※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。
静岡市には、江戸時代の初めに幕府の公認を受けたと伝わる駿府の遊廓「二丁町(安倍川町)」と、芸妓が座敷に出る花街の歴史がある。駿府の港町・清水(現在の清水区)にも、巴川の河口に栄えた花街の歴史があり、その近くの江尻町には昭和初期の貸座敷指定地があった。この記事では特定の店舗や営業には触れず、静岡大学の研究者がまとめた二丁町の年譜、静岡市の観光・歴史資料、昭和初期の統計などから確認できた範囲で、静岡と清水の遊廓・花街の成り立ち、終わり、跡地の現状を整理する。清水の遊廓については、資料が乏しいことも正直に書いた。
静岡・清水の遊廓と花街の要点
静岡の二丁町遊廓|駿府の公認遊廓
起源の伝承
二丁町遊廓は、駿府城下の安倍川に近い、現在の静岡市葵区駒形通五丁目付近にあった。起源として語られるのは、徳川家康が駿府城を築いたころの話だ。築城に集まった人々を目当てに遊女や女歌舞伎が集まって争いが絶えず、家康はそれらの追放を命じた。そのうえで、鷹匠組頭の伊部勘右衛門が辞職を願い出て、遊廓の設置を許されたという。勘右衛門は安倍川の近くに約1万坪の土地を自費で買い、故郷の山城国伏見から業者や人を集め、自分も「伏見屋」という店を開いた。これが幕府公認の遊廓の始まりとされる。
静岡大学の研究者がまとめた二丁町研究の年譜では、1607年(慶長12年)に家康が駿府に入り、1609年(慶長14年)に勘右衛門が官許の遊廓を造営したと整理されている。ただし、これらは後世の伝承を含む。江戸の吉原が開かれたのは1618年(元和4年)とされ、駿府の遊廓から町の一部が江戸に移り、残った町が「二丁町」と呼ばれるようになった、という話もよく語られる。駿府城下の96町のうち7町が遊廓で、5町が江戸に移り、2町が残ったからだという説明もあるが、名の由来は「二丁四方」「奥行が二丁」など諸説あり、はっきりしない。
文学と遊里案内に残る二丁町
二丁町は、江戸時代の文学にたびたび登場した。藤本箕山の『色道大鏡』が全国の遊里を並べる中に駿河の府中が挙がるほか、井原西鶴は浮世草子の中で、二丁町ではなく「安倍川」と書いた。十返舎一九は駿府の生まれで、『道中膝栗毛』のほか、安倍川の遊女の仇討ちを扱った作品も残した。遊里の案内書「二丁町細見」は、1780年(安永9年)に吉野屋酒楽の版が出たのを皮切りに、江戸後期から明治にかけて10種ほどが確認され、2005年には一部が『駿府二丁町細見集』として覆刻された。二丁町は、江戸から離れた地方の遊廓としては、記録の多い町だといえる。
明治から1946年まで
幕末の1868年(慶応4年)10月には廓で出火があり、翌1869年(明治2年)に静岡の遊廓が復興した。1872年(明治5年)の芸娼妓解放令、1900年(明治33年)の娼妓取締規則を経て、貸座敷として営業を続ける。1885年(明治18年)には、代表的な大きな楼が増築された。1889年(明治22年)の東海道線の開通で、静岡の町は大きく変わっている。1894年(明治27年)には、県知事の小松原英太郎が由来を撰した「静岡双街記念之碑」が建てられた。
昭和初期の規模は、1929年の統計「日本全国遊廓一覧」で、静岡市安部川町の貸座敷13軒・娼妓177人。1930年の『全国遊郭案内』は13軒・190人と載せるとされる(原本は未確認)。最盛期には妓楼が45軒あったとする記述もあるが、時期の裏づけはない。終わりは戦災だった。1945年(昭和20年)6月19日から20日にかけての静岡空襲で焼け、翌1946年に公娼制度が廃止されて、二丁町は戦後に復活しなかった。
跡地の今の姿
跡地は、住居表示が整った後の駒形通五丁目付近で、現在は静岡県地震防災センターを中心とする一帯だ。遊廓の建物は残っておらず、面影はほとんどない。手がかりになるのは石碑と神社で、防災センターの周辺には「双街(双町)の碑」があり、二丁町の由来が刻まれている。敷地の近くには稲荷神社も残る。近くの安倍川町公園には、駿府キリシタン聖堂跡の碑があるともいう。見学は公道から、周囲の暮らしを妨げない範囲にしたい。

貴徳 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

歌川広重 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
静岡の花街|まち芸者と見番
遊廓と並んで、静岡には芸妓の花街があった。静岡伝統芸能振興会の解説によると、駿府は1608年(慶長13年)に安倍川のほとりに大門が建てられ、大きな廓が形づくられたという。明治に入ると、廓の芸者とは別に、まちの座敷に出る「まち芸者」が現れる。1872年(明治5年)ごろに登場し、1877年(明治10年)には常磐町に見番が置かれて、芸妓の一元管理が始まった。1887年(明治20年)には、まち芸者が100人に増えた。
昭和に入ると、1938年(昭和13年)の芸妓数は260人に達し、静岡の座敷に出ていたというだけで採用試験を免除されるほど評価が高かったと紹介される。1927年(昭和2年)には、北原白秋が静岡の芸妓から、民謡「ちゃっきりぶし」の着想を得たとも伝わる。しかし、1940年(昭和15年)1月の大火で見番が焼け、1945年の空襲で市街地は大きな被害を受けた。1985年(昭和60年)には再建した見番を売却し、芸妓は13人まで減った。2011年(平成23年)には2人になったとされる。花街と遊廓の違いは花街と遊郭の違いで説明している。

撮影・作者: 歌川広重 / CC0 / Wikimedia Commons
清水の花街|巴川の河口から江尻へ
清水は、巴川の河口に開けた港町だ。江戸時代の清水湊には廻船問屋が集まり、1615年(元和元年)には回船問屋42軒に営業権が与えられた。1879年(明治12年)には近代的な波止場が完成し、1899年(明治32年)に開港場に指定される。この港の繁栄が、花街を支えた。
清水の芸妓の歴史を紹介する港の誘致委員会の解説によれば、置屋は巴川河口の海運問屋が並ぶ一帯に集中し、学区名の「清水」が花街の代名詞だった。ところが1889年(明治22年)の東海道線の開通で繁華街が移り、花街も、新しくできた江尻駅(旧「清水駅」)の方面へ移った。戦災で市街地が大きな被害を受けた後、1951年(昭和26年)には、全国でも珍しい「清水芸妓学校」が開かれ、開校式には150人を超える芸妓が集まったという。
昭和40年代の後半には、好景気の反動で座敷の使われ方が変わり、芸妓の出番も料亭も少なくなった。1973年(昭和48年)に経済界の有志が支援組織「清美会」を作り、1991年(平成3年)には新人芸妓を社員として雇う会社も設立された。しかし2004年(平成16年)に芸妓会社は解散し、「清水をどり」は1998年に、「春の舞」は2009年に休止された。現在は静岡伝統芸能振興会(静岡商工会議所清水事務所内)が受け継ぎ、豪華客船が寄港する際の歓迎行事などで舞を披露している。
江尻町の貸座敷指定地|確認できる数字は一点
清水に公認の遊廓があったのかは、公的な資料では確認しにくい。手がかりは、1929年の統計「日本全国遊廓一覧」に載る「庵原郡江尻町」の項で、貸座敷は9軒、娼妓は48人とある。江尻町は、東海道の宿場・江尻宿(天保14年・1844年に本陣2、脇本陣3、旅籠50、戸数1,340、人口6,498人と『東海道宿村大概帳』にある)を前身にして、1889年(明治22年)に発足した町で、1924年(大正13年)に入江町に編入されて廃止された。同年、入江町などが合併して清水市が発足している。宿場の遊所から続くのか、いつ指定されたのか、跡地がどうなったのかは、今回の調査では確認できなかった。
| 名称 | 所在地 | 成り立ち | 終わり・変化 | 今の手がかり |
|---|---|---|---|---|
| 二丁町(安倍川町) | 静岡市葵区駒形通五丁目付近 | 江戸初期(伝承では家康の時代) | 1945年に空襲で焼失、1946年に公娼廃止 | 双街の碑、稲荷神社、静岡県地震防災センター周辺 |
| 静岡の花街 | 静岡市(常磐町に見番) | 明治5年ごろまち芸者/1877年見番 | 1985年見番売却、2011年に芸妓2人 | 資料では確認できず |
| 清水の花街 | 清水区(巴川河口〜江尻) | 港町の置屋、1889年に江尻方面へ | 2004年に芸妓会社解散 | 静岡伝統芸能振興会が継承 |
| 江尻町の指定地 | 清水区中心部(旧庵原郡江尻町) | 確認できず | 確認できず | 確認できず |

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七間町物語編集委員会 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
静岡・清水の遊廓・花街の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1607〜09年(慶長12〜14年) | 家康が駿府に入り、伊部勘右衛門が官許の遊廓を造営したとされる |
| 1615年(元和元年) | 清水湊の回船問屋42軒に営業権が与えられる |
| 1780年(安永9年) | 最初の「二丁町細見」が出る |
| 1868〜69年 | 廓で出火し、翌年に復興する |
| 1872年(明治5年) | 芸娼妓解放令。まち芸者が登場する |
| 1877年(明治10年) | 常磐町に静岡の見番が置かれる |
| 1879年(明治12年) | 清水に近代的な波止場が完成する |
| 1889年(明治22年) | 東海道線が開通し、清水の花街が江尻方面へ移る |
| 1894年(明治27年) | 「静岡双街記念之碑」が建てられる |
| 1899年(明治32年) | 清水が開港場に指定される |
| 1924年(大正13年) | 江尻町が廃止され、清水市が発足する |
| 1929年(昭和4年) | 貸座敷は静岡市安部川町13軒・177人、江尻町9軒・48人 |
| 1940年(昭和15年)1月 | 静岡の見番が大火で焼ける |
| 1945年(昭和20年)6月19〜20日 | 静岡空襲で二丁町が焼ける |
| 1946年(昭和21年) | 公娼制度の廃止 |
| 1951年(昭和26年) | 清水芸妓学校が開校する |
| 2004年(平成16年) | 清水の芸妓会社が解散する |

資料で食い違う点
二丁町の始まりは、1605年、1607年、1609年といくつかの年が挙げられ、家康が駿府城の築城を始めた1585年の話とも結びついて語られるなど、伝承の域を出ない。江戸の吉原への関わり方も諸説ある。碑の建立も、年譜は1894年、別の記事は1952年とするなど差がある。清水の花街については、「稲荷町」や「銀座」といった町名を挙げる記述を今回は確認できなかった。江尻町の貸座敷指定地の来歴も未確認で、清水に独立した大きな遊廓があったとは書いていない。
まとめ
静岡の二丁町は、江戸初期に幕府公認の遊廓として語られ、細見や文学に名を残したのち、1945年の空襲と1946年の公娼廃止で終わった。花街は明治のまち芸者と見番から昭和の隆盛を経て縮小し、清水の花街は巴川の河口から江尻へ移りながら港とともに歩んだ。跡地に残るのは、石碑と神社、そして資料や催しの形での記憶だ。ほかの中部の旧遊廓は中部・北陸の遊郭跡、東京の遊廓跡は東京の旧赤線・旧遊廓跡、全体像は日本の遊廓とは?成り立ちと全国の主な遊廓一覧から読める。
よくある質問
Q. 二丁町遊廓とは何ですか?
A. 駿府(現在の静岡市)の安倍川近くにあった幕府公認の遊廓。家康の鷹匠組頭が許されて開いたと伝わり、一部が江戸の吉原に移ったという話もある。名の由来は諸説ある。
Q. 二丁町はどこにあり、今は何が残っていますか?
A. 静岡市葵区駒形通五丁目付近。遊廓の建物は残っていないが、静岡県地震防災センターの周辺に「双街(双町)の碑」や稲荷神社がある。
Q. 二丁町はいつ終わりましたか?
A. 1945年(昭和20年)6月の静岡空襲で焼け、1946年に公娼制度が廃止されて、戦後は復活しなかった。
Q. 清水にも遊廓はありましたか?
A. 1929年の統計に庵原郡江尻町の貸座敷9軒・娼妓48人が載る。ただ、成立の経緯や跡地を示す資料は確認できなかった。清水の花街(芸妓の町)は巴川河口から江尻方面に移った。
Q. 清水の芸妓は今もいますか?
A. 2004年に芸妓会社が解散したが、静岡伝統芸能振興会が受け継ぎ、客船の歓迎行事などで舞を披露している。人数は資料によって異なるため、ここでは記さない。
Q. 静岡の花街の見番はいつできましたか?
A. 1877年(明治10年)に常磐町に置かれ、芸妓の管理が一元化された。1940年の大火で焼け、再建した見番は1985年に売却された。
参考にした資料
- 静岡大学 小二田誠二「二丁町研究稿」(二丁町の年譜、細見の一覧、研究史)
- Wikipedia「二丁町遊廓」(起源の伝承、跡地の現状)
- 静岡市の遊廓~二丁町を歩く(跡地の碑・稲荷神社)
- 静岡伝統芸能振興会「芸妓さんの歴史」(静岡の見番、清水の花街の移り変わり)
- 清水港客船誘致委員会「清水芸妓」
- 清水港ウェブサイト「清水港の歩み」(回船問屋、波止場、開港場の指定)
- Wikipedia「江尻町」(町の発足と廃止、清水市の発足)
- 駿府の宿場「江尻宿」(天保14年の宿の規模)
- 「日本遊廓一覧」(上村行彰『日本遊里史』1929年の付録の転載。静岡市安部川町、庵原郡江尻町の貸座敷数・娼妓数)
- 全国遊廓赤線マップ「二丁町遊廓」(『全国遊郭案内』の引用。個人運営の記録)
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(東日本編)
北海道・東北・関東・甲信越・北陸・静岡の旧遊廓と花街の歴史。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 写真: 歌川広重 撮影(CC0)/Wikimedia Commons
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