※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
鳩の街は、東京都墨田区の向島と東向島の境にあった戦後の赤線地帯で、いまは「鳩の街通り商店街」という名前と、裏通りの古い建物にその記憶をとどめている。この記事では店舗や営業には触れず、いつ、なぜここに街ができ、どう終わり、いまどんな姿なのかを、公開されている資料で確認できた範囲だけ整理する。開業の月など、資料によって食い違う点はその旨を書いた。
鳩の街とは
鳩の街とは|場所と基本情報
鳩の街があったのは、隅田川の東、墨田区の向島と東向島の境にあたる一帯だ。戦前から有名だった私娼街の玉の井とは、およそ1キロ離れている。戦後の特殊飲食店街、いわゆる赤線のひとつで、営業していた期間は十数年と短い。赤線という言葉の意味や、青線との違いは赤線・青線の記事にまとめてある。 現在、地名として使われているのは「鳩の街通り商店街」で、水戸街道から墨堤通りまで約370メートル続く。商店街の前身は1928年(昭和3年)に設立された寺島商栄会で、1948年に「鳩の街通り商栄会」と改称し、1999年に現在の振興組合の名称になった。つまり、通りの名前としての「鳩の街」は、赤線の呼び名をそのまま受け継いだものだ。
鳩の街が生まれた背景|玉の井と東京大空襲
鳩の街を理解するには、先に玉の井を知っておく必要がある。玉の井は、永井荷風の『濹東綺譚』によれば、1918〜19年ごろに浅草の観音堂裏から銘酒屋が移ってきたのが始まりとされる私娼街だ。関東大震災のあと、浅草の私娼街が再建を許されなかったのに対し、玉の井では営業が認められて大きくなった。1933年には、寺島警察署の統計で銘酒屋497軒、女性約1,000人を数えたという。詳しい経緯は関東の遊郭跡の記事でも触れている。
1945年3月10日の東京大空襲で、玉の井の大半は焼けた。このとき、焼け出された業者の一部が、焼け残った住宅地に目をつけて移ったのが、鳩の街の始まりだ。開業の時期は資料で食い違い、1945年の5月、6月、7月と異なる記述がある。いちばん広く引用されているのは、同年7月に何軒かが開業したという説明だ。当局から、客を軍需工場で働く人に限るという条件で営業を認められた、と書く資料もある。はじめは数軒の規模で、終戦のころには40軒を超えていたとされる。
終戦直後は、進駐してきた米兵向けの施設として使われた。ところが兵士の性病感染が多く、1946年(昭和21年)に米兵の立ち入りが禁止される。以後は日本人向けの特殊飲食店街として発展した。警察の指導で、店は壁や柱にタイルを貼り、椅子とテーブルを置く「カフェー」風の造りに整えられている。これは鳩の街だけでなく、戦後の東京の赤線に共通する特徴だった。

米軍撮影 (U.S. military) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
鳩の街の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1918〜19年ごろ | 玉の井が成立する(『濹東綺譚』による) |
| 1928年 | 商店街の前身「寺島商栄会」が設立される |
| 1945年3月10日 | 東京大空襲。玉の井の大半が焼ける |
| 1945年夏 | 焼け出された業者が鳩の街で開業(月は資料により5〜7月と分かれる) |
| 1946年 | 米兵の立ち入りが禁止され、日本人向けの特殊飲食店街になる |
| 1948年 | 商店街が「鳩の街通り商栄会」と改称する |
| 1951年12月 | 吉行淳之介『原色の街』が雑誌『世代』に載る |
| 1952年ごろ | 娼家108軒、女性298人とされる |
| 1955年 | 永井荷風の作品をもとにした映画が公開される |
| 1958年4月1日 | 売春防止法の完全施行。全業者が廃業する |
| 1999年 | 「鳩の街通り商店街振興組合」となる |
| 2008年 | 空き家を若い作り手に貸す「チャレンジスポット」が始まる |

赤線時代の鳩の街|規模とカフェー建築
規模を示す数字として、よく引かれるのが1952年(昭和27年)のものだ。Wikipediaには娼家108軒、接客する女性298人とある。別の研究者のまとめでは109軒、約300人で、ほぼ同じ規模を指す。翌1953年の新聞報道として126軒、430人という数字を紹介する資料もあるが、この狭い区画にそれだけ収まるのかと疑う指摘もあり、確実な数字とは言いにくい。「1950年代前半に100軒あまり、約300人」くらいに押さえておくのが無難だろう。
建物の特徴は、色タイルを貼ったカフェー風の外観だ。極彩色のタイルを使った外壁や飾り窓は、「カフェー建築」「赤線建築」と呼ばれ、建築や風俗史の資料として関心を集めてきた。なお、玉の井が戦前から続いた「迷路のような路地」で知られるのに対し、鳩の街は戦後に焼け残りの住宅地を転用して急造された新興の街で、成り立ちの時代が違う。
文学・映画に描かれた鳩の街
鳩の街の名を全国に知らせたのは、文学だ。吉行淳之介の『原色の街』は、1951年(昭和26年)12月号の雑誌『世代』に発表された小説で、芥川賞の候補作になった。舞台は向島の鳩の街の赤線地帯で、そこで暮らす女性と客の関係を描いている。
永井荷風は、鳩の街を題材にした戯曲『春情鳩の街』を書いた。これが『にぎりめし』『渡鳥いつかへる』と合わせ、久保田万太郎の構成で1955年に映画になっている。題名は『「春情鳩の街」より 渡り鳥いつ帰る』で、久松静児が監督し、田中絹代や高峰秀子らが出演した。舞台は昭和27年ごろの向島の色街とされる。
このほか、安岡章太郎、三浦朱門、小沢昭一といった作家や芸能人が足を運んだことが知られ、後年には小沢昭一らが、赤線が終わる最後の日の鳩の街を記録した。歌手で女優の木の実ナナがこの地で生まれ育ったことも、よく知られている。

パブリックドメイン / Wikimedia Commons
1958年の終わり|売春防止法と最後の日
1956年(昭和31年)5月に売春防止法が国会で成立し、罰則が適用される1958年(昭和33年)3月末で、赤線は営業を終えることになった。法律の内容と経緯は売春防止法の記事に詳しい。鳩の街は、施行前日の3月31日まで営業していたとされ、吉原より遅くまで続いたと書く資料もある。この日には「蛍の光」が流れ、別れを惜しむ光景があったと伝わる。
1958年4月1日の完全施行で、全業者が廃業した。跡地は、商店街やアパートなどの住宅に変わっていく。全国の赤線が一斉に終わった後の流れは、風営法の歴史とあわせて読むと分かりやすい。
鳩の街通り商店街へ|戦後の移り変わり
赤線が終わったあと、通りには生鮮食品店や生花店などが並んだ。1950年代半ばから1970年代半ばは商店街の黄金期とされ、近くの向島の料亭街が主な客先になって、大いににぎわったという。ところが、料亭の利用が減るとともに客足が落ち、高齢化も進んで、シャッターを閉めた店が増えていった。向島の花街と赤線は別のもので、前者については花街と遊郭の違いを参照してほしい。
近年は、通りを新しい形で使う動きが出ている。2008年に始まった「チャレンジスポット」は、取り壊しが予定されていた空き家(鈴木荘)を商店街が借り上げ、家賃を抑えて若いクリエイターに期限つきで貸す取り組みで、1階を店舗、2階をアトリエとして使うかたちをとってきた。また、細い路地が多く大型の消防車が入りにくいため、屋根に降った雨を地下の貯水槽にため、手押しポンプでくみ上げる防火用設備「路地尊」も設けられている。
今の姿|歩いて見える痕跡
商店街そのものは、惣菜店、鮮魚店、美容室、カフェなど、普通の下町の商店街だ。東京大空襲を免れたため、戦前からの幅3メートルほどの道が残っているとされる。赤線の建物は、色タイルを貼った柱や壁をもつ住居が裏通りに数軒残るといわれるが、建て替えが進み、大型のマンションが建つなど、年々減っている。現在は住居として使われているものがほとんどなので、見に行く場合は住民の生活を妨げないようにしたい。
近くの東武線の東向島駅は、1987年(昭和62年)12月に改称するまで「玉ノ井駅」と呼ばれていた。駅名の変更で消えた「玉ノ井」の名と、通り名に残る「鳩の街」。二つの名前は、この一帯が歩んだ歴史を、いまも静かに伝えている。
「鳩の街」という名前の由来
名前の由来を記した確かな一次資料は、今回の調査では確認できなかった。よく語られるのは二つの説だ。ひとつは、進駐軍の兵士に「ここへ来れば幸せになれる」という意味を込め、幸せの象徴である鳩を街の名にしたという説。もうひとつは、米兵がこの街を平和の象徴として「ピジョン・ストリート」と呼んでいたものを、直訳したという説だ。どちらも地元の語りや案内記事で紹介されているもので、史料で裏づけられたわけではない。
まとめ
鳩の街は、1945年の東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が、焼け残った向島の住宅地に開いた赤線地帯だ。米兵向けから日本人向けへと変わり、警察の指導でカフェー風の建物が並んだ。1952年ごろには100軒あまり、女性約300人の規模になり、吉行淳之介の『原色の街』や永井荷風の戯曲で全国に知られる。1958年4月1日の売春防止法の完全施行で終わり、跡地は商店街と住宅になった。いまは「鳩の街通り商店街」の名前と、裏通りの限られた建物、そして空き家活用や路地尊といった地域の取り組みに、当時の面影と現在が重なっている。ほかの街の流れは歴史・知識の一覧からたどれる。
よくある質問
Q. 鳩の街はどこにあったのですか?
A. 東京都墨田区の向島と東向島の境にあたる一帯だ。玉の井からはおよそ1キロ離れている。現在は「鳩の街通り商店街」が、水戸街道と墨堤通りの間を約370メートルにわたって続いている。
Q. 鳩の街はいつ、どうやってできたのですか?
A. 1945年3月の東京大空襲で玉の井が焼け、焼け出された業者が焼け残った住宅地に移って開いたのが始まりとされる。開業の月は資料により5〜7月と分かれ、7月とする説明がよく引かれる。
Q. 玉の井と鳩の街は同じ場所ですか?
A. 別の場所だ。玉の井は戦前からの私娼街で、鳩の街はその戦災後に生まれた赤線地帯。ただし、玉の井の業者が移って成立した点で深くつながっている。
Q. 鳩の街はいつ終わったのですか?
A. 1958年(昭和33年)4月1日の売春防止法の完全施行で、全業者が廃業した。前日の3月31日まで営業していたとされる。
Q. 鳩の街が出てくる文学作品はありますか?
A. 吉行淳之介の小説『原色の街』(1951年)、永井荷風の戯曲『春情鳩の街』などがある。荷風の作品は1955年に映画化された。
Q. 今も当時の建物は残っていますか?
A. 裏通りに、色タイルを貼った建物がわずかに残るとされるが、建て替えが進んで数は減っている。多くは住居として使われているため、見学の際は配慮が必要だ。
参考にした資料
- Wikipedia「鳩の街」「玉の井」「原色の街」「東向島駅」
- nippon.com「下町のおもてなし:鳩の街通り商店街・キラキラ橘商店街へようこそ」
- nippon.com「鳩の街通り商店街」紹介記事
- TOKYO商店街空き店舗ナビ「鳩の街通り商店街振興組合」
- 遊廓・赤線跡を紹介する研究者サイト「鳩の街の特飲街 その短くも太い歴史」(規模の推移の参照)
- 映画『「春情鳩の街」より 渡り鳥いつ帰る』(1955年)作品情報
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(東日本編)
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画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成

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