薬研堀・流川とは?広島の歓楽街の歴史・遊廓・原爆後の復興

※本記事は歴史・文化の解説であり、現在の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。公的な記録が少ない部分は、そのことを明記しています。

薬研堀と流川は、広島市中区にある、中国・四国地方を代表する歓楽街だ。広島城の城下町だったこの一帯は、明治には軍都・広島の盛り場として育ち、1945年8月6日の原爆で焼き尽くされ、戦後の復興とともに再びネオンの街へ姿を変えた。この記事では、現在の営業にはふれず、地名の由来、遊廓や券番を含む戦前の盛り場の成り立ち、原爆による被害、戦後の復興とのかかわりを、研究論文や新聞、市の資料で確認できた範囲だけ整理する。資料が薄い部分は、無理に埋めずにそう書いた。

流川・薬研堀の歴史の要点

流川の名は縮景園の水路に由来する日清戦争を機に下柳町に東遊廓ができる東券番には約190人の芸者がいたとされる原爆で一帯が焼失する戦後は屋台とお好み村が復興の象徴に
目次

流川・薬研堀とは|場所と範囲

流川は、広島市中心部の八丁堀の東南に位置し、町名は中区流川町にあたる。隣り合う薬研堀、新天地と一体になって、ひとつの広い商業圏をつくっている。流川と薬研堀の間には中新地と呼ばれる一角もあり、広い意味では流川に含まれる。薬研堀の東にあるのが、かつて遊廓があった弥生町だ。最寄りの路面電車の駅は銀山町になる。

薬研堀という名前は、全国に同名の地名がある。一般には、断面がV字形になった堀を薬研(漢方薬をすりつぶす道具)にたとえた呼び名が、堀の名前になり、さらに地名になったものとされる。ただ、広島の薬研堀が具体的にどの堀を指していたのか、江戸時代のどの町名にあたるのかは、今回調べた範囲では確かめられなかった。由来を断定せず、ここでは場所の呼び名として扱う。

縮景園の石蟾橋から望む流れ。池のような水面の周りに松や草木が茂る
縮景園の石蟾橋から望む「流川」(2017年3月撮影)。園内の流れで、通りの東側を流れていた市街地側の水路は1913年に埋め立てられている
撮影・作者: そらみみ(Soramimi) / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

流川の名の由来|縮景園の水路と埋め立て

流川の名は、広島藩主の別邸だった縮景園(かつての泉水屋敷)の排水のために開かれた水路に由来するとされる。小川は通りの東側を流れ、江戸時代のこの一帯は武家屋敷が並ぶ土地だった。1619年(元和5年)ごろの城下町絵図には「流川」の名は見えず、天明年間(1781〜89年)の絵図には「流川町」と記されている。名前がついたのは、この間のことだと考えられている。川は1913年(大正2年)に埋め立てられ、いまは流川通りと呼ばれる道になった。

1895年に宇品港を出発する近衛師団の古写真。湾内に多くの船が浮かぶ
1895年(明治28年)4月、宇品港を出発する近衛師団(亀井玆明『明治廿七八年戦役写真帖』より)。日清戦争で宇品港は軍事輸送の基地になった
亀井玆明 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

日清戦争と東遊廓|軍都・広島の盛り場

この一帯が盛り場として大きくなる契機は、日清戦争だ。1894年(明治27年)、広島に大本営が置かれ、宇品港は軍事輸送の基地になった。出征する兵士が広島に滞留するようになり、軍需景気が町を押し上げた。研究者の水越紀子は、広島の遊廓はこの戦争に備えて軍の慰安施設として新設されたと位置づける。広島県の貸座敷は、1889年の102戸(娼妓390人)から、1898年には331戸(同1,618人)へと急増した。

広島市では、従来の小網町を中心とする西の遊廓に加えて、1893年(明治26年)12月に、県知事が下柳町に新たな娼妓免許地を指定した。論文はその背後に軍の意向があったとする。これが、のちに「東遊廓」と呼ばれる区画だ。下柳町は、現在の薬研堀から銀山町にかけての一帯にあたるとされる。広島市郷土資料館の説明を引いた新聞記事も、日清戦争の軍需景気を受けて旧下柳町一帯に東遊廓ができ、続いて東券番が置かれたと伝える。県内では、広島の東西の遊廓、呉の旭遊廓、三次の松原遊廓が三大遊廓と呼ばれた。

遊廓の景気は、軍隊の動きで上下した。新聞には、凱旋した軍人が駐屯した年は収入が多く、翌年は半分にも届かなかったという記事が載る。軍隊と遊廓が切り離せない関係にあったことがよくわかる。なお、成立の年は資料で違う。県知事が免許地を指定した1893年説のほか、個人の調査記事には1895年(明治28年)とするものもある。西遊廓の場所も、小網町を中心とする(論文)、舟入方面とする(調査サイト)と記述が分かれる。この記事では、論文で確認できた1893年12月の指定を軸に書いた。

戦前の薬研堀や流川の周りには、東券番という芸妓の組織も置かれた。広島原爆戦災誌によれば、東券番には芸者約190人、舞妓約10人がいた。戦争中には、券番の建物にミシンが入れられ、軍需の下請け工場になったという。遊廓や花街の区別については、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。

流川・薬研堀の歩みを江戸時代から1957年までまとめた年表
流川・薬研堀の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

大正の新天地|劇場とカフェが並ぶ盛り場へ

流川の西隣にある新天地は、1921年(大正10年)に、商業地として栄えていた八丁堀の南に、歓楽街として開発された。大正から昭和の戦前にかけて、カフェや料亭に加え、劇場や映画館が建ち並び、新天地広場では演芸の催しも開かれた。八丁堀の電停周辺には、1929年(昭和4年)に広島で初めての百貨店ができるなど、中心市街地のにぎわいが広がっていた。流川、薬研堀、新天地は、こうして軍人も市民も集まる広島の盛り場として結びついていった。

ここで資料の事情にもふれておく。広島市郷土資料館の学芸員は、政治や経済と違って、風俗については被爆前の公的な記録がほとんど残っていないと話している。遊廓や花街の細かな規模や位置が、資料によって食い違うのは、そのためだ。個人の記憶や写真が、重要な手がかりになっている。

原爆投下後の広島の航空写真。街区の道が残るだけで、建物がほとんど焼け落ちている
原爆投下後の広島の航空写真(1945年8月、米海軍の写真帖より)。写っている範囲の町名は特定していない
U.S. Navy / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

1945年8月6日|盛り場の焼失

1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾が広島に投下された。流川・薬研堀は爆心地に近く、新聞は、爆心地から1キロ圏の一帯が焼き尽くされたと伝える。東券番を営んでいた人物も、この日に被爆死した。戦前の盛り場の建物は、東遊廓の区画を含めて、ほとんど残らなかった。いま薬研堀や弥生町で見られる古い建物は、戦後に建てられたものと考えるのが妥当だ。

1950年代の流川銀座商店街の夜景。アーチ状の看板や電飾が通りを覆っている
1950年代の流川銀座商店街(1955年刊『廣島原爆誌』所収)
中国電気通信局 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

戦後の復興とのかかわり|屋台からお好み村へ

広島の復興は、都市全体の計画から始まった。1946年(昭和21年)に広島復興都市計画が定められ、1949年(昭和24年)8月6日には広島平和記念都市建設法が公布・施行された。1954年(昭和29年)には平和記念公園が完成し、その南側に東西に延びる幅100メートルの平和大通りが開かれた。盛り場の復興は、この大きな枠組みの中で進んでいく。

戦後の新天地では、お好み焼きの屋台が集まり、バラック造りの店が次々に開いた。1957年(昭和32年)には戦災復興の区画整理で新天地広場が整備され、中央通りが開通する。広場には50軒ほどの屋台が集まり、「お好み村」と呼ばれて復興の象徴的な存在になった。ところが1965年には、騒音などを理由に広場での営業が禁じられ、屋台は別の場所に移る。1967年に建物の形で復活し、1992年に現在の鉄筋コンクリートのビルに建て替えられている。

流川も、戦後の経済成長とともに活気を取り戻した。バーやナイトクラブが増え、戦前の遊廓や券番を中心にした盛り場とは異なる、より庶民的な歓楽街に変わっていった。広島県の飲食業の組合の関係者は、最盛期には3,000〜4,000の店が密集していたと語る。一方で、戦後の弥生町の一帯が赤線として1958年ごろまで続いたとする個人の調査記事もあるが、公的な資料では確認できなかったため、確かなこととしては書かない(赤線の全国的な流れは赤線・青線とは?戦後の歴史と売春防止法の記事を参照)。

流川・薬研堀の歴史年表

年出来事
1619年ごろ城下町絵図に「流川」の名は見えない
1781〜89年天明年間の絵図に「流川町」と記される
1893年12月県知事が下柳町に新たな娼妓免許地を指定(のちの東遊廓)
1894年日清戦争。広島に大本営が置かれ、軍都として拡大する
1913年流川の水路が埋め立てられる
1921年八丁堀の南に新天地の歓楽街が開発される
1945年8月6日原爆投下。爆心地から1キロ圏の一帯が焼き尽くされる
1946年広島復興都市計画が定められる
1949年8月6日広島平和記念都市建設法が公布・施行される
1954年平和記念公園が完成。平和大通りが開かれる
1957年新天地広場が整備され、中央通りが開通。屋台が集まる
1965年新天地広場での屋台営業が禁止され、移転する
1967年お好み村が建物の形で復活する

まとめ

流川と薬研堀の歴史は、軍都・広島の歩みと重なる。江戸時代は縮景園の水路にちなむ武家地だった流川の周辺に、日清戦争の軍需景気を背景として1893年に東遊廓の区画が指定され、東券番が置かれ、大正には新天地が開発された。その盛り場は、1945年の原爆で焼き尽くされた。戦後は屋台とバラックから始まり、お好み村や、バー・ナイトクラブの街として再び広がる。ここは広島の復興を支えた庶民の盛り場でもあった。一方で、遊廓の細部は資料が少なく、年次や場所に諸説がある。分からない点を分からないと書くことが、この街の歴史を正しく伝える第一歩になる。全国の位置づけは、中国・四国の遊郭跡もあわせて読んでほしい。

よくある質問

Q. 流川の名前の由来は?
A. 広島藩主の別邸だった縮景園(泉水屋敷)の排水のために開かれた水路にちなむとされる。川は1913年(大正2年)に埋め立てられ、いまの流川通りになった。

Q. 薬研堀の名前の由来は?
A. 一般に、断面がV字形の堀を薬研にたとえた呼び名が地名になったとされる。ただ、広島の薬研堀が具体的にどの堀に由来するのかは、今回の調査では確認できなかった。

Q. 広島の遊廓はいつできたのですか?
A. 日清戦争の時期にあたる。1893年12月に県知事が下柳町を新たな娼妓免許地に指定し、先にあった小網町中心の西の遊廓に対する東遊廓になった。成立年は1895年とする記事などもあり、資料で異なる。

Q. 東遊廓はどこにありましたか?
A. 旧下柳町の一帯で、現在の薬研堀から銀山町にかけてにあたるとされる。薬研堀の東の弥生町も、かつて遊廓だった場所として知られる。

Q. 原爆で流川・薬研堀はどうなりましたか?
A. 爆心地に近く、爆心地から1キロ圏の一帯が焼き尽くされたと伝えられる。戦前の建物はほとんど残っておらず、いまの古い建物は戦後のものと考えられる。

Q. 戦後の復興はどう進みましたか?
A. 1946年の広島復興都市計画、1949年の広島平和記念都市建設法を経て、1954年に平和記念公園と平和大通りが整った。新天地では屋台とバラックから始まり、1957年に新天地広場が整備されてお好み村が生まれた。

Q. 戦後は赤線だったのですか?
A. 個人の調査記事には1958年ごろまで赤線だったとするものがあるが、公的な資料では確認できなかった。全国の赤線の経緯は、赤線・青線の記事を参照してほしい。

参考にした資料

  • 水越紀子「軍都・広島において「娼妓」はいかに貶められ収奪されたか -新聞に事件として書かれた記事を通して-」『理論と動態』第1号、2008年(J-STAGE)
  • 中国新聞「ヒロシマの空白 街並み再現 流川・薬研堀 盛り場の絆」2021年1月17日(中国新聞デジタル)
  • このまちアーカイブス「広島 商業地の発展、通りと街の整備」「原爆投下と戦後の復興」(商業地の発展、戦後の復興)
  • Wikipedia「流川 (広島市)」「新天地 (広島市)」(流川、新天地)
  • 流川・新天地の歴史を紹介する地域サイト(地名の由来の参照。該当ページ)
  • 旅色「広島県社交組合会長が語る流川の昔と今」(該当ページ)
  • 新日本DEEP案内「旧東遊郭を歩く」(個人の調査記事。成立年などの異説の参照。該当ページ)

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: そらみみ(Soramimi) 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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