※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や人数は資料によって異なる場合があります。現地は住民が暮らす生活の場です。
鶴岡は、庄内藩酒井家の城下町として栄えた山形県庄内地方の中心都市だ。港町・酒田の花街や料亭は知られているが、城下町の鶴岡にも、江戸時代から昭和まで続いた遊所があった。その舞台は、旅人の宿が並ぶ七日町と、酒田から来る舟の船着場に近い八間町だ。大正から昭和初めには、貸座敷だけが郊外の双葉町へ移され、昭和33年(1958年)に終わった。この記事では営業の案内ではなく、鶴岡の遊所がどこで生まれ、どう移り、いま何が残るのかを、確認できた範囲で整理する。酒田の遊廓や料亭は北海道・東北の遊郭跡で触れている。
鶴岡の遊所の要点
鶴岡とは|庄内藩の城下町と北前船
鶴岡は、1622年(元和8年)に酒井忠勝が庄内に移り、鶴ヶ岡城に居城を置いてから、庄内藩酒井氏の城下町として発展した。港町の酒田が最上川河口の商いの町なら、鶴岡は藩の政治と文化の中心という違いがある。日本遺産「北前船寄港地・船主集落」には酒田市と鶴岡市がともに名を連ね、鶴岡市内では加茂港周辺の町並みや、北前船の商人が寄進した善寳寺の五百羅漢堂などが構成文化財に挙げられている。
鶴岡は、1924年(大正13年)に羽越本線が全通し、同じ年に市制を施行した。旅人や商人が舟で着く城下の旧い町から、鉄道の駅を中心とする新しい町へと、人の流れが変わっていった時期にあたる。この変化は、のちに遊所が移される背景にもなった。

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七日町と八間町|旅籠町から遊所へ
鶴岡市の資料「旧町名とその由来」によれば、七日町(なのかまち)は、毎月7の付く日に市が立ったことから付いた名前だ。最上氏の時代は現在の馬場町にあったが、酒井氏の城下町整備で現在の本町二丁目あたりへ移された。旅商人や出羽三山をめぐる道者が泊まる旅籠屋町として栄え、後には遊女を置く「下旅籠屋」が生まれ、明治時代に貸座敷になったと説明されている。
八間町(はちけんまち)は、大泉橋のたもとに酒田からの舟の船着場があり、宿屋が多くて賑わった町だ。七日町を「南曲輪」、八間町を「北曲輪」とも呼んだと紹介されるが、江戸の遊廓のように一か所に囲われた区画があったわけではなく、旅籠町と船着場に近い町の中に遊所が広がっていた。遊廓と遊里という言葉の違いは、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。
江戸時代の動き|隠遊女屋と下旅籠屋
鶴岡の遊所は、少なくとも庄内藩の時代から存在していた。『鶴岡市史』を引いた紹介によれば、文化年間(19世紀初め)には、飯盛女を置く旅籠屋が約30軒、「隠遊女屋」と呼ばれる非公認の遊女屋が約30軒あったとされる。遊廓・遊所研究データベースによると、七日町には株で受け継がれる旅籠屋が17軒あり、出羽三山、とくに湯殿山へ向かう道者を泊めていた。
藩は遊女を置くことを抑えようとし、1803年(享和3年)には、庄内の各地で遊女を置くことを禁じた。ただし七日町は、酒田・加茂とともに例外として認められたとされる。その後も隠れて遊女を置く家が増えたため、1818年(文政元年)に一部を「下旅籠屋」として公認し、翌年には下旅籠屋が23軒になったとされる。裏の家には、さらに27〜28軒の隠遊女屋があったとも言われる。藩が公認した遊所と、禁令をくぐる私的な遊所が並ぶのは、宿場町の飯盛女にも通じる全国共通の姿だ。

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明治〜大正|貸座敷の指定と移転の決定
1874年(明治7年)、七日町と八間町は酒田県の貸座敷指定地になった。大正後期になると、遊所が市街の中心にあって商店や料理屋と混在していたことなどから、郊外へ移す話が持ち上がったと紹介されている。
個人の調査記事(『鶴岡市史』などを引用)によれば、1924年(大正13年)7月に、貸座敷を郊外の新地へ移すことが正式に決まった。移転先の地名は「大字日枝字天池」だったが、遊郭にふさわしい新しい町名を公募し、約3000通が集まった。「常盤町」「花園町」などの候補から、審査の結果「双葉町」になったという。貸座敷を続ける業者は、1929年(昭和4年)7月末までに双葉町へ移るよう通達された。移転を申請した業者は7軒、実際に移ったのは6軒とされる。移らなかった店は、料理屋や待合などに転業した。
昭和5年(1930年)刊の『全国遊廓案内』は、鶴岡の貸座敷を6軒、娼妓を約30人と記す。移転直後の姿を伝えたものとみられる。なお、七日町には、移転後も料亭として残った元貸座敷の建物があるとされ、現存する建物は昭和13年(1938年)の築と紹介される。

戦後と閉業|1958年3月
戦後の双葉町は、赤線として続いた。1948年(昭和23年)の航空写真には、7〜8軒の貸座敷が写っている。個人の調査記事は、売春防止法の完全施行を目前にした1958年3月1日時点で、業者が8軒、働く女性が31人いたと紹介する。同年3月20日には県と警察に営業をやめる旨を届け、3月30日に最後の19人の送別会が開かれ、慰労金が渡されたと、地元紙の記事を引いて述べている。法の経過は売春防止法(1956年)の歴史、戦後の制度は赤線・青線の戦後史で整理している。
庄内のほかの遊所|湯田川と温海
庄内には、城下以外にも温泉地の遊所があった。遊廓・遊所研究データベースによると、湯田川と温海の二つの温泉は、1803年の禁令の対象に含まれていた。
| 温泉地 | 江戸時代 | 明治〜昭和初期 |
|---|---|---|
| 湯田川温泉 | 藩主の湯治場で、出羽三山参りの講の参拝者が精進落としに訪れた。馬市も開かれた。江戸後期の紀行『東遊雑記』は、一軒あたり10〜15人ほどの売女がいたと記すと紹介される | 1874年に酒田県令が指定した営業場所10か所のひとつ。1909年(明治42年)の大火後に、散在から集まる形へ。1930年の案内は貸座敷5軒、娼妓35人 |
| 温海(あつみ)温泉 | 1803年の禁令の対象。1850年(嘉永5年)に隠し遊女の取締りが命じられた。幕末には遊女を「粟蒔(あわまき)」と呼び、農作業の女性として置いていたとされる | 1874年に酒田県の貸座敷指定地になった。1930年の案内は妓楼3軒、娼妓約20人 |
湯田川温泉は、いまは共同浴場を中心とする静かな温泉地で、作家の藤沢周平が教師として赴任した地としても知られる。温泉街の遊所の廃止時期など、詳しい経緯は今回の資料では確認できなかった。
今の鶴岡|七日町と双葉町の姿
七日町は、鶴岡駅から南へ向かった一帯で、現在は商店街や飲食店が並ぶ。個人の記録によれば、七日町観音堂には、貸座敷が栄えていた頃の七日町の地図が展示されている。2022年に訪れた個人の記録では、元貸座敷だったと伝わる料亭建築や、夜の店が入っていた長屋が残る一方で、営業をやめた建物も目立つという。現状は変わっていく可能性が高い。
双葉町は、現在は静かな住宅地だ。七日町から双葉町へ続く、まっすぐで幅の広い道は「遊郭道路」と呼ばれ、周りが住宅になった今も、その形が残る。かつての妓楼とみられる大きな壁の建物が一棟残っているが、これは個人の推測であり、確かな裏づけは確認できていない。住民の多くは、そこが遊郭だったことを知らないとも書かれている。住民が暮らす場所なので、見学の際は静かに歩き、私有地には立ち入らないでほしい。
鶴岡の遊所の歴史年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1622年(元和8年) | 酒井忠勝が庄内に移り、鶴岡が庄内藩酒井氏の城下町になる |
| 文化年間(19世紀初め) | 飯盛女を置く旅籠屋が約30軒、隠遊女屋が約30軒あったとされる |
| 1803年(享和3年) | 庄内で遊女を置くことが禁じられる。七日町は例外 |
| 1818年(文政元年) | 隠遊女屋の一部を「下旅籠屋」として公認。翌年には23軒 |
| 1874年(明治7年) | 七日町・八間町が酒田県の貸座敷指定地になる |
| 1924年(大正13年) | 羽越本線が全通。鶴岡が市制施行。7月に貸座敷の郊外移転が決まったとされる |
| 1929年(昭和4年) | 7月末までに、貸座敷を続ける業者が双葉町へ移る |
| 1930年(昭和5年) | 『全国遊廓案内』に鶴岡の貸座敷6軒、娼妓約30人と記される |
| 1958年(昭和33年) | 3月に双葉町の業者が閉業を届け、売春防止法が完全施行される |
まとめ
鶴岡の遊所は、庄内藩の城下町の旅籠町・七日町と、酒田からの舟が着く八間町を中心に育った。江戸時代には隠遊女屋が増えて下旅籠屋が公認され、明治に貸座敷の指定地になった。大正末には、鉄道の整備と市街の変化を受けて郊外の双葉町へ移ることが決まり、1929年までに移転が完了し、1958年3月に閉じた。酒田が北前船の豪商文化の町なら、鶴岡は城下町の旅籠と湯殿山参りの道者が育てた遊所だったと言える。湯田川や温海にも別の遊所があり、庄内全体で見ると多様な姿だった。他の地域は日本の遊廓の一覧で確認できる。
よくある質問
Q. 鶴岡の遊郭はどこにありましたか?
A. 江戸時代から明治にかけては、旅籠町の七日町と、酒田からの舟の船着場に近い八間町にあった。大正末〜昭和初めに、貸座敷は郊外の双葉町へ移された。
Q. 七日町の名前の由来は?
A. 毎月7の付く日に市が立ったことに由来するとされる。最上氏の時代は現在の馬場町にあったが、酒井氏の城下町整備で現在の本町二丁目あたりに移されたと、鶴岡市の資料にある。
Q. 下旅籠屋とは何ですか?
A. 遊女を置く旅籠屋の呼び名で、七日町・八間町にあった。1818年(文政元年)に一部が藩に公認され、翌年には23軒になったとされる。
Q. 双葉町への移転はいつですか?
A. 1924年(大正13年)7月に移転が決まり、貸座敷を続ける業者は1929年(昭和4年)7月末までに移るよう通達された。申請7軒、実際の移転は6軒とされる。
Q. 鶴岡の遊郭はいつ終わりましたか?
A. 1958年(昭和33年)3月に、双葉町の業者が営業をやめる旨を届け、売春防止法が完全施行されて終わった。
Q. 湯田川や温海にも遊所がありましたか?
A. あった。両温泉は1803年の禁令の対象だった。1930年の『全国遊廓案内』では、湯田川が貸座敷5軒・娼妓35人、温海が妓楼3軒・娼妓約20人とされる。
参考にした資料
- 鶴岡市「旧町名とその由来2」(七日町・八間町の項。鶴岡市公式サイト)
- 遊廓・遊所研究データベース「山形」(鶴岡・湯田川・温海の沿革。佐藤敦子ほか。該当ページ)
- 鶴岡市「北前船日本遺産構成文化財一覧」(鶴岡市公式サイト(PDF))
- Wikipedia「鶴岡市」「湯田川温泉」(鶴岡市、湯田川温泉)
- 個人の調査記事(『鶴岡市史』『全国遊廓案内』などを引用した双葉町移転の経緯。公的資料ではなく、数字は参考情報として扱った):鶴岡双葉町遊郭(山形県鶴岡市)、山形県鶴岡市 七日町遊郭跡と歓楽街
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(東日本編)
北海道・東北・関東・甲信越・北陸・静岡の旧遊廓と花街の歴史。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 写真: 掬茶 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
- 写真: Hideyuki KAMON 撮影(CC BY-SA 2.0)/Wikimedia Commons
- 写真: Ippukucho 撮影(CC BY 3.0)/Wikimedia Commons
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- 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成

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