深川の花街とは?辰巳芸者と岡場所の歴史・場所・今の門前仲町を解説

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

深川の花街は、江戸の東南、辰巳の方角にあった町に生まれた。羽織を着て座敷に出る「辰巳芸者」「羽織芸者」の名で知られ、「意気」と「張り」を看板にした。いまの門前仲町を中心とする一帯で、江戸の材木の町・木場の旦那衆に支えられたが、昭和の後半に花街としては幕を閉じた。この記事では特定の店舗や営業には触れず、深川の岡場所から辰巳芸者が生まれた経緯、天保の改革での取り潰し、明治から昭和にかけての盛衰、そしていまの深川の姿を、江戸東京や江東区の公式情報、百科事典の記述など、確認できた範囲だけで整理する。

深川の花街のポイント

江戸城の辰巳(南東)にあたる富岡八幡宮の門前で発展岡場所は仲町など「深川七場所」羽織を着た辰巳芸者が看板1842年の天保の改革で岡場所は廃絶木場の移転後に衰え、昭和後半に終わる
目次

深川の花街とは|辰巳と呼ばれた町

深川は、江戸城から見て辰巳(南東)の方角にあった。このため深川の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれた。正確には深川全域ではなく、富岡八幡宮の周辺にあった遊里を「辰巳」「辰巳の里」と呼んだという説明もある。花街と遊廓の違いは花街と遊郭の違いの記事に整理してあるが、深川は両方の性格を持っていた。公認の遊廓ではなく、非公認の遊所である「岡場所」として栄え、その座敷を担う芸者が独自の評判を得た町だ。

富岡八幡宮は、江東区の公式情報によれば寛永4年(1627年)に、当時永代島と呼ばれた場所へ御神託によって創建された。周囲の砂州を埋め立てて社地と町を広げ、江戸時代を通じて将軍家の厚い保護を受けた。この門前町で、明暦元年(1655年)に料理茶屋が開かれたのが深川の花街の起源だとされる。木場に集まる材木問屋の商談や接待が重なり、商人と職人の町が、遊びの場も抱え込んでいった。

富岡八幡宮の社殿と周囲の町並みを俯瞰して描いた墨摺の挿絵
『江戸名所図会』より富岡八幡宮の境内(長谷川雪旦画。Commonsの記載で1836年)
長谷川雪旦 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
雨の中、傘を手にした女性たちが茶屋の軒先に立つ浮世絵
歌川広重『江戸高名会亭尽』より「深川八幡境内 二軒茶屋」(Commonsの記載で1840年ごろ)
撮影・作者: 歌川広重 / CC0 / Wikimedia Commons

深川の岡場所|仲町と「七場所」

岡場所は、吉原のような幕府公認の遊廓とは違い、非公認で営まれた遊所を指す。江戸の周辺では寺社の門前の茶屋などから発展したとされ、深川はその代表格だった。深川の岡場所は、仲町・新地・土橋・櫓下・裾継・石場・佃町の7か所が「深川七場所」と呼ばれ、なかでも仲町が最も栄えたとされる。ただし名称や数え方には資料によって違いがあり、岡場所の項目では「表櫓」「裏櫓」「古石場」「新石場」「網打場」などの名も挙がる。

規模を示す数字もある。天保のころ(1830〜44年)の深川には、芸者261人(男芸者を含む)と遊女472人がいて、江戸最大の岡場所だったと説明されている。吉原では芸者より遊女が格上だったのに対して、深川では芸者が上位にあり、座敷の芸と遊女の二面を併せ持つ「二枚看板」だったとする解説もある。主な客は、隣の木場の材木商や職人だった。

深川一帯の町割りや堀、社寺を色分けして描いた江戸時代の絵図
『深川絵図』(戸松昌訓ほか、19世紀。デビッド・ラムゼイ・コレクション所蔵の絵図)
戸松昌訓ほか / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

辰巳芸者とは|羽織・男名・意気と張り

辰巳芸者の特徴は、まず羽織だ。男性の着るものだった羽織を座敷でも着たことから、「羽織芸者」とも呼ばれる。世界大百科事典の説明では、女性の羽織は元禄のころから家着として使われ、宝暦(1751〜64年)のころ、座敷着として人前に出た深川芸者が「羽織芸者」として知られるようになった。『日本国語大辞典』が挙げる初出の用例は、洒落本『妓者呼子鳥』(1777年)の一節だ。

名前にも特徴があった。「音吉」「蔦吉」「豆奴」のように男名を名乗り、男っぽい話し方をしたと伝わる。冬でも足袋をはかず素足で座敷に出たという話もある。始祖は、日本橋の芳町から深川へ移ったとされる芸者の菊弥で、元禄のころ(1688〜1704年)に唄の師匠と茶屋を開いたのが深川芸者の始まりと伝わる。芳町は、のちに東京の花街の一つになった町だ。

気風は「意気」と「張り」と言われる。コトバンクの解説によると、寛政期(1789〜1801年)には、深川で娼婦に代わって芸者が勢力を得て、辰巳芸者の名が高まった。意気と侠気(男気)を売り物にし、江戸っ子に喜ばれ、洒落本や人情本にも描かれて、江戸文化の特色の一つになった。「芸は売っても色は売らない」という誇りを掲げたと紹介される一方で、実際には岡場所の一部として売春にかかわる者も多かったとする解説もあり、評価は分かれる。

天保の改革と深川|1842年の取り潰し

転機は天保の改革だった。天保13年(1842年)、老中・水野忠邦の改革で、江戸に残っていた岡場所が、江戸四宿を除いて取り潰された。岡場所の項目では、天保13年8月に廃絶された場所の中に、深川の仲町・新地・表櫓・裏櫓・裾継・古石場・新石場・佃・網打場などが挙がる。深川では娼妓が吉原へ送られ、芸妓は日本橋や柳橋へ移って、そこで新しい花街をつくったと説明されている。柳橋の成り立ちは新橋・柳橋と東京六花街の記事に詳しい。

深川の花街はそのまま消えたわけではない。1860年(安政7年)には料理茶屋の再興が奉行に許可され、火災で焼けた吉原の仮の営業地としても賑わった。ただし、明治に入ると芸妓の中心は柳橋や新橋へ移り、深川の芸妓は32人まで減ったとされる。コトバンクも、明治以降は深川に代わって柳橋が栄え、その後は新橋が中心になったと整理している。

明治から戦前|洲崎遊廓とは別の花街

明治の深川は、不動堂の建立や米市場の開設で盛り返し、1888年(明治21年)には根津から洲崎遊廓が移ってきた。洲崎は公認の遊廓であり、辰巳芸者の花街とは別のものだ。洲崎の歴史は関東の遊郭跡の記事と東京の旧赤線・旧遊廓跡の記事に整理してある。

1907年(明治40年)ごろに花街の組合が組織され、芸妓は40人が在籍した。松川二郎の『全国花街めぐり』(昭和初期)による数字では、置屋54軒、芸妓149人、料亭14軒、待合36軒に増えている。花街を支えたのは木場の旦那衆だった。1937年(昭和12年)の日中戦争の開始後は戦時色が強まり、深川の芸妓は洲崎の娼妓とともに国防婦人会をつくって軍隊の慰問などを行った。1944年(昭和19年)には花街の営業が停止された。

雪の夜、堀に立てかけられた材木と水面に浮かぶ筏を描いた浮世絵
歌川広重『名所江戸百景』より「深川木場」(Commonsの記載で1856年)
歌川広重 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
雪の降る日の木場。堀に浮かぶ丸太の筏と、並ぶ材木問屋の建物を描いた木版画
小泉癸巳男の木版画「木場」(雪の木場の材木問屋。Commonsの記載で昭和15年出版)
小泉癸巳男 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

戦後と終わり|木場の移転で花街の灯が消える

1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で深川一帯は焼け、花街も被災した。戦後は復興が進み、1950年(昭和25年)には料亭・待合41軒、芸妓130人、置屋50軒の規模に戻った。しかし、1958年の売春防止法の全面施行で洲崎の遊廓が廃絶されると周辺の経済にも影響が出て、高度経済成長期にはキャバレーなど別の娯楽に客が移った。決定的だったのは、主な得意先だった木場の移転だ。江東区の公式情報では、1969年(昭和44年)に木材関連業者が新木場へ移り、その跡地が木場公園として整備された。

花街の側から見ると、1982年(昭和57年)に三業組合の事務所が閉鎖され、バブル期の地上げで敷地はビルや飲食店になった。1990年(平成2年)には、門前仲町に料亭5軒、置屋20軒、芸妓20人が残るのみだったとされる。テレビ東京の番組紹介は、門前仲町の花街の歴史は1983年(昭和58年)に幕を閉じたと紹介している。組合事務所の閉鎖と、花街の歴史の終わりとでは年が異なるが、どちらも資料にある記述として併記する。

深川の花街の年表

年出来事
1627年富岡八幡宮が創建される
1655年富岡八幡宮の門前で料理茶屋が開かれる(花街の起源とされる)
1777年洒落本に「羽織芸者」の用例が見える(『日本国語大辞典』が挙げる初出)
寛政期(1789〜1801年)深川で芸者が勢力を得て、辰巳芸者の名が高まる
1842年天保の改革で岡場所が廃絶される
1860年料理茶屋の再興が許可される
1888年根津から洲崎遊廓が移ってくる
1907年ごろ花街の組合が組織される
1944年花街の営業が停止される
1945年東京大空襲で深川一帯が焼ける
1950年料亭・待合41軒、芸妓130人で再建される
1969年木材関連業者の新木場への移転が始まる
1982年三業組合の事務所が閉鎖される
1983年門前仲町の花街の歴史が幕を閉じたとされる
深川の花街の歩みを1627年から1983年までまとめた年表
深川の花街の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

いまの深川を歩く|門前仲町と江戸の面影

いまの門前仲町は、東京メトロ東西線と都営大江戸線が交わる駅の周辺に商店と飲食店が集まる街だ。富岡八幡宮の毎月1日・15日・28日の縁日には多くの参拝者が訪れ、江戸三大祭りの一つとされる深川八幡祭は、例年8月15日を中心に行われるとされる。別当寺だった永代寺は、明治初年の神仏分離で廃寺となり、のちに再興された。

花街の面影について、地元の商店が書いたコラムは、永代通りと大横川の間の裏通りに、かつて料亭が並び、黒塗りの車が連なり、三味線や太鼓を持った芸者が行き交ったと振り返る。いまは普通の飲み屋街になっていて、料亭の建物は一部が残るが、辰巳芸者は残っておらず、座敷には他の花街から芸者を呼ぶ、とも書かれている。この記述は2008年に書かれたものなので、現状とは違う可能性がある。ふだんの生活の場でもあるので、裏通りを歩くときは周りの住民や店に配慮したい。

江戸の暮らしを知るには、清澄白河にある深川江戸資料館がある。江戸の深川の町並みを実物大で再現した常設展示で、2026年11月に開館40年を迎える。木場の歴史は、木場公園で材木のまちの記憶に触れられる。深川の花街は、座敷が姿を消した一方で、町そのものの歴史が展示や祭りとして受け継がれているといえる。

まとめ

深川の花街は、1627年創建の富岡八幡宮の門前で、1655年の料理茶屋から育った。仲町など七場所の岡場所があり、羽織と男名、意気と張りを売り物にした辰巳芸者が江戸の評判になった。1842年の天保の改革で岡場所は取り潰され、明治以降は柳橋や新橋に中心が移った。昭和には木場の旦那衆に支えられて再び賑わったが、戦災、洲崎遊廓の廃絶、木場の移転が重なり、1980年代前半に花街としての歴史を閉じた。いまは座敷の代わりに、富岡八幡宮の祭りと深川江戸資料館が江戸の記憶を伝える。ほかの花街や旧遊廓は歴史・知識の記事一覧から読める。

よくある質問

Q. 辰巳芸者とは何ですか?
A. 江戸の深川の芸者のことだ。深川が江戸城の辰巳(南東)の方角にあったことからそう呼ばれた。羽織を着て座敷に出たため、羽織芸者とも呼ばれる。

Q. 深川の花街はいつ始まりましたか?
A. 1655年(明暦元年)に富岡八幡宮の門前で料理茶屋が開かれたのが起源とされる。岡場所は仲町・新地・土橋・櫓下・裾継・石場・佃町の7か所が「深川七場所」と呼ばれた。

Q. 深川の岡場所はなぜなくなったのですか?
A. 1842年(天保13年)の天保の改革で、江戸の岡場所が江戸四宿を除いて取り潰されたためだ。深川では娼妓が吉原へ送られ、芸妓は日本橋や柳橋へ移ったと説明されている。

Q. 深川の花街はいつ終わりましたか?
A. 木場の業者が新木場へ移った1969年以降に衰え、1982年に三業組合の事務所が閉鎖された。テレビ東京の番組紹介は、門前仲町の花街の歴史は1983年に幕を閉じたとしている。

Q. 深川と洲崎は同じ場所ですか?
A. 別の場所で、性格も違う。洲崎は1888年に根津から移った公認の遊廓で、1958年の売春防止法の全面施行で終わった。深川の花街は富岡八幡宮の門前に栄えた岡場所と芸者の町だ。

Q. いまも深川に花街はありますか?
A. 座敷が続いているという裏づけは、今回の調査では公的な資料で確認できなかった。地元の商店のコラムは、裏通りは普通の飲み屋街になり、辰巳芸者は残っていないと書いている。

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: 歌川広重 撮影(CC0)/Wikimedia Commons
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