二葉遊廓(浜松)とは?歴史・場所・鴨江旅館街と跡地の今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。

浜松は、東海道の宿場町として栄えた遠州最大の町で、遊廓と花街の両方の歴史をもつ。江戸時代には城下の旅籠町と伝馬町に遊所があり、大正期に西の高台・鴨江(かもえ)へ集団で移って「二葉遊廓」になった。一方、芸妓を中心にした花街は千歳町に発展した。この記事では特定の店舗や営業には触れず、浜松市の資料、昭和初期の統計、地誌などから確認できた範囲で、二つの町の成り立ち、移転、戦後、跡地の現状を整理する。資料の表記や年が割れている点は、その旨を書いた。

浜松の遊廓・花街の要点

近世の旅籠町・伝馬町の遊廓が、大正期に鴨江の高台へ集団移転した移転は1922年(大正11年)。貸座敷22戸が一区画に移り「二葉遊廓」と呼ばれた(鴨江町の地誌)1930年の『全国遊郭案内』は貸座敷22軒・娼妓約300人芸妓中心の花街は千歳町。中央検番があり、北部・東部にも検番があった戦後は赤線を経て、現在は「鴨江旅館街」として名残が残る遊廓時代の建物はほぼ残らず、広い目抜き通りの形が手がかり
目次

浜松宿と旅籠町・伝馬町|近世の遊所

浜松は、江戸の品川宿から数えて29番目の宿場で、遠州最大の宿場町だった。浜松市の資料は、天保年間(1830〜1844年)には本陣が6軒、旅籠が94軒あったとされると書く。街道に沿った町人地のうち、伝馬町は宿駅の御役を担った御役町のひとつ、旅籠町は町名のとおり旅籠が集まった町とみられ、1925年(大正14年)の地籍整理で旅籠町の一部が伝馬町に編入されている。

浜松市が歴史的風致の維持向上計画で作った城下の地図には、この二つの町について短い注記がある。旅籠町の東側と伝馬町(下伝馬町の西側)は近世まで遊廓だったこと、近代以降の芸娼分離の政策によって北部の「双葉園」に集団移転したこと、かつては遊廓ならではの「思案橋」があったこと、の三点だ。市の地図は「双葉園」と書くが、昭和初期の資料や現地の記事では「二葉」の字が使われることが多い。本稿では「二葉」を使い、市の資料を引く箇所は原文に合わせる。

宿場の遊所から近代の遊廓になる流れは、東海道の他の宿場と同じだ。江戸の四宿の例は関東の遊郭跡にまとめてある。言葉の違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いを参照してほしい。

広重の東海道五十三次「浜松」。松と波打ち際を行く旅人
歌川広重『東海道 浜松』(1847〜52年ごろ)。宿場町の近くの海辺の景で、遊廓そのものを描いた絵ではない。
歌川広重 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

1922年の集団移転|鴨江の高台へ

移転の年は、地誌と昭和初期の案内書で一致する。『浜松風土記』が引く鴨江町の項は、大正11年(1922年)に伝馬町と旅籠町の貸座敷22戸が鴨江町の一区画を区切って移り、二葉遊廓と称したと書く。1930年の『全国遊郭案内』も、大正11年11月に現在の遊廓地へ移るまでは、国道筋に宿場の気分を残していたと記すという。移転の理由は、市街地の中心にあったためとされる。浜松市立中部公民館が2005年に出した『浜松中心街の今昔』には、「遊廓が鴨江の高台に集団移転」と題した項があり、伝馬町、旅籠町、二葉園、思案橋が見出し語に挙がる。

なお、個人の記事には、伝馬町の飯盛旅籠が大正12年に鴨江へ移ったとする記述もある。年は資料で1年ずれるが、市街地の中心から高台の新しい区画へ移した、という流れは共通している。移転先は高台に新しく造成した土地で、整った町割りが今も道筋に残るとされる。

二葉遊廓の規模と姿

昭和初期の規模は、二つの資料で数字が異なる。1930年の『全国遊郭案内』は、貸座敷が22軒、娼妓が約300人と伝える。営業は居稼ぎ制(店に居て客を待つ形)で、組合の規定では直接の従業者は全員女性とされ、娼妓が唄い踊る「二葉音頭」もあったと紹介されている。一方、1929年の統計「日本全国遊廓一覧」は、所在地を「浜松市伝馬町・旅籠町」のまま、貸座敷22軒・娼妓133人と載せる。軒数は一致するが、人数には2倍以上の差がある。移転前の地名が統計に残ったものか、数え方の違いか、今回の調査では判断できなかった。

資料貸座敷娼妓備考
『日本遊里史』付録(1929年)22軒133人所在地は「浜松市伝馬町・旅籠町」と記載
『全国遊郭案内』(1930年)22軒約300人居稼ぎ制。引用した記事による
渡辺寛『全国女性街ガイド』(1955年ごろ)33軒136人赤線時代の数字として紹介される。別の記事は11軒とする

遊廓の中には二葉神社があり、娼妓や芸妓、カフェーの女給など、働く女性たちが浄財を集めて建てたと伝わる。この社は現在、袋井市の法多山尊永寺の境内に移っており、鳥居の近くの石碑に建立と移転の経緯が刻まれているという。

千歳町の花街|芸妓の町と検番

浜松には、遊廓とは別に、芸妓を中心にした花街があった。浜松市の資料は、千歳町を「近世の花街」とし、芸妓本位の遊興地で、中央検番が置かれたと説明する。千歳町は、もとは足軽町(下級武士の町)で、1925年(大正14年)に新しい町名がついた。同じ市の調査ページによれば、千歳町と肴町には多くの芸妓置屋があり、旧市内には中央検番のほか、北部検番(元浜町)と東部検番(相生町)もあった。料理屋などの座敷に呼ばれる芸妓が活躍し、1931年(昭和6年)の全国産業博覧会では舞踊を披露する芸妓の写真が残る。

『浜松中心街の今昔』の目次には、千歳町の項に「芸妓組合、料亭、花柳界、思案橋」、元浜町の項に「花柳界、検番」が挙がる。芸妓と娼妓を分ける政策のもとで、遊廓は高台へ、花街は千歳町へと、性格の違う二つの町が並んで形づくられたことがわかる(花街と遊郭の違い)。市は、芸妓の数は少なくなったものの、現在も活躍している芸妓がいると書いている。

空襲後の浜松の市街を高所から写した白黒写真
空襲後の浜松の市街地(1945年。毎日新聞社『一億人の昭和史 日本占領2』より。Commonsの掲載画像は拡大処理版)。
パブリックドメイン / Wikimedia Commons

戦中・戦後と赤線

二葉遊廓は、先の大戦の戦災で大半が焼けたとされる。戦後はいち早く復興し、赤線として営業した(赤線・青線とは?戦後の歴史)。1955年ごろの案内書は、33軒・136人と紹介するが、別の記事は11軒とするなど、数字は一定しない。1958年(昭和33年)4月の売春防止法の全面施行で赤線が終わると、旅館に業態を変え、「鴨江旅館街」と呼ばれる町になった(売春防止法(1956年)の歴史)。

昭和初期の浜松の警察署通り。通りの奥に塔が見える白黒写真
昭和初期(1941年以前)の浜松の警察署通り。現在の鴨江小路にあたり、中央左は浜松警察署(現・鴨江アートセンター)(『目で見る 浜松の100年』より)。
郷土出版社 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
浜松市の鴨江アートセンターの外観
鴨江アートセンターの外観(2018年10月撮影)。旧浜松警察署の建物で、遊廓の建物ではない。
撮影・作者: Unimoi / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

跡地の今の姿|鴨江旅館街

いまの鴨江町は、浜松駅の西、徒歩で20分ほどの高台にある住宅地で、一帯の通りは「鴨江旅館街」と呼ばれる。遊廓時代の建物はほとんど残っていないと、複数の訪問記事が伝える。手がかりになるのは町の形だ。目抜き通りは約200メートルで行き止まりになり、突き当たりには駐車場がある。通りの中央に植え込みのある、不自然に広い道は、遊廓時代の名残とされる。入口付近では道が曲がっており、大門のあった跡と見る向きもある。高台に造成した地形のため、周辺との間に段差がある。

旅館の一部は営業を続けており、遊廓時代の屋号に由来する名前も残るとされる。ただ、廃業や解体が続き、状況は変わりやすい。住民や宿泊客の生活の場なので、見学は公道から静かに行いたい。二葉神社は前述のとおり袋井市に移っており、鴨江の現地にはない。

浜松の遊廓・花街の年表

年出来事
天保年間(1830〜44年)浜松宿に本陣6軒、旅籠94軒があったとされる
1888年(明治21年)浜松駅が開業する
1911年(明治44年)浜松町が市制を施行し、浜松市になる
1922年(大正11年)伝馬町・旅籠町の貸座敷22戸が鴨江へ集団移転し、二葉遊廓になる
1925年(大正14年)千歳町などの町名が整理される
1929〜30年貸座敷22軒(娼妓は133人/約300人と資料で差)
1931年(昭和6年)全国産業博覧会で芸妓が舞踊を披露する
先の大戦中戦災で二葉遊廓の大半が焼けたとされる(時期は確認できず)
1955年ごろ赤線として33軒・136人と紹介される
1958年(昭和33年)売春防止法の全面施行。のち鴨江旅館街に
浜松の遊廓・花街の年表(天保年間の浜松宿から1958年の売春防止法全面施行まで)
浜松の遊廓・花街を、本文の年号だけで整理した年表。

資料で食い違う点

二葉遊廓は、1922年の移転年こそ複数の資料で一致するが、ほかの点は割れている。市の地図は「双葉園」、多くの資料は「二葉」の字を使う。娼妓の数は133人と約300人、赤線時代の軒数は33軒と11軒、移転は大正11年と12年である。千歳町の検番の設置年や、芸妓の最盛期の人数は、今回の調査では確認できなかった。

まとめ

浜松の遊廓は、宿場の旅籠町・伝馬町に始まり、1922年に鴨江の高台へ集団移転して二葉遊廓になった。芸妓の花街は千歳町に育ち、中央検番を中心に座敷文化を支えた。戦後は赤線を経て、1958年に鴨江旅館街へと姿を変えた。建物はほとんど残らないが、広い目抜き通りと高台の町割りに、計画的に造られた遊廓地の面影がある。ほかの中部の旧遊廓は中部・北陸の遊郭跡、記事の一覧は歴史・トリビアの記事一覧から探せる。

よくある質問

Q. 浜松の遊廓はどこにありましたか?
A. 近世は旅籠町・伝馬町(現在の中央区)にあり、1922年(大正11年)に鴨江町の高台へ集団移転して「二葉遊廓」になった。浜松駅から西へ徒歩20分ほどの一帯だ。

Q. 二葉遊廓はどのくらいの規模でしたか?
A. 1930年の『全国遊郭案内』は貸座敷22軒、娼妓約300人。1929年の統計は22軒・133人で、人数は資料で異なる。

Q. 浜松の花街はどこですか?
A. 千歳町が芸妓本位の花街で、中央検番があった。肴町にも芸妓置屋が多く、元浜町(北部検番)と相生町(東部検番)にも検番があった。

Q. 遊廓と花街は同じですか?
A. 別のものだ。遊廓は貸座敷の営業が認められた区画、花街は芸妓が座敷に出る町を指す。近代の芸娼分離の政策で、浜松でも遊廓は鴨江、花街は千歳町と分かれた。

Q. 今も遊廓の建物は残っていますか?
A. 遊廓・赤線時代の建物はほとんど残っていないと伝えられる。広い目抜き通りや町割り、旅館街としての使われ方が名残にあたる。住民の生活の場なので、見学は静かに。

Q. 二葉神社は今どこにありますか?
A. 遊廓の中にあった二葉神社は、袋井市の法多山尊永寺の境内に移って残っているとされる。

参考にした資料

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Unimoi 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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