金沢の三茶屋街とは?ひがし・にし・主計町の違いと歴史・今の街並み

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

金沢には、ひがし、にし、主計町(かずえまち)という三つの茶屋街がある。観光地として知られるひがし茶屋街だけでなく、にし茶屋街や主計町の違いまで知りたいという人は多い。三つはどれも「茶屋街」と呼ばれるが、成り立ちも、歴史的な位置づけも、いまの姿も同じではない。この記事では特定の店舗や営業には触れず、加賀藩が茶屋町を開いた経緯、明治以降の変化、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)への選定までを、文化庁や金沢市、石川県の資料で確かめられた範囲で整理する。東山ひがしだけを詳しく扱った記事は東山ひがし茶屋街の歴史にある。

金沢の三茶屋街のポイント

1820年にひがし・にしの茶屋町が開かれるひがしは一度廃止され、1867年に再公認主計町は公式の免許地ではなかった重伝建はひがし(2001年)と主計町(2008年)にしは在籍する芸妓の数が最も多い主計町は1999年に旧町名が復活
目次

この記事の読み方|茶屋町・茶屋街・遊廓

「茶屋町」は、加賀藩が茶屋の営業を一か所に集めて認めた町をいう。今でいう「茶屋街」は、その流れを受けた芸妓の座敷文化の町を呼ぶ名前だ。金沢市の資料や文化庁の選定は、いずれも種別を「茶屋町」としている。一方で、金沢の茶屋町は、史料のうえで「妓楼」とも書かれ、遊廓として語られてきた面がある。金沢市図書館が紹介する史料の一覧には、東西の妓楼を記した『金沢古蹟志』「東西妓楼事略」が入っている。言葉の整理は花街と遊廓の違いの記事にまとめてある。

金沢の茶屋町の歩みを、1583年から2008年までまとめた年表
金沢の茶屋町の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

金沢の茶屋町の年表

年出来事
1583年(天正11年)前田利家が金沢城に入り、城下町が整えられていく
1820年(文政3年)加賀藩の許可で、浅野川の東に「ひがし」、犀川沿いに「にし」の茶屋町が開かれる
1831年(天保2年)ひがしの茶屋町がいったん廃止される
1867年(慶応3年)ひがしの茶屋町が再び公認される
明治2年(1869年)ごろ主計町が今の茶屋街の形になったとする資料がある
1970年主計町の町名が消え、尾張町二丁目の一部になる
1976年(昭和51年)金沢市が伝統的建造物群保存地区保存条例を制定
1999年10月1日主計町の旧町名が復活(全国初の旧町名復活)
2001年11月14日東山ひがしが重要伝統的建造物群保存地区に選定
2003年12月25日茶屋「志摩」が国の重要文化財に指定
2008年6月9日主計町が重要伝統的建造物群保存地区に選定

茶屋町が開かれた背景|加賀藩の城下町

金沢の城下町は、天正11年(1583年)に前田利家が入城して以来、加賀藩の政治と文化の中心として栄えた。江戸時代には、城下町の近くを流れる犀川と浅野川の両岸に、多くの茶屋が立ち並ぶようになった。こうして散らばっていた茶屋を藩の許可のもとで二つの町にまとめたのが、1820年の「ひがし」と「にし」の茶屋町だ。このとき、ひがしでは不整形だった町割りが改められ、整った街区になった。藩が営業の場所を限って認めるやり方は、全国の遊廓とも共通する。

三茶屋街の違いを一覧で比べる

ひがし茶屋街にし茶屋街主計町茶屋街
所在東山一丁目。浅野川の東側野町二丁目。犀川沿い主計町。浅野川沿い、浅野川大橋のそば
成り立ち1820年(文政3年)に加賀藩の許可で茶屋町を設置ひがしと同じ1820年に、加賀藩の公許を得て開設発祥の時期は明確ではない。公式の免許地ではなかったが、実質は茶屋町
文化財の指定重伝建(2001年11月14日、約1.8ヘクタール)重伝建の選定は確認できなかった重伝建(2008年6月9日、約0.6ヘクタール)
特徴茶屋建築が集まる。重要文化財の茶屋「志摩」がある在籍する芸妓の数が最も多いと説明される1階に出格子、2階を高く開放した茶屋建築。1999年に旧町名が復活

ひがし茶屋街|1820年の開設、一度の廃止と再公認

金沢市が文化庁向けにまとめた資料によれば、ひがしの茶屋町が設けられたのは1820年(文政3年)で、卯辰茶屋町や浅野川茶屋町とも呼ばれた。このとき従来の町割がまったく改められたことは、前後の町割図の比較からわかる。茶屋町は1831年(天保2年)にいったん廃止されたが、1867年(慶応3年)に再び公認された。明治以降は「東新地」「ひがし」と呼ばれ、市内で最も格式のある茶屋町として今に至る。

区域は南北約130メートル、東西約180メートルほどで、江戸時代後期から明治初期にかけての茶屋建築が集まって残る。茶屋「志摩」は、2003年12月25日に国の重要文化財に指定された。文化庁の解説は、桁行約7.3メートル、梁間約13.1メートルの二階建てで、要所に面皮柱を用い、弁柄色の土壁や具象的な図案の金物を使った華やかな室内を持つと述べる。建築年は、茶屋町創設当初の文政3年と説明する一方、データ上は江戸後期と表記されるなど、資料により幅がある。

ひがし茶屋街の茶屋「志摩」の外観。出格子と高い二階を持つ木造の建物
ひがし茶屋街の茶屋「志摩」の外観(2003年に国の重要文化財に指定)
撮影・作者: 663highland / CC BY 2.5 / Wikimedia Commons

にし茶屋街|犀川沿いの茶屋町

にし茶屋街は、ひがしと同じ1820年に、加賀藩12代藩主の公許を得て開かれたとされる。金沢市観光協会の案内は、約100メートルの通りに出格子の茶屋建築が連なり、通りの裏手には市民の暮らす住宅街が広がっていると紹介する。大正11年(1922年)建築の「西検番事務所」や、茶屋の座敷を再現した金沢市西茶屋資料館もある。ひがしや主計町に比べて小さく、日常の暮らしが近くに見えるのが特徴とされ、金沢の茶屋街のなかで在籍する芸妓の数は最も多いと説明される。重伝建には選定されていないが、周辺には寺町の寺院群が広がる。

にし茶屋街の通り。出格子の木造の茶屋建築が続く
にし茶屋街の通り(金沢市提供の写真)。約100メートルの通りに出格子の茶屋建築が連なる
撮影・作者: 金沢市 / CC BY 2.1 jp / Wikimedia Commons

主計町茶屋街|浅野川沿いの茶屋町と町名の復活

主計町の名は、加賀藩士・富田主計の屋敷があったことに由来する。金沢市の資料は、茶屋町として発祥した時期は明確ではないが、文化・文政期から天保期(1804〜1844年)にかけての隣接地を記した文献から、茶屋町に近い性格を帯びた場所として形成されたと考えられ、明治以降の資料では、公式の免許地ではなかったが実質的に茶屋町として成り立っていたことがうかがえる、と説明する。観光系の資料には、明治2年(1869年)ごろに今の茶屋街の形になったとするものもある。

主計町の町名は、1963年に金沢市が住居表示に関する法律のモデル都市に指定された後、1970年に尾張町二丁目の一部となって消えた。その後、住民の運動を経て、1999年10月1日に旧町名が復活した。全国で初めての旧町名復活とされる。2008年には約0.6ヘクタールが重伝建に選定された。浅野川沿いには、最盛期に増築された三階建ての町家が並ぶ。暗がり坂やあかり坂が知られ、泉鏡花の作品や、五木寛之の小説の舞台としても名が出る。

浅野川の岸に沿って並ぶ主計町の家並み
浅野川沿いの主計町の家並み。主計町は浅野川沿いの茶屋町で、2008年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された
撮影・作者: Daderot / CC0 / Wikimedia Commons

茶屋建築の特徴|出格子と高い二階

石川県教育委員会の解説によると、ひがしの町家は二階建てで、一階正面に弁柄塗りの出格子が並び、二階正面を高く造るのが特徴だ。保存地区内の建築物約140棟のうち約3分の2が伝統的建造物で、創設期から明治初期のものが多く、その約9割が茶屋様式の町家とされる。主計町も、一階の出格子と高い二階、軒下の庇という構成を基本にしており、浅野川沿いには茶屋町の最盛期に増築された三階の町家が並ぶ。「木虫籠(きむすこ)」と呼ばれる格子窓から三味線の音が聞こえる、と紹介される町並みだ。通りは石畳で、料亭や茶屋が軒を連ねる。

にし茶屋街の西茶屋資料館の外観。1階に出格子があり、2階が高い木造の建物
にし茶屋街の西茶屋資料館の外観(金沢市提供の写真)。1階の出格子と高い2階が見える
撮影・作者: 金沢市 / CC BY 2.1 jp / Wikimedia Commons

明治以降の変化|芸妓と娼妓、戦後の終わり

明治になると、金沢では芸妓と娼妓の区別が進んだ。地元の情報サイトによれば、明治9年に両者が明確に分けられ、芸妓のいる廓は「花街」、娼妓のいる廓は「遊廓」の色合いが強くなった。東新地(東廓)、西新地(西廓)、北新地(北廓)、愛宕、主計町が最盛期の五か所とされ、ひがしや主計町は芸妓の割合が高く、西廓や北廓は芸妓と娼妓がほぼ同数だったと推測されている。この情報は地元のウェブ記事によるもので、年や数には資料ごとに食い違いがある。

戦後、娼妓をおく営業は1958年(昭和33年)4月1日の売春防止法の全面施行で終わった。制度の背景は売春防止法の成立と全面施行の記事で扱っている。一方、芸妓の座敷文化は続き、金沢の茶屋街は今も芸妓が在籍する花街だ。金沢は大規模な空襲を受けなかったことも、茶屋建築の町並みが残った背景のひとつとされる。

今の街並みを歩くとき

ひがしと主計町は、浅野川を挟んで歩ける距離にある。にしは別の方角の野町にあり、静かな通りだ。にし茶屋街の観光案内には、「一見さんお断り」の伝統が受け継がれていると書かれており、三つの茶屋街とも、今も茶屋が営業している。建物の多くは現役の茶屋や住宅なので、内部をのぞいたり、芸妓や住民にカメラを向けたりするのは慎みたい。夕方に軒先の灯りがともる時間帯は静かな雰囲気になるため、声の大きさにも気をつけたい。

まとめ

金沢の三茶屋街は、1820年にひがしとにしが開かれ、主計町が明治以降の茶屋町として形づくられたという違いがある。重伝建に選ばれたのはひがし(2001年)と主計町(2008年)で、にしは芸妓の数が最も多い茶屋街として説明される。史料は金沢の茶屋町を「妓楼」とも記しており、芸の町と遊廓の面を併せ持っていたことは押さえておきたい。年や制度の細部は資料により食い違うため、さらに詳しく知るには『金沢市史』や、金沢市文化財紀要の主計町調査報告書などの原典にあたるのが確実だ。

よくある質問

Q. 金沢の三茶屋街とはどこですか?
A. ひがし茶屋街(東山)、にし茶屋街(野町)、主計町茶屋街(主計町)の三つをいう。ひがしと主計町は浅野川沿いで、にしは犀川沿いにある。

Q. ひがしとにしは、いつできましたか?
A. 1820年(文政3年)に、加賀藩の許可を得て同時に開かれたとされる。ひがしの茶屋町は1831年にいったん廃止され、1867年に再び公認された。

Q. 主計町はひがし・にしと何が違いますか?
A. 主計町は、公式の免許地ではなかったが、実質的に茶屋町として成り立っていた町だ。1970年に町名が消えたが、1999年10月に旧町名が復活した。

Q. 国の重要伝統的建造物群保存地区になっているのはどこですか?
A. 東山ひがし(2001年11月14日選定)と主計町(2008年6月9日選定)だ。にし茶屋街の選定は確認できなかった。

Q. 金沢の茶屋街は遊廓だったのですか?
A. 文化庁や金沢市の資料は「茶屋町」として扱う。ただし史料には「妓楼」と記されたものもあり、娼妓をおく営業は1958年の売春防止法の全面施行で終わった。

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画像の出典

  • 写真: 663highland 撮影(CC BY 2.5)/Wikimedia Commons
  • 写真: 金沢市 撮影(CC BY 2.1 jp)/Wikimedia Commons
  • 写真: Daderot 撮影(CC0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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