちなんで付けさせたと、Wikipediaは記している。

川反を含む大町は、寛永年間(1624〜1643年)に、土崎の商人を移り住まわせて成立した町人の町で、当初は「新町」と呼ばれていた。特定の商品を独占して売る特権を持つ家督町として栄え、両替商や諸上納役所も置かれたという。つまり藩政時代の川反周辺は、花街というより、商いの町だった。

1644年の『正保城絵図』にある久保田城と城下の絵図
『正保城絵図』(1644年)の「出羽国秋田郡久保田城画図」。川を挟んで城のある側と町人の町が描かれている。この川が、本文で触れた旭川にあたる。
久保田藩 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
千秋公園の御隅櫓内にある久保田城の城郭模型
千秋公園・御隅櫓内に展示されている久保田城の城郭模型(2010年8月撮影)。
撮影・作者: 掬茶 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

1886年の俵屋火事|花街としての転機

川反が歓楽街へ変わる転機は、1886年(明治19年)4月30日の大火だ。川反四丁目から出火したこの火事は「俵屋火事」と呼ばれ、わずか3時間で秋田町の7,640戸のうち3,554戸を焼いた(Wikipedia「秋田市」)。大町の項は、飛び火が最も遠くは寺内村にまで及び、17人が亡くなったと記す。秋田魁新報の連載は、約3,500戸を焼いた秋田県史上最大の火災で、同じ年にはコレラや天然痘も流行し、町は大火と疫病の二重の打撃を受けたと伝える。

この火事で焼けた下米町の遊廓は焼失し、あわせて芸者屋や料理店も焼け出された。組合や観光案内は、焼けた芸者屋と料理店が川反四丁目に次々と移ったことが、歓楽街・川反の始まりだと説明している。別の紹介では、このとき芸者と遊女が分けられ、花街が現在の川反の場所へ移ったと語られる。遊廓本体の移転先については資料によって記述が分かれ、今回の調査では確かな裏付けが取れなかったため、ここでは書かない。

大正の最盛期|芸者141人、学校まで開かれた

川反の全盛期は、明治末から大正にかけてだ。秋田魁新報の連載は、川反の全盛期を「大正はじめから12年ころ」とした郷土史家の見方を紹介している。好況に支えられ、米相場で財を成した成金などの来訪も増えた。1919年(大正8年)12月10日の同紙には「二倍になった川端(川反)芸者家」と題した記事が載り、芸者97人と舞妓47人、合わせて141人がいたという。芸者置屋は、1910年(明治43年)の13軒から、1916年(大正5年)に27軒、1919年に35軒へと、短い間に急増した。

この時代の川反芸者は、芸だけでなく教養でも知られた。県の婦人運動の先駆者とされる和崎ハルが、1924年(大正13年)に「芸妓学校」を開いた。毎週日曜に約50人の芸者が国語や書道、希望者は英語まで学んだという。話題の豊かなお座敷が評判を呼び、川反芸者の名が高まったと組合は説明している。昭和の初めには150人ほどの芸者がいたとも紹介されるが、人数は資料によって差がある。

年出来事
1603〜04年佐竹義宣が久保田城を築き、旭川を境に内町(侍町)と外町(町人町)が分かれる
寛永年間(1624〜43年)土崎の商人を移して大町(外町)が成立する
1886年4月30日川反四丁目から出火(俵屋火事)。3,554戸が焼ける。以後、芸者屋・料理店が川反に集まる
1889年市制施行により秋田市が発足する
1910年芸者置屋13軒
1916年芸者置屋27軒
1919年置屋35軒、芸者97人・舞妓47人(計141人)
1924年和崎ハルが「芸妓学校」を開く
昭和初期芸者は約150人とされる
2014年8月川反芸者の文化を受け継ぐ「あきた舞妓」がデビューする
2016年6月旧料亭を改修した文化施設が千秋公園内に開業する
2019年「あきた芸者」が誕生する
秋田・川反の花街の歴史年表(1603〜04年の久保田城築城から2019年のあきた芸者誕生まで)
川反の歴史を、本文の年号だけで整理した年表。

「秋田美人」と川反芸者

川反は「秋田美人」という言葉の出発点だともいわれる。組合や振興会は、明治の終わりから昭和の初めにかけて秋田を訪れた多くの文人が、川反の芸者衆を指して使ったのが始まりとされると紹介している。谷崎潤一郎が明治末に川反の女性を描写した文章も引かれ、何人もの文筆家が川反の風俗を書いたことで、川反芸者、つまり秋田美人の評判が全国に広まったという。地元紙の連載コラムも、秋田美人の「はじまりは花柳界から」としている。

この言葉はやがて一般的な表現になり、秋田の女性の代名詞となった。一方、近年は「秋田美人」という呼び方そのものを見直す意見も、地元紙で取り上げられている。歴史的な由来を知ることと、いまの使い方を考えることは、別の話として分けて見るとよい。花街の用語の違いは、花街と遊郭の違いの記事を参照してほしい。

秋田市中心街を流れる旭川(三丁目橋より上流方向)
秋田市中心街を流れる旭川。三丁目橋から上流方向を望む(2012年8月撮影)。川反はこの旭川の西岸に広がる。※撮影地点が川反そのものとは限らない。
撮影・作者: 掬茶 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

戦後から現在|県内一の歓楽街へ

戦後の川反は、料亭と芸者の花街から、飲食店や遊興施設が密集する歓楽街へと性格を変えていったとみられる。Wikipediaの「秋田市」の項は、駅からやや離れた旭川西側の川反エリアを「秋田随一の歓楽街」と記し、「大町」の項も県内一の歓楽街と記している。川沿いの柳並木に面して飲食店のビルが並ぶ景色は、芸者の町だった面影を残しつつ、現代の夜の町の顔になっている。

花街としての川反は、数が大きく減った。昭和初期に約150人、最盛期には200人ともいわれた川反芸者は、戦後に減り、組合の紹介でも「現在はわずか数人」とされてきた。旧料亭とみられる風格のある建物も、通りに点在している。時代とともに建物は建て替わり、通りの表情も変わったが、旭川のほとりという立地そのものは、藩政時代の町割りを今に伝えている。

戦後の色街全体の転機となった法律の流れは、売春防止法の記事で整理している。秋田市内の別の色街の歴史は、北海道・東北の遊郭跡の記事で、土崎の新柳町などを取り上げている。

川反芸者の復活|あきた舞妓とあきた芸者

戦後に衰えた川反芸者の文化を、観光資源として復活させる動きもある。秋田魁新報などによれば、2014年(平成26年)8月に、川反芸者の文化を受け継ぐ「あきた舞妓」がデビューした。民間の事業として「会える秋田美人」を掲げて始まったもので、2019年(令和元年)には一人前を意味する「あきた芸者」も誕生している。2016年(平成28年)6月には、大正初期に創業した料亭「割烹松下」を改修した「あきた文化産業施設 松下」が千秋公園内に開業し、舞踊を鑑賞できる場になった。2025年3月時点で、4人の芸舞妓が活動していると紹介されている。

これは、旧来の花街をそのまま取り戻すというより、歴史ある文化を秋田の新しい観光の顔として生かす試みといえる。かつての川反芸者の記憶を、いまの町づくりにつなげる取り組みだ。

まとめ

川反は、久保田城下の外町に生まれた商人の町が、1886年の俵屋火事を機に芸者屋と料理店の集まる花街となり、大正には芸者・舞妓141人という全盛期を迎えた土地だ。芸だけでなく教養も磨いた川反芸者は、「秋田美人」の評判を全国に広げた。戦後は歓楽街としての性格を強め、いまは県内一の繁華街として続いている。2014年には「あきた舞妓」として花街の文化が復活した。歴史を知ったうえで歩くと、旭川沿いの町割りや旧料亭の建物が、藩政時代から現代までの時間をそのまま見せてくれる。全国の色街と花街の全体像は、日本の遊廓の成り立ちと全国一覧の記事も参照してほしい。

よくある質問

Q. 川反とはどこのことですか?
A. 秋田市大町の旭川西岸に広がる繁華街の通称だ。川反は旧町名で、現在の住所は大町一〜六丁目にあたる。

Q. 川反はいつから花街になったのですか?
A. 転機は1886年(明治19年)の俵屋火事とされる。焼けた芸者屋や料理店が川反四丁目へ移り、歓楽街・川反の歴史が始まったと組合などが説明している。

Q. 「川反」はなぜこの字なのですか?
A. 本来は「川端」で、町人の町になって武士が川の東へ移ったため、武士から見て反対側になり「川反」の字が当てられた、という説明が地元の案内にある。ただし確定的な史料までは確認できていない。

Q. 全盛期の川反芸者は何人いましたか?
A. 1919年(大正8年)には芸者97人、舞妓47人の計141人、置屋35軒という記録がある。昭和初期に約150人、最盛期に200人とする紹介もあり、数字は資料により幅がある。

Q. 「秋田美人」は川反と関係がありますか?
A. 明治末から昭和初めに秋田を訪れた文人が、川反芸者を指して使ったのが始まりとされる。ただし近年は、この呼び方の見直しを求める声も地元紙で取り上げられている。

Q. いまも芸者や舞妓はいますか?
A. 2014年に「あきた舞妓」、2019年に「あきた芸者」が誕生し、2025年3月時点で4人が活動していると紹介されている。

参考にした資料

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: 掬茶 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: 掬茶 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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