東京の旧赤線・旧遊廓跡とは?吉原・洲崎・玉の井を歩く歴史と今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

東京の旧遊廓・旧赤線の跡は、地図に大きな印がつくような観光地ではない。多くは住宅地や商店街、幹線道路沿いの町になっていて、歩いて見つかるのは寺の墓碑、橋の跡を示す碑、交差点やバス停の名、そして数えるほどの古い建物だ。この記事は、東京の吉原・洲崎・玉の井・鳩の街・新宿二丁目・亀戸の6か所について、どの駅から入り、どの順に何を見るか、その場所にどんな歴史があるかを、資料で確認できた範囲で整理した街歩きの手引きである。店の紹介や利用の案内はしない。地域ごとの一覧は関東の遊郭跡の記事にまとめてあるので、ここでは「歩く順路」と「今の街での振る舞い方」に重心を置く。

東京の旧赤線・旧遊廓を歩く

吉原は三ノ輪駅から浄閑寺→見返り柳→大門跡へ洲崎は木場駅から神社・橋の跡・供養歌碑へ玉の井と鳩の街は路地の網目と商店街を歩く新宿二丁目は成覚寺・太宗寺の文化財を巡る撮影と立ち止まり方には特に配慮が要る
目次

歩く前に知っておきたい言葉と範囲

「遊廓」は貸座敷の営業地として公に指定された区画、「赤線」は戦後に特殊飲食店として半ば公認で続いた地域、「私娼街」は公認の外にあった街を指す。玉の井は戦前の私娼街で、戦後は赤線として続いたため、同じ場所でも時期によって性格が違う。言葉の違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いに、戦後の制度は赤線・青線の戦後史に詳しい。ほとんどの町は、1958年の売春防止法の全面施行で営業を終えた(売春防止法の歴史)。

跡地を歩くときに心得ておきたいのは、碑や建物が「少ない」という事実そのものが歴史の一部だということだ。関東大震災と1945年3月の東京大空襲で、吉原・洲崎・玉の井は大きな被害を受けた。戦後の区画整理や住居表示で町名も変わっている。目印が乏しいぶん、事前に「何を見に行くのか」を決めておくと歩きやすい。

東京の街歩き早見表|年表で流れをつかむ

年出来事
1617年日本橋葺屋町に遊廓が許可される(元吉原)
1657年明暦の大火のあと、浅草寺北の日本堤付近へ移転し新吉原となる
1772年内藤新宿が宿場として再興される(1718年にいったん廃止)
1888年根津から移転した洲崎遊廓が開業する
1918〜19年ごろ浅草の言問通り開通に伴い、銘酒屋が玉の井へ移り始める
1923年関東大震災。浅草では銘酒屋の再建が認められず、亀戸と玉の井で営業が続く
1945年3月東京大空襲。吉原・洲崎・玉の井などが大きな被害を受ける
1945年7月玉の井を焼け出された業者が鳩の街で開業する
1958年4月売春防止法の全面施行。赤線が終わる
1966〜67年吉原は1966年、洲崎は1967年の住居表示で旧町名が消える
1617年の元吉原の許可から、新吉原への移転、洲崎の開業、東京大空襲、1958年の売春防止法の全面施行、吉原・洲崎の旧町名の消滅(1966〜67年)までを並べた東京の旧遊廓・赤線の年表
東京の旧遊廓・赤線の年表(年号は資料により前後する場合があります)

吉原を歩く|三ノ輪駅から大門跡、吉原神社へ

吉原(台東区千束三・四丁目)は、東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅か入谷駅から歩いて入るのが分かりやすい。吉原神社の所在地の紹介では、どちらの駅からも徒歩12分ほどとされる。ここでは、廓の外から中へ入っていく客の動線をたどる順に、三ノ輪から南下する歩き方を紹介する。

1. 浄閑寺(荒川区南千住)|廓の外にある供養の寺

三ノ輪駅から徒歩2分ほどの浄閑寺は、遊女を葬った「投込寺」として知られる。1855年(安政2年)の大地震のとき、多くの遊女が投げ込むように葬られたことが呼び名の由来とされる。境内には新吉原総霊塔と、永井荷風の詩碑・筆塚がある。総霊塔には、花又花酔の川柳が刻まれていると紹介される。吉原の歴史を「華やかさ」だけで語れないことを、最初に思い出させてくれる場所だ。墓地を含む境内なので、静かに参拝するのが前提になる。

2. 日本堤から見返り柳、衣紋坂へ

浄閑寺から土手通りを南へ進むと、かつての日本堤にあたる道筋に出る。大門の交差点の手前、衣紋坂の入口には「見返り柳」の碑と柳がある。帰る客が後ろ髪を引かれて振り返った場所という由来で、現在の柳は代替わりしたものだ。衣紋坂は、客が身なりを整えた坂が名の由来とされ、そこから大門までの道(五十間道)は、外から廓の中が見えにくいように曲げて造られたと伝わる。場所や由来には諸説あるので、「そういう言い伝えの道」として歩くのがよい。

3. 大門跡と吉原神社、吉原弁財天

吉原唯一の出入口だった大門は、明治期に鉄の門に替わり、1911年の大火で焼け、関東大震災の後に撤去された。いまは交差点名とバス停名に「吉原大門」が残り、門のあった場所を示すモニュメントも紹介されている。そこから廓内に入った千束三丁目に、吉原神社(千束3-20-2)がある。廓内の四隅と入口にあった稲荷社5社を合祀した神社で、創建は1881年(明治14年)とする資料が多い(1872年とする紹介もあり、資料で揺れる)。吉原弁財天は1935年に合祀され、千束3-22の飛地境内に「花吉原名残碑」(1960年建立)が立つ。ここは関東大震災で池に逃げた人々が亡くなった弁天池の跡で、慰霊の観音像もある。犠牲者の数は資料によって差が大きく、断定しない。

4. 余裕があれば|樋口一葉と竜泉

吉原のすぐ北の竜泉には、台東区立一葉記念館(竜泉3-18-4)がある。樋口一葉は約9か月、この地で荒物・駄菓子の店を営みながら暮らし、そこでの見聞が『たけくらべ』につながったとされる。記念館は三ノ輪駅から徒歩10分ほどで、1961年に開館した。月曜休館のため、訪ねる日は事前に確かめたい。

なお、吉原は1966年の住居表示で旧町名が消え、現在も特殊浴場の営業が認められている地域として続く。通りを歩く際は、歴史を見に来た人も周囲からは「客」に見えうる点を意識しておくとよい。

日本堤に立つ見返り柳と、そこから新吉原の町並みを見渡す人々を描いた広重の浮世絵
歌川広重「新吉原日本堤見返り柳」(江戸名所の一枚、1853年)。帰る客が振り返ったと伝わる柳を描く
Utagawa Hiroshige / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
交差点の角に立つ「見返り柳」と刻まれた石碑と説明板
吉原の入口にある「見返り柳」の碑(2021年10月撮影)。現在の柳は代替わりしたもの
撮影・作者: Higa4 / CC0 1.0 / Wikimedia Commons
電柱の立つ大門の前に集まる人々を描いた、素描風の木版画
桐谷洗鱗「吉原の大門」(1924年の木版画、ホノルル美術館蔵)。大門は関東大震災の後に撤去され、いまは名前だけが残る
Kiritani Senrin / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

洲崎を歩く|木場駅から洲崎橋の跡、供養歌碑へ

洲崎遊廓は、東京大学の近くにあった根津遊廓が風紀上問題とされ、1886年に移転が決まり、1888年に開業した。江戸時代の洲崎は「深川洲崎十万坪」と呼ばれた景勝地で、1791年(寛政3年)の高潮の後は幕府が建築を禁じた土地でもある。戦後は「洲崎パラダイス」として復興し、1958年に終わった。町名の「洲崎」は1967年の住居表示で消え、現在の東陽一丁目になっている。

歩き始めは東京メトロ東西線の木場駅が分かりやすい。駅から徒歩2分ほどの洲崎神社(江東区木場6-13-13)は、洲崎弁天として親しまれた社で、地名の由来の場所だ。境内には、1791年の高潮の惨状を刻んだ「波除碑」がある。江東区の文化財情報にも所在地として洲崎神社が記載されている。

神社から東陽一丁目方面へ歩くと、旧遊廓の入口にあたる洲崎橋の跡に出る。かつての大門は、永代通りの東陽三丁目交差点から入った洲崎橋の位置にあり、1958年に撤去された。洲崎川は1982年に埋め立てられて洲崎川緑道公園になり、橋の跡には往時の銘板を使った記念碑が置かれている。区立東陽1丁目第2公園(東陽1-39-5)には、「洲崎遊廓追善供養歌碑(昭和6年在銘)」があり、江東区が1999年3月に文化財(歴史資料)として登録した。

建物の面影は、思うほど残っていない。旧「大賀楼」の建物は2011年に解体され、旧遊廓時代の建物を改装した商店街の店も2016年に取り壊された。歩いて分かるのは、碁盤状の区画と、緑道になった川筋、碑の位置関係である。1956年の映画『洲崎パラダイス 赤信号』には往時の様子が記録されているので、歩く前に見ておくと、いまの町との差が実感できる。

赤い鳥居と石の玉垣が並ぶ洲崎神社の入口
江東区の洲崎神社の鳥居(2022年5月撮影)。洲崎遊廓の歩き始めにあたる神社で、境内には波除碑がある
撮影・作者: Mizushimasea / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

玉の井と鳩の街を歩く|東向島駅から路地の網目へ

玉の井(墨田区東向島五・六丁目、墨田三丁目)は、公認の遊廓ではなく、銘酒屋が並ぶ私娼街だった。永井荷風『濹東綺譚』の舞台として知られ、荷風は路地の入り組んだ様子を「ラビラント(迷宮)」と呼んだ。起点は東武スカイツリーラインの東向島駅で、この駅は1987年まで「玉ノ井駅」という名だった。1933年の寺島警察署の統計では銘酒屋497軒・女性約1,000人とされるが、実数はさらに多かったとする説もある。

1945年3月10日の東京大空襲で街はほとんど焼け、戦後は焼け残った地域(いまの墨田三丁目付近)で、警察の指導でカフェー風の店に改めた赤線として続いた。1958年に終わり、普通の下町になっている。見どころは、細く曲がる路地の網目がほぼ昔のままであることと、色タイルを貼ったカフェー風の建物がわずかに残ることだ。ただし、建て替えや改修で減りつつあり、どの建物が残っているかは時期によって違う。個人の家が並ぶ生活道路なので、立ち止まって見入ったり、集団で歩いたりするのは避けたい。

玉の井から約1km離れた鳩の街は、東京大空襲で焼け出された業者が1945年7月に開いた赤線だ。終戦直後は米兵向けだったが、性病の感染が多く、1946年に米兵の立入が禁じられ、日本人向けの特殊飲食店街として発展した。1952年は娼家108軒、接客の女性298人とされる。1958年4月1日の完全施行で全業者が廃業し、跡地は商店街やアパートになった。吉行淳之介の小説『原色の街』の舞台でもある。

いま「鳩の街通り商店街」の名で残る道は、東武曳舟駅から徒歩5分ほどで、水戸街道から墨堤通りまで約300mとされる。裏通りには色タイルの建物が一部あり、戦前に建った木造の建物や、戦前のままの道幅も紹介される。一方でシャッターを下ろした店も多く、近年は空き家を使った新しい店も出ている。住宅街であり通学路でもあるので、車と自転車に気をつけて歩くこと。

新宿二丁目を歩く|寺に残る内藤新宿の記憶

新宿二丁目の遊廓の歴史は、内藤新宿の宿場にさかのぼる。内藤新宿は1718年にいったん廃止され、1772年に再興された江戸四宿の一つで、飯盛女を抱える旅籠が並んだ。1918年に貸座敷が旧牛屋ヶ原へ集められ、1923年の関東大震災の後に再建されて、新宿遊廓として栄えた。1945年に戦災で焼け、戦後は赤線として続き、1958年に終わった。

歩く起点は、東京メトロ丸ノ内線の新宿御苑前駅か、新宿三丁目駅だ。太宗寺(新宿2-9-2)は新宿御苑前駅から徒歩2分ほどで、1712年製の江戸六地蔵の銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定有形文化財)と、閻魔像・奪衣婆像(新宿区指定有形民俗文化財)がある。成覚寺(新宿2-15-18)は、飯盛女が亡くなったときに葬った投込寺でもあり、1860年に旅籠の主人らが建てた「子供合埋碑」と、1800年造立の「旭地蔵」が、新宿区の有形文化財(歴史資料、1985年8月指定)になっている。戯作者・恋川春町の墓も境内にある。正受院(新宿2-15-20)の奪衣婆像も新宿区指定有形民俗文化財だ。町そのものに遺構が乏しい分、この三つの寺が内藤新宿の記憶を預かっている。

1960年代半ば以降、旧赤線の区域にゲイバーが集まり、現在の二丁目は日本有数のゲイタウンとして知られる。歴史の見学のつもりでも、街で過ごす人の多くは、訪れる人に身元を知られたくない事情を抱えている可能性がある。通りで人物が写り込む撮影は避け、寺の見学だけを目的にするなら昼間に訪ねるのがよい。

新宿・太宗寺の境内に座る銅造の地蔵菩薩坐像と、周囲のビル
新宿・太宗寺の銅造地蔵菩薩坐像(2016年7月撮影)。内藤新宿の歴史を伝える寺のひとつ
撮影・作者: tak1701d / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

亀戸|震災後に栄えた銘酒屋の町

亀戸は、玉の井と並んで語られる銘酒屋の町だった。1923年の関東大震災の後、浅草で警視庁の取締りが強まり、銘酒屋の拠点は亀戸と玉の井に移ったとされる。亀戸の銘酒屋は1945年の東京大空襲で焼け、戦後は目抜き通りの北側の指定地に移って続いた。ただ、跡地に残る建物や碑については、今回の確認では公的な資料に当たれなかったため、ここでは記さない。現地を訪ねるなら、亀戸天神や香取神社など古い社寺を中心に歩き、街の古い成り立ちを見るくらいの距離感がよいだろう。

歩くときの注意|撮影・マナー・住民への配慮

旧遊廓・赤線跡を歩く5つの心得

1. 住宅地では立ち止まらず、静かに歩く。玉の井や鳩の街の路地は私生活の場で、塀の内側や窓をのぞき込まない。

2. 人が写り込む撮影はしない。営業が続く地域では、通行人や関係者の顔を撮らない。建物を撮る場合も、住民の迷惑にならない短時間にとどめる。

3. 墓所・寺では参拝者として振る舞う。浄閑寺や成覚寺は供養の場であり、大声や集団での見学は控える。

4. SNSに載せるときは、個人の家の位置が特定できる写真を避け、建物の現状を断定しない。建て替えや解体で状況が変わっている。

5. 夜間は避ける。吉原・新宿二丁目などは、現在も営業する店の街としての顔があり、昼間の見学を基本にする。

東京の旧赤線・旧遊廓跡|最寄駅と見どころ一覧

「見どころ」は、資料で確認できたものだけを挙げた。建物は今後も減る可能性がある。

場所起点の駅主な見どころ現在の性格
吉原三ノ輪駅・入谷駅浄閑寺、見返り柳、衣紋坂、大門跡、吉原神社、弁財天特殊浴場の営業地として続く
洲崎木場駅洲崎神社と波除碑、洲崎橋跡の碑、供養歌碑(区文化財)住宅地・商店街
玉の井東向島駅路地の網目、色タイルの建物(わずか)住宅地
鳩の街曳舟駅鳩の街通り商店街、色タイルの建物(一部)商店街・住宅地
新宿二丁目新宿御苑前駅・新宿三丁目駅太宗寺・成覚寺・正受院の文化財飲食店街(ゲイタウンとして知られる)
亀戸亀戸駅(跡地の現状は確認できず)市街地

まとめ

東京の旧遊廓・赤線を歩くと、見えるのは建物より「名残の置き方」の違いだ。吉原は寺と神社、町名、柳と碑に歴史が残り、洲崎は橋の跡と川筋、供養歌碑に記憶が移された。玉の井と鳩の街は、路地の幅や色タイルの建物がわずかに語る。新宿二丁目では、遊廓の歴史が寺の文化財に預けられている。どの町も1958年に営業を終えたが、その後の姿は住宅地、商店街、飲食店街とまったく違う。歩くときは、碑を探すこと、静かに通ること、写真を撮りすぎないことを守りたい。歴史の全体像は日本の遊廓とは?成り立ちと全国の主な遊廓一覧と歴史・トリビア記事の一覧から読める。

よくある質問

Q. 東京で旧遊廓跡を歩くなら、まずどこがよいですか?
A. 碑や寺などの見どころが集まる吉原がわかりやすい。三ノ輪駅から浄閑寺、見返り柳、大門跡、吉原神社の順に歩くと、廓の外から中へ入る流れが追える。

Q. 玉の井や鳩の街は遊廓の跡ですか?
A. 玉の井は戦前の私娼街で、公認の遊廓ではない。戦後は鳩の街とともに赤線として続いた。違いは赤線・青線の記事に整理してある。

Q. 洲崎に建物は残っていますか?
A. 旧「大賀楼」は2011年に、遊郭時代の建物を改装した商店街の店は2016年に解体されたと紹介されている。いまは橋の跡の碑、緑道公園、供養歌碑など、碑と地形が中心だ。

Q. 新宿二丁目で歴史を見るなら?
A. 太宗寺、成覚寺、正受院の文化財を巡る。子供合埋碑と旭地蔵は新宿区の有形文化財(歴史資料)、奪衣婆像は有形民俗文化財だ。

Q. 写真を撮ってもよいですか?
A. 建物や碑の撮影は、住民や通行人が写らない範囲で短時間にとどめる。人物が写り込む撮影は避ける。寺の境内は参拝者として静かに振る舞う。

Q. 東京以外の関東の旧遊廓は?
A. 横浜・川崎・八王子などを含む関東全体は関東の遊郭跡にまとめてある。

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Higa4 撮影(CC0 1.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: Mizushimasea 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: tak1701d 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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