※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。
高知市の玉水町には、かつて「玉水新地」と呼ばれた遊里があった。明治5年(1872年)に許可を得て始まり、高知の「三新地」の一つとして知られた町だ。ほかの新地が戦争で失われるなか、戦災を免れて古い町並みを残したことで、いまも歴史を語られることが多い。この記事では営業や利用には触れず、成り立ち、規模、戦争、終わり、いまの街の姿を、図書館のレファレンス記録や研究者のデータベース、総務省の戦災記録で確認できた範囲だけ整理する。資料が少ない部分は、そのことを明記した。
玉水新地(玉水町遊廓)の要点
玉水新地とは|場所と名前
玉水新地は、高知市の中心部から西へ約2〜3キロ、鏡川沿いの玉水町(旭地区)にあった。1920年(大正9年)の『高知市誌』付属の市街図に「玉水新地」の名があり、旭村の、鏡川と本町筋にはさまれた地域に描かれている。1930年(昭和5年)刊の『全国遊廓案内』は、高知線旭駅の近くの石井町にある遊廓として載せる。町名としての「玉水町」は、1959年(昭和34年)の『高知市内細地図』に見える。高知城下から見ると西の端にあたり、城下の西の入口だった場所だと紹介する記事もある。
「新地」という言葉は、新しく開かれた土地の呼び名から、遊里の名になった。制度上の「遊廓」や、花街との違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。玉水という地名の由来は、用水路の水がきれいだったからという説が散策記に見えるが、出典は示されておらず、この記事では確認できなかった。

撮影・作者: Asturio Cantabrio / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
高知の「三新地」|稲荷・玉水・吸江
高知の歓楽街の歴史は、一つの町では語れない。国立国会図書館のレファレンス記録によれば、『高知市史』上巻は、稲荷新地、玉水新地、吸江新地を「三新地」と呼ばれた享楽街として記す。稲荷新地は、鏡川の河口近く、堤防を隔てた埋め立て地にあった。玉水新地が市の西の旭にあるのに対し、稲荷新地は河口に近い低い土地にあり、玉水を「上の新地」、稲荷を「下の新地」と呼んだとされる。吸江新地は五台山にあったとされるが、単独で詳しく扱う資料はレファレンス記録でも見当たらない。
三新地以外にも、城下町には料亭が現れた。こうした資料は、『高知県百科事典』の「花柳街」の項、『高知県の地名(日本歴史地名大系40)』の「稲荷新地」の項などにもある。ただ、玉水新地や吸江新地は独立した見出しがない辞典が多く、稲荷新地の説明の中で触れられることが多い。玉水新地は、公的な地誌の扱いが小さい一方で、『全国遊廓案内』のような後世の案内書や、昭和の地図から輪郭がたどれる町だといえる。
明治5年の許可と『全国遊廓案内』の数字
玉水新地は、1872年(明治5年)に許可を得て営業を始めたとされる。この出典は、日本遊覧社が1930年に出した『全国遊廓案内』だ。同じ1872年には、芸娼妓解放令が出され、人身売買は禁じられた一方で、遊女屋は貸座敷、遊女は娼妓と名を改めて続いた。許可の月日までは、公開されている資料では確認できなかった。制度の背景は中国・四国の遊郭跡一覧でも触れている。
『全国遊廓案内』が計上する規模は、貸座敷27軒、娼妓224人だ。遊廓の営業方式は、娼妓の居住と営業が同じ場所で行われる「居稼ぎ制」で、同書の注はこの方式が娼妓本位の遊廓にみられると説明している。別の1929年の一覧では28軒・279人とされており、調査の時点や数え方でばらつきがある。個人サイトの引用では娼妓数を204人や219人とするものもあり、数字は資料ごとに違う。ここでは『全国遊廓案内』の27軒・224人を、昭和初期の規模の目安として示す。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在地 | 高知市玉水町(『全国遊廓案内』は旭駅近くの石井町と記す) |
| 許可 | 1872年(明治5年) |
| 規模 | 貸座敷27軒、娼妓224人(1930年) |
| 営業方式 | 居稼ぎ制 |
| 戦災 | 免れたとされる |
| 終わり | 1958年(売春防止法の全面施行) |
稲荷新地と『陽暉楼』
玉水新地を語るとき、よく話に出るのが宮尾登美子の小説『陽暉楼』だ。1926年(大正15年)に高知市で生まれた宮尾登美子が1976年に発表し、1983年に東映が映画化した(9月10日公開)。遊廓・遊所研究データベースによれば、小説の舞台は昭和10年(1935年)ごろの稲荷新地とされ、検番の制度がまだ成立しておらず、料理屋がお茶屋・待合を兼ねていた当時の高知の営業形態が描かれているという。つまり、小説の背景になった町は、玉水ではなく稲荷新地として整理されている。
作中の店や人物は小説の設定を含むもので、実際の店や場所と同じものとして扱うことはできない。散策記には、玉水新地を作中の大料亭と結びつける記述もあるが、この記事では確認していない。映画や小説のイメージと、玉水町の実際の歴史は、分けて見るのが安全だ。稲荷新地は、戦時中の空襲で失われ、料亭の多くが南播磨屋町(現在のはりまや橋の南側)へ移ったとされる。花街の営業の場が、新地の外へ広がっていった流れを示している。
高知大空襲と玉水新地
高知市は、1945年(昭和20年)7月4日の午前2時ごろの大空襲で大きな被害を受けた。総務省がまとめる戦災の記録では、この日の被害は死者401人、負傷者289人、行方不明22人、罹災戸数11,912戸(全焼11,804戸)だ。稲荷新地が失われた日付を、1月19日の空襲とする記事もある。ただ、同じ記録で1月19日の被害は死者1名と小さく、稲荷新地が焼けた時期は、確実には確かめられていない。
これに対し、玉水新地は戦災による焼失を免れたとされる。複数の記事・データベースが同じように伝えているが、焼け残った範囲の細かな図面までは確認できなかった。戦後の玉水は、売春防止法が施行される1958年まで、赤線地帯として営業を続けたと整理されている。赤線の仕組みは赤線・青線の記事を参照してほしい。

1958年以降|地図に残る玉水町と、花街のその後
1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で、玉水新地の遊廓としての営業は終わった。法の流れは売春防止法(1956年)の記事にまとめてある。その後も町はすぐには消えなかった。1959年の『高知市内細地図』には「玉水町」の名が見え、『全国遊廓案内』に載る屋号も残っている。1960年代なかばの住宅地図では、以前と同じ屋号の旅館などが数軒確認できる一方、空き地も目立つようになり、遊興の場としては少しずつ衰えたと研究者は推測している。
芸妓を抱える料亭の世界も変わった。高知の芸妓には、検番に抱えられる者と、料亭に抱えられる者の二種類があった。1959年の県条例は、風俗営業を第一号から第六号に分け、芸妓に関わるのは第二号の「料理店」「料てい」「カフェー」「簡易料理店」とした。1966年の条例改正で「料てい」と「簡易料理店」が削除され、料亭と芸妓は取締りの対象から外れた。昭和57年(1982年)までに検番は廃止され、芸妓はすべて料亭抱えになり、2013年の時点で芸妓を雇う料亭は2軒だけだったという。
今の姿|用水路と石橋、モザイクタイル
玉水町は、高知市の路面電車の上町五丁目電停から歩いて2分ほどの、大通りから一本入った路地にある。2023年8月に取材した記事は、通りに小さな川(用水路)が流れ、川をはさんで約2メートルの高低差があると伝える。土手の下の一段低い区画に、用水路をはさんで旅館風の建物が一列に並び、土手の上の道とを古い石橋が結ぶ、という地形だ。2012年に取材した散策記は、石橋の多くが古い造りで凝ったデザインだと記している。
建物の特徴としては、外壁に細かなモザイクタイル(豆タイル)を貼った家、二連のアーチ窓をもつカフェー建築風の家、用水路をまたぐように建つ旧妓楼とみられる家などが挙げられている。旅館の看板を掲げた建物が数軒あり、遊廓時代からの転業と説明する記事もあるが、現在の営業の状況は、この記事では確認していない。空き地や駐車場、廃屋も目立ち、老朽化で取り壊された建物もある。2023年の取材記事は、赤線時代の建築が残り、古い町並みの色が濃いと伝えるが、状況は年々変わっていくと考えたほうがよい。
ここは今も人の暮らす住宅地であり、旅館を営む人もいる。外観から用途を決めつけず、撮影や立ち止まりは近隣の迷惑にならない範囲にとどめるのが前提だ。散策記のコメント欄には、1970〜80年代の町の思い出も寄せられているが、検証されていない記憶なので、史実としては使えない。

撮影・作者: Asturio Cantabrio / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

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玉水新地の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1872年 | 玉水新地が許可を得て営業を始めたとされる(『全国遊廓案内』) |
| 1920年 | 『高知市誌』付属の市街図に「玉水新地」「稲荷新地」の名が見える |
| 1926年 | 宮尾登美子が高知市で生まれる |
| 1930年 | 『全国遊廓案内』が玉水新地の貸座敷27軒・娼妓224人を載せる |
| 1935年ごろ | 小説『陽暉楼』の舞台となった時代の稲荷新地 |
| 1945年7月4日 | 高知大空襲。死者401人、罹災11,912戸 |
| 1958年 | 売春防止法の全面施行。玉水新地の遊廓営業が終わる |
| 1959年 | 『高知市内細地図』に「玉水町」の名が見える |
| 1960年代なかば | 住宅地図で旅館が数軒確認できる一方、空き地も目立つ |
| 1976年 | 宮尾登美子の小説『陽暉楼』が刊行される |
| 1983年 | 映画『陽暉楼』が公開される |
まとめ
高知の玉水新地は、1872年に許可を得て始まり、稲荷新地・吸江新地と並ぶ「三新地」の一つとして栄えた。1930年の『全国遊廓案内』は貸座敷27軒、娼妓224人を載せる。稲荷新地が空襲で失われたのに対し、玉水は戦災を免れ、1958年の売春防止法の全面施行まで赤線として続いた。いまの玉水町は、用水路と石橋、モザイクタイルの建物にその面影を残す住宅地だ。ただし資料の多くは個人の調査や散策記で、町名の由来や赤線期の規模など、確認できなかった点も少なくない。同じ中国・四国の旧遊廓は中国・四国の遊郭跡一覧、全国の位置づけは日本の遊廓の成り立ちと一覧からたどれる。
よくある質問
Q. 玉水新地はいつからあったのですか?
A. 1872年(明治5年)に許可を得て営業を始めたとされる。出典は1930年刊の『全国遊廓案内』で、1920年の『高知市誌』付属の市街図にも「玉水新地」の名が見える。
Q. 玉水新地はどこにありましたか?
A. 高知市玉水町(旭地区)で、鏡川の北、高知城下の西の端にあたる。『全国遊廓案内』は旭駅近くの石井町と記す。路面電車の上町五丁目電停から歩いて2分ほどの路地だ。
Q. どれくらいの規模でしたか?
A. 1930年の『全国遊廓案内』が、貸座敷27軒、娼妓224人を載せる。1929年の別の一覧では28軒・279人とされ、資料によって差がある。
Q. 「三新地」とは何ですか?
A. 『高知市史』上巻が、稲荷新地・玉水新地・吸江新地を並べて「三新地」と呼ばれた享楽街として記している。玉水が「上の新地」、稲荷が「下の新地」とされる。
Q. 宮尾登美子の『陽暉楼』は玉水新地が舞台ですか?
A. 遊廓・遊所研究データベースは、小説の舞台を昭和10年ごろの稲荷新地と整理している。玉水新地と作中の店を結びつける記述もあるが、この記事では確認できなかった。
Q. 玉水新地は空襲で焼けましたか?
A. 戦災を免れたとされる。稲荷新地は空襲で失われて復活しなかった。高知市は1945年7月4日の大空襲で、死者401人、罹災11,912戸の被害を受けている。
Q. いまも当時の建物は残っていますか?
A. 用水路と石橋、モザイクタイルの外壁、カフェー建築風の家などが紹介されている。ただし老朽化や取り壊しも進み、状況は変わっていく。住宅地として暮らす人がいるので、外から静かに見るのが前提だ。
参考にした資料
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「土佐の遊女、遊郭、料亭について書かれた資料が見たい。」(高知県立図書館・高知市民図書館、2014年。該当ページ)
- 遊廓・遊所研究データベース「高知県」(松田有紀子。『高知市誌』『全国遊廓案内』『高知市内細地図』などに基づく沿革。該当ページ)
- 総務省「高知市における戦災の状況(高知県)」(該当ページ)
- Wikipedia「陽暉楼」(小説・映画の刊行・公開年。該当ページ)
- 現代ビジネス「パイナポー裏ch」による玉水新地の取材記事(2023年8月取材、2024年12月掲載。街並みの現状の参考。該当ページ)
- 個人サイトの散策記(2012〜2016年ごろ。石橋・用水路・建物の様子の参考。新日本DEEP案内、Nostalgic Landscape、寄る辺ない旅のブログ)
- 日本遊覧社『全国遊廓案内』(1930年)、高知市役所『高知市誌』(1920年)、高知市史編纂委員会『高知市史』上巻は、上記のデータベースなどでの引用による
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
遊廓と花街の違い・全国概説・東海から九州沖縄の旧遊廓跡。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 写真: Asturio Cantabrio 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
- 地図: © OpenStreetMap contributors
- 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成

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