※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。
山口県下関市は、本州の西の端で関門海峡をはさんで北九州と向かい合う港町だ。北前船の寄港地、幕末の政治の舞台、そして鉄道と連絡船の終点として栄え、遊廓や遊所も一か所ではなく複数あった。この記事では、近世の稲荷町、下級遊女の町だった豊前田、明治以降に開かれた新地を中心に、成り立ちと終わり、いまの街の姿を整理する。営業や利用には触れず、遊廓・遊所研究データベース、総務省の戦災記録、各自治体・研究者の整理など確認できた範囲だけを書き、出典が個人の探訪記にとどまる点はそのつど断った。
下関の遊廓の要点
下関に遊廓が多かった理由
遊廓・遊所研究データベース(大阪公立大学)の山口県ページは、長州藩の海運の発達が遊所の形成を後押ししたと整理している。17世紀半ばに西回り航路が開かれると、赤間関(現在の下関)や中ノ関、上ノ関などが北前船の寄港地として発展した。関門海峡は潮流が激しく、船が足止めされやすい場所でもあった。同ページは、この立地が赤間関の稲荷町の繁栄の一因と考えられるとしている。
1929年(昭和4年)の『日本遊廓一覧』(上村行彰『日本遊里史』付録)には、山口県の遊廓が27か所載り、そのうち下関市に7か所がある。1930年(昭和5年)の『全国遊廓案内』は、下関の遊廓として新地・裏町・豊前田の3か所を載せている。ある個人研究者のまとめによると、同時期の内務省警保局の調査では8か所が確認でき、うち2か所は免許地だけで営業していない場所だったという。一つの都市の中にこれだけ分かれて存在したのは、港、鉄道、軍事の要地として人とお金が集まったためだ。
近世の稲荷町|赤間関の遊女町
近世の赤間関で中心だったのが稲荷町だ。赤間町の北側にあった遊女町で、『好色一代男』や、1678年の『色道大鏡』にも名が見える。町名は末広稲荷神社に由来するといわれる。壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官が遊女になったという話が各地の紹介で語られるが、伝承の域を出ない。
数字は遊廓・遊所研究データベースが整理している。元禄7年(1694年)の赤間関は戸数1,191軒、人口5,142人、遊女87人。寛政4年(1792年)には2,262軒、8,299人、遊女112人と増えた(『毛利家乗』では142人とする)。天保年間には、大坂屋・鞆屋など9軒の揚屋があった。長府藩は藩士の遊興や遊女の外出を規制する法度を何度も出している。西側の裏町には茶屋や料理屋が並んだ。
最大の妓楼とされる大坂屋は、代々の当主が木村太良右衛門を名乗ったと伝わる。木造3階建てで、歌舞伎の舞台まで備えていたという話が紹介されているが、これは個人サイトが古い紀行文を引いた記述で、この記事では確認できていない。幕末の志士が出入りしたという話も同様に伝聞が多く、史実と断定はできない。花街と遊廓の違いは、花街と遊廓の違いの記事でも整理している。
豊前田|下級遊女の町から駅前の盛り場へ
稲荷町に対して、豊前田は下級の遊女を抱える町とされた。長府藩家老細川家の給領地で、惣稼(そうかせぎ)と呼ばれる遊女を置く置屋が多かった。北前船の乗組員を相手に小舟で営業する惣稼は「沖女郎」「浜出女」とも呼ばれ、歌川広重の錦絵「長門下の関」にも描かれている。天保10年(1839年)正月には、浜女の上陸を禁じる触が出された。船宿で営業させる違法な行為があったと伝わる。
明治に入ると、格式の高い稲荷町は衰え、豊前田が台頭した。山陽鉄道が1901年(明治34年)5月27日に終着駅の馬関駅(のちの下関駅)を開業すると、駅前の豊前田は全盛を迎えたとされる。馬関駅は当初、現在より東寄りの細江町にあり、関門連絡船の拠点だった。1942年(昭和17年)の関門トンネル開通を受けて、駅は現在の竹崎町に移っている。豊前田の遊廓は、戦時中の空襲で焼け、戦後は赤線と飲み屋街として復活したと紹介されている。

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明治の公認と新地の成立
1872年(明治5年)の芸娼妓解放令の後、山口県では遊女渡世を許す場所が限られた。同年10月の布達では6か所に絞られ、その中に赤間関の稲荷町表裏が入っている。船に出向いて営業することは禁じられたが、惣稼船による営業がまだ続いていた様子もうかがえる。1876年(明治9年)2月の「遊女営業概則」では免許地は15か所になり、赤間関は「稲荷町・裏町・新地・竹崎・豊前田」と記された。
このうち新地は、もとは一面の沼地で、色街用に開かれた土地だと個人研究者は整理している。同じ調査によると、貸席は1883年(明治16年)に3軒・娼妓17人だったが、1912年(明治45年・大正元年)には31軒・娼妓304人へ急増した。日露戦争後に大陸への客が増えたことが背景ではないかという推測が付けられているが、間の年の史料は見つかっていない。1922年(大正11年)の統計は貸席43軒・娼妓251人で、このころが絶頂だったとされる。数字は個人の調査によるものなので、目安として読んでほしい。
| 地区 | 性格 | 主な時期 |
|---|---|---|
| 稲荷町・裏町 | 近世からの格式ある遊女町。大坂屋など | 江戸時代〜昭和戦前 |
| 豊前田 | 下級遊女の町。駅前の盛り場へ | 明治34年(1901年)ごろ全盛〜1945年 |
| 新地 | 明治に開かれた遊廓。のち赤線 | 明治9年(1876年)に免許地として見える〜1958年 |
| 伊崎新地(今浦開作) | 萩藩領の港町。茶屋・小宿が集まった | 享保年間(1716〜35年)から |
伊崎新地|萩藩領の港に開かれた町
もう一つ、下関の西側に伊崎新地(今浦開作)がある。享保年間(1716〜1735年)に、長府藩領の今浦村の一部を萩藩の豊田金道村と交換して成立した。外国船を打ち払う事件を受けて海防を強める必要があったためとされる。『防長風土注進案』には、茶屋と諸国廻船の小宿が69軒、茶屋揚酒屋が4軒、茶屋女置屋が5軒、「旅人女」が104人と記される。旅人女は遊女や芸者、芝居役者にあたると考えられている。公認の遊廓というより、廻船を引き寄せる港の遊所だった。
空襲と戦後|1958年の終わり
下関は関門海峡を守る要塞地帯でもあり、総務省の戦災記録によると中国地方では広島に次ぐ大きな戦災を受けた。1945年(昭和20年)6月29日の空襲では壇之浦から宮田町・唐戸町・南部町の東部が焼け、7月2日の空襲では豊前田町から西細江町、入江町、丸山町など市街地のほぼすべてが焼かれた。この2回で死者は324人にのぼる。稲荷町一帯もこの戦災で焼け、末広稲荷神社の社殿も焼失した。
一方、郊外にあった新地は焼け残った唯一の遊廓だったと、個人研究者は紹介している。戦後の『全国女性街ガイド』は、新地を75軒・210名の小規模な店が多い赤線として載せる。稲荷町・裏町は赤線として復活せず、下関の赤線として載るのは新地と豊前田だけだという。1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で、赤線は終わった。法の流れは売春防止法(1956年)の記事と赤線・青線の記事にまとめてある。
今の姿|稲荷町・豊前田・新地
稲荷町は、いまの下関市赤間町にあたる。当時の面影はほぼ残っておらず、痕跡は末広稲荷神社、旧稲荷町の位置を示す市のモニュメント、大坂屋の跡地とされる場所の案内板などだ。社伝では大同4年(809年)の創祀とされ、戦災で焼けたあと、戦後に再建された。大坂屋の跡地には長くホテルが建っていたと紹介されてきたが、休業・廃業の報告もあり、現状はこの記事では確認していない。
豊前田は、いまは商店街と飲み屋が並ぶ地区で、通称は「晋作通り」。遊廓時代の建物はほとんどなく、古い建物を改装した店に往時の名残を想像する程度だ。
新地は、現在の新地西町から上新地町にかけての一帯で、いまも「新地」の名が地名として残る。個人の探訪記によれば、2011年の撮影と2026年の再訪を比べると、赤線時代のタイルや装飾をもつ建物の多くは外観を保つ一方、一部は取り壊された。市が景観を保存する計画があるわけではなく、この先どれだけ残るかはわからない。どの地区も住宅地や商店街で、暮らしている人がいる。外から静かに眺めるのが前提だ。

下関の遊廓の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1678年 | 『色道大鏡』に下関の稲荷町が載る |
| 1694年 | 元禄7年の赤間関は戸数1,191軒、遊女87人 |
| 1792年 | 寛政4年は2,262軒、遊女112人(『毛利家乗』は142人) |
| 1872年10月 | 遊女渡世を許す場所が6か所に限られ、稲荷町表裏が含まれる |
| 1876年2月 | 「遊女営業概則」。赤間関は稲荷町・裏町・新地・竹崎・豊前田 |
| 1901年5月27日 | 山陽鉄道が馬関駅(のちの下関駅)を開業。豊前田が全盛に |
| 1930年 | 『全国遊廓案内』が新地・裏町・豊前田を載せる |
| 1942年 | 関門トンネル開通。下関駅が現在の位置へ |
| 1945年6月29日・7月2日 | 下関空襲。死者324人。稲荷町・豊前田は焼失 |
| 1958年 | 売春防止法の全面施行。赤線が終わる |
まとめ
下関の遊廓は、北前船と関門海峡、のちに鉄道と連絡船がもたらした人の流れの上に成り立っていた。近世の格式ある稲荷町、下級遊女の町から駅前の盛り場になった豊前田、明治に開かれ赤線まで続いた新地と、性格の違う複数の町が並んでいたのが特徴だ。空襲でほとんどが焼け、いま遊廓の面影を残すのは主に新地だが、その建物も減りつつある。資料の多くは個人の調査や探訪記で、店数や規模は出典ごとに差がある。同じ中国・四国の旧遊廓は中国・四国の遊郭跡一覧、全国の位置づけは日本の遊廓の成り立ちと一覧、言葉の違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いから読める。
よくある質問
Q. 下関の遊廓はどこにありましたか?
A. 近世の中心は赤間町の稲荷町で、その周辺に裏町があった。明治以降は、駅前の豊前田、郊外の新地(新地西町〜上新地町)などが免許地になった。
Q. 稲荷町と豊前田はどう違いますか?
A. 稲荷町は近世から続く格式の高い遊女町で、豊前田は下級の遊女を抱える町とされた。明治に入ると稲荷町が衰え、鉄道の開通した1901年ごろに豊前田が全盛を迎えたとされる。
Q. 下関の遊廓は空襲で焼けましたか?
A. 1945年6月29日と7月2日の空襲で市街の大半が焼かれ、稲荷町や豊前田は焼失した。新地は郊外にあって焼け残ったとされる。
Q. いまも遺構は見られますか?
A. 稲荷町は面影がほぼなく、神社や案内板が痕跡だ。新地には赤線時代の建物が一部残るが、取り壊しも進んでいる。
Q. 遊廓はいつ終わりましたか?
A. 1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で終わった。
参考にした資料
- 遊廓・遊所研究データベース「山口県」(元禄・寛政の人口、稲荷町・豊前田・伊崎新地、明治5年・9年の免許地。該当ページ)
- 総務省「下関市における戦災の状況(山口県)」(1945年6月29日・7月2日の空襲、死者324人。該当ページ)
- Wikipedia「下関駅」(馬関駅の開業日、1942年の移転。該当ページ)
- 米澤光司「遊郭・赤線跡をゆく」の下関の各記事(新地の統計、豊前田の歴史、稲荷町・裏町の現況。新地、豊前田、稲荷町・裏町)
- 個人ブログの探訪記(街並みの現状の参考。おなかがよわいお坊さんはあわてない)
- 上村行彰『日本遊里史』(1929年)、日本遊覧社『全国遊廓案内』(1930年)、『防長風土注進案』、『毛利家乗』は、上記のデータベース等での引用による
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
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