※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。
香川県高松市の城東町二丁目には、「八重垣新地」と呼ばれる一角がある。高松港に突き出た埋立地に明治の初めごろ開かれた遊廓の跡で、四国の玄関口として栄えた港町の歴史と深く結びついている。この記事では、営業や利用には触れず、埋立てから遊廓の成立、『全国遊廓案内』の数字、高松空襲、赤線を経た戦後、町名の移り変わりと、いまの街の姿を整理する。高松の遊廓は公的な資料が少なく、個人サイトの探訪記や百科事典的な記述に頼る部分も多いため、確認できなかった点は明記した。
八重垣新地(高松の遊廓)の要点
八重垣新地とは|場所と名前
八重垣新地は、高松市中心部の北寄り、高松港に面した城東町二丁目にある。高松駅から東へ1キロ強、高松城跡の北東にあたり、海に突き出た半島状の埋立地だ。城東町は「高松城の東にある町」という意味に由来する。地名の「新地」は、新しく開かれた土地の呼び名から遊里の名になった言葉で、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。「八重垣」は、埋立ての際に北側の海岸沿いをこう呼んだことに由来するとされる。

江戸時代の絵師(不詳) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
東浜港の埋立てと遊廓の成立
高松は江戸時代、松平氏の城下町として栄えた。城の東の東浜は、舟入港(のちの東浜港)に面した商人の町で、物資を運ぶ問屋が並んだ。高松藩による埋立てが重ねられ、海側に新湊町などの新しい町ができた。Wikipediaの「城東町」の項によれば、1871〜1872年(明治4〜5年)ごろ、七星勘四郎(弥兵衛)が新湊町の北側を埋め立て、その地を「新地」、北側の海岸沿いを「八重垣」と呼ぶようになった。
遊廓がいつ始まったかは、資料によって少しずれる。1930年(昭和5年)の『全国遊廓案内』は「明治元年頃に創立された」と書く。Wikipediaの「八重垣新地」の項は1869年ごろとし、「城東町」の項は1877年(明治10年)ごろから遊廓が立ち並ぶようになったとする。このころまでに新湊町と八重垣は東浜町に編入された。創設の年を一つに決められる一次資料は、この記事では確認できなかった。
地区の入口近くには東濱恵比須神社がある。個人サイトの探訪記によれば、正面の鳥居には「萬民快楽」の文字と「慶応元年乙丑六月」の年号があり、玉垣には「新地睦会」の名が見える。慶応元年は1865年で、明治元年の直前にあたる。鳥居の年号を遊廓の創設と直接結びつける証拠はないが、創設年を考える手がかりとして紹介されることがある。

h-tori / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
四国の玄関口として|宇高連絡船と最盛期
高松が大きく伸びたのは、交通の拠点になったためだ。1910年(明治43年)6月12日に宇野線の開通に合わせて宇野と高松を結ぶ宇高連絡船が始まり、昭和初期にかけて高松駅から四国各地へ鉄道網が広がった。本州と四国を結ぶ船の終点として、高松は旅客と物資が集まる港町になった。連絡船は1988年(昭和63年)に運航を終えている。
こうした流れの中で、八重垣の遊廓も昭和初期に最盛期を迎え、38軒が並んだと紹介されている。『全国遊廓案内』が載せる規模は、貸座敷34軒、娼妓180人で、大阪府や中国地方出身の女性が多いと書かれている。数字は調査の時点や数え方で変わるので、昭和初期の規模の目安として受け取ってほしい。

The United States Strategic Bombing Survey / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

US Army Air Forces / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
高松空襲と赤線
1945年(昭和20年)7月4日の午前2時56分、高松は大規模な空襲を受けた。総務省の戦災記録によれば、爆撃は106分にわたって続き、焼夷弾809トンと高性能爆弾24トンが投下された。被害は市街地の約80パーセントにあたる3.85平方キロメートル、建物18,913戸、死者は1,359人にのぼる。八重垣の遊廓も、この空襲で焼けたとされる。
戦後の1946年(昭和21年)にGHQの指令で公娼制度が廃止されると、この地区は赤線として営業した。1955年(昭和30年)ごろの『全国女性街ガイド』は、東浜一帯の「北の新地」に54軒、約170名と記している。昭和初期の34軒・180人と比べると、店の数は増えている。赤線の成り立ちは赤線・青線とは?戦後の歴史で解説している。
1956年に売春防止法が成立し、1958年(昭和33年)に全面施行されると、赤線は終わった。法の流れは売春防止法(1956年)の記事にまとめてある。その後の町は、旧売春宿の多くが「トルコ風呂」(のちのソープランド)などに転換して営業を続け、現在も県条例の指定地区として歓楽的な営業が続いていると紹介されている。ここでは営業の中身には立ち入らず、街の歴史を扱う。
町名の移り変わり|東浜町から城東町へ
戦災で焼けた町は、戦災復興土地区画整理事業で作り替えられた。袋小路や曲がりくねった道が整理され、東側を南北に貫く道が整備されている。換地処分が完了したのは1964年(昭和39年)1月25日だ。町名は、1958年に中部と北部が東浜町二丁目・三丁目となり、1972年(昭和47年)に東浜町二丁目・三丁目などをまとめて城東町が新設された。いまの城東町二丁目は、この流れの中で生まれた町名だ。
地形も変わった。かつての城東町は、西の東浜港と東の杣場川にはさまれた細長い半島だったが、その後の埋立てや暗渠化で半島部分は短くなり、現在は二丁目の一部だけが残る。瀬戸大橋通りの建設に合わせた埋立てで、通りより南側は陸地になった。
今の姿|港の半島に残る建物
八重垣新地は、高松港の倉庫街の一角にある周囲約430メートル、面積約1.4ヘクタールの区域だ。高松駅からは徒歩で20分ほど、ことでん片原町駅からは約10分の距離にある。半島の東側には造船所のドックが見え、西側には高松港の再開発地区が遠望できる。港町の景観が色濃い。
戦後の赤線時代の建物については、個人サイトの探訪記が、玄関上に凝った意匠をもつ建物や、窓の上にアーチ状の飾りがある建物、屋上付近に蛸のような形の装飾が付いた建物などを紹介している。ただし、確実な遺構とは言い切れないものも多く、ほかの探訪記で紹介された最も大きな建物はすでに取り壊され、駐車場になっていたという報告もある。いまも営業が続く区域なので、撮影や立ち止まりは慎み、外から歴史を静かに見るのが前提だ。

八重垣新地の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1865年 | 東濱恵比須神社の鳥居が建つ(刻銘は「慶応元年」) |
| 1868年ごろ | 『全国遊廓案内』が「明治元年頃に創立」と記す |
| 1871〜1872年 | 七星勘四郎が新湊町の北側を埋め立て、「新地」「八重垣」と呼ばれる |
| 1877年ごろ | 遊廓が立ち並ぶようになり、東浜町に編入される |
| 1910年6月12日 | 宇高連絡船が開業 |
| 1930年 | 『全国遊廓案内』が貸座敷34軒・娼妓180人を載せる |
| 1945年7月4日 | 高松空襲。遊廓は焼失 |
| 1946年 | 公娼制度が廃止され、赤線へ |
| 1955年ごろ | 『全国女性街ガイド』が54軒・約170名と記す |
| 1958年 | 売春防止法の全面施行。赤線が終わる |
| 1964年1月25日 | 戦災復興土地区画整理事業の換地処分が完了 |
| 1972年 | 東浜町の一部から城東町が新設される |
まとめ
高松の八重垣新地は、東浜港の埋立地に明治の初めごろ開かれ、宇高連絡船と鉄道網の整備にともなって四国の玄関口の遊廓として栄えた。1930年の『全国遊廓案内』は貸座敷34軒、娼妓180人を載せる。1945年7月4日の高松空襲で焼け、戦後は赤線を経て、1958年の売春防止法の全面施行で終わった。町名は東浜町から城東町へ変わり、半島の形も埋立てで変化している。創設年や戦後の店数は資料ごとに差があり、この記事では確認できなかった点も残る。同じ中国・四国の旧遊廓は中国・四国の遊郭跡一覧、全国の位置づけは日本の遊廓の成り立ちと一覧から読める。
よくある質問
Q. 八重垣新地とは何ですか?
A. 高松市城東町二丁目にある、明治の初めごろに開かれた遊廓の跡地だ。高松港の東浜港の埋立地に成立し、戦後は赤線を経て現在に至る。
Q. いつから遊廓があったのですか?
A. 『全国遊廓案内』は「明治元年頃に創立」と書く。1869年ごろとする記述や、1877年ごろから遊廓が立ち並んだとする記述もあり、年は資料によって異なる。
Q. どれくらいの規模でしたか?
A. 1930年の『全国遊廓案内』は貸座敷34軒、娼妓180人。昭和初期の最盛期には38軒が並んだとされる。戦後の1955年ごろの案内書は54軒、約170名と記す。
Q. 高松空襲で焼けましたか?
A. 1945年7月4日の高松空襲で焼失したとされる。この空襲では市街地の約80パーセントが焼け、死者は1,359人にのぼった。
Q. いつ終わりましたか?
A. 1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で、遊廓の流れをくむ赤線は終わった。その後は業態を変えながら、県条例の指定地区として営業が続いている。
Q. 町名が城東町になったのはいつですか?
A. 1972年(昭和47年)。1958年に東浜町二丁目・三丁目となった地区などをまとめて城東町が新設された。
参考にした資料
- Wikipedia「八重垣新地」(概要・歴史・参考文献。該当ページ)
- Wikipedia「城東町 (高松市)」(埋立て、遊廓の成立、町名の変遷。該当ページ)
- 総務省「高松市における戦災の状況(香川県)」(1945年7月4日の高松空襲。該当ページ)
- Wikipedia「宇高連絡船」(1910年の開業。該当ページ)
- 個人ブログの探訪記(鳥居の刻銘、建物の様子の参考。Nostalgic Landscape、KURUWA.PHOTO、Ameba ブログ)
- 日本遊覧社『全国遊廓案内』(1930年)、『全国女性街ガイド』(1955年ごろ)、『角川日本地名大辞典37 香川県』は、上記の記事などでの引用による
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