※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
渋谷駅の西、道玄坂を上った先に広がる円山町は、いまはホテルやライブハウス、クラブが並ぶ町として知られる。ただ、その足元には、明治から昭和にかけて栄えた「三業地」、つまり料亭・待合・芸妓置屋が集まる花街の歴史がある。この記事では特定の施設や営業には触れず、円山町がどう生まれ、どう姿を変えてきたのかを、渋谷区の年表や新聞報道など、資料で確認できた範囲だけで整理する。
円山町の歴史
円山町はどこにある?|場所と地名
円山町(まるやまちょう)は東京都渋谷区の町名で、渋谷駅の西側、道玄坂上の北側にあたる。丁目のない単独町名で、東は道玄坂、南は南平台町、西は神泉町、北は松濤に接している。京王井の頭線の神泉駅の東側にあたり、駅は1933年(昭和8年)に帝都電鉄の駅として開設された。
円山という呼び名が定着したのは昭和に入ってからで、それ以前は鍋島藩の荒木氏の所有地だったことから「荒木山」と呼ばれていたと、Wikipediaは記している。江戸時代には、大山街道(矢倉沢往還)沿いの土地として栄えたとされるが、人馬を継ぎ立てる宿場ではなかったという注記も付く。2024年12月時点の人口は2,026人、世帯数は1,644世帯で、2021年の経済センサスでは事業所が418、従業員が6,373人だった。夜の繁華街でありながら、住宅も同じ町内にある。
神泉の湯と芸者屋|花街のはじまり
円山町の花街の出発点としてよく挙げられるのが、隣の神泉にあった「弘法湯」だ。渋谷区の公式サイトは、神泉に江戸時代の地誌『江戸砂子』に載る湧水があり、江戸時代から明治20年ごろまで弘法湯として栄え、のちに円山を中心とする盛り場の発祥地になったと説明している。
花街としての始まりは、1887年(明治20年)ごろとされる。義太夫流しを生業にしていた人物が弘法湯の前で「宝屋」という芸者屋を開いたのが最初で、その後、芸者屋や料理屋が年とともに増えていったという。東京新聞の取材記事も、円山町の花街は1887年に芸者屋ができたのが起源とされ、1909年(明治42年)に旧日本軍の代々木練兵場ができたことで発展したと伝えている。練兵場の将校が遊びに来るようになったことが、客層を広げたとみられる。
なお、始まりの経緯は語り手によって異なり、弘法湯の隣に料理旅館ができたことが花街の発端だったという地元の言い伝えも紹介されている。ここでは、資料で確認できる1887年ごろという時期を目安にしておく。

撮影・作者: Asanagi / CC0 / Wikimedia Commons

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1913年に三業地へ|大正期の最盛期
三業地とは、料理屋・待合・芸妓置屋の三つの営業が認められた地域をいう。渋谷区の年表には、1913年(大正2年)1月に「渋谷の三業地が指定される」とあり、1919年(大正8年)2月には「渋谷三業株式会社が設立される」と記録されている。指定された区域は約1万5000坪で、当時の規模は芸妓置屋24戸、芸妓60人、待合茶屋13戸だったと伝えられる。
その後の伸びは急だった。1921年(大正10年)には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒になり、関東大震災の直前には芸妓が420人を数えたという。芸妓の数は、震災の直前まで増え続けていたことになる。1928年(昭和3年)3月には、年表に「渋谷の花街指定地が拡大される」と記されている。
ここで押さえておきたいのは、円山町が吉原のような公認の遊廓ではなく、料理屋と芸妓の花街だったという点だ。両者の違いは、花街と遊郭の違いや遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いの記事にまとめてある。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1887年ごろ | 弘法湯の前に芸者屋が開業し、花街のはじまりとされる |
| 1909年 | 代々木練兵場が設けられ、将校の客が増える(東京新聞) |
| 1913年1月 | 渋谷の三業地が指定される(区史年表) |
| 1919年2月 | 渋谷三業株式会社が設立される(区史年表) |
| 1921年 | 芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒 |
| 1924年ごろ | 隣接する道玄坂二丁目に百軒店ができ始める |
| 1928年3月 | 渋谷の花街指定地が拡大される(区史年表) |
| 1945年5月 | 24・25日の大空襲で区内の大半が焦土となる(区史年表) |
| 1962年 | 区史年表に「円山花街が衰退を示す」と記される |
| 1970年1月 | 住居表示が実施される |
| 1993〜2000年 | ライブハウスやクラブが相次いで開業する |
| 2019年10月 | 東京都が暴力団排除特別強化地域に指定する |

百軒店との関係|隣り合う二つの盛り場
円山町と並んで語られるのが、道玄坂二丁目の「百軒店」だ。こちらは花街ではなく商店街として、1924年(大正13年)に円山の三業地に隣接する形で開発された。箱根土地(西武の前身)の堤康次郎が旧中川伯爵邸の土地を手に入れ、関東大震災で被災した下町の名店を誘致し、劇場や映画館、老舗の飲食店、楽器店など117店が集まったと伝えられる。区史年表も「このころ百軒店ができ始める」と記している。
やがて浅草や銀座の復興で多くの店が去り、百軒店はカフェーやバーなどの飲食街へ変わった。戦後は喫茶店や映画館が並ぶ大人の盛り場として復活し、1970年代にはジャズ喫茶が相次いだ。街の中心が公園通りなどへ移るにつれて、百軒店は円山町とともに、いまの落ち着いた夜の町の表情に近づいていった。

Kōji Morooka / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
空襲と戦後|料亭街の盛衰
1945年(昭和20年)5月24・25日の大空襲では、渋谷区内の大半が焦土になったと区史年表は記している。百軒店も全焼したとされ、円山の花街も大きな打撃を受けたとみられるが、個別の被害の詳細は今回の調査では確認できなかった。
戦後、円山町では料亭や旅館、飲食店が少しずつ再開した。いまも町内には、1951年(昭和26年)に建てられた料亭が現役で残っていると、東京新聞は紹介している。一方で、花街としての勢いには陰りが出た。渋谷区史年表の1962年(昭和37年)の項には「円山花街が衰退を示す」とある。それでも、1977年に円山町の置屋で働き始めた芸者の証言によれば、当時は数十軒の料亭が並び、お座敷が最後の全盛期を迎えていたという。
転機になったのは1980年代半ば以降のバブル期だ。地上げにあった料亭が次々と廃業し、芸者を呼べる店はほぼなくなっていったと、同じ記事は伝えている。Wikipediaは、三業界のにぎわいが1980年(昭和55年)ごろまで続き、時代の移り変わりとともに料亭の数が減ったと記す。衰退の時期の見方は資料によってやや幅がある。
ホテル街への変遷|旅館から専用施設へ
円山町が大規模なホテル街として知られるようになった経緯は、公的な資料にはまとまった記述がなく、研究者の調査を紹介した解説や百科事典の記述から輪郭を追うしかない。それらによれば、戦後の簡易な宿泊施設(いわゆる連れ込み旅館)は、当初、渋谷駅周辺の複数の坂に分散していた。しかし、道路の拡幅やオフィス化、マンション建設、地価の上昇などで他の地域の宿が減るなか、1970年代後半から1980年代にかけて、円山町と道玄坂二丁目に集中していったとされる。
この間に、施設の姿も旅館風から、専用の外観と短時間の料金体系を備えたものへと変わった。呼び名も、待合、連れ込み宿、ラブホテル、レジャーホテルなど、時代とともに移り変わっている。Wikipediaの百軒店の項も、映画館の跡地などを含め、かつて料亭が並んだ円山町そのものがホテル街へと変貌したと述べる。
よく語られる「花街の料亭や妾宅が旅館に転用された」という話は、個々の建物では十分ありうるが、町全体の変化を説明する裏付けは、今回確認した資料には示されていなかった。こうした営業を規制する法律の流れは、風営法の歴史の記事で解説している。
ライブハウス・クラブ街としての顔
円山町は、音楽の町としての顔も持つ。公開されている沿革によれば、1993年(平成5年)12月に円山町周辺でライブハウスが開業し、1996年(平成8年)3月にも別のライブハウスが相次いで開いた。1998年にはその向かいにもライブハウスが生まれ、2000年(平成12年)4月8日には、日本最大級とされる大型クラブが円山町に開業している。神泉駅の項にも、2000年代に入って若者向けのクラブやライブハウスが数多くできたと記されている。
ホテルや旧料亭の並びに音楽施設が混ざる光景は、町の履歴をそのまま映す。2020年春、新型コロナウイルスの影響で営業が危機に陥ったライブハウスの一つが、クラウドファンディングを実施し、約6,700人から約3,900万円が集まった。町の音楽文化が、地域の外の人々にも支えられていることを示す出来事だった。

円山町会 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
花街の今|円山町に残る芸者文化
円山町の花街は消えたわけではない。東京新聞(2024年1月)によれば、円山町で活動する芸者は約25年前に一時2人まで減ったが、約15年前に新しい人を募って、いまは4人になった。芸者の育成と派遣を担う見番は、現在は存在しないとされ、少数の芸者が料理店のお座敷や和の文化を楽しむイベントに出ている。同紙は、お座敷が伝統芸能を鑑賞する場として受け止められるようになった、という当事者の言葉も紹介している。
町の治安面では、2019年(令和元年)10月1日、東京都が円山町を含む渋谷の繁華街一帯を暴力団排除条例に基づく暴力団排除特別強化地域に指定している。強化地域では、みかじめ料のやりとりや便宜供与が禁じられる。
文学・映像に描かれた円山町
円山町は作品の舞台にもなってきた。ノンフィクション作家・本橋信宏の『東京の異界 渋谷円山町』(新潮文庫)は、料亭街のはじまりや丘の上のホテル街の章を含み、町の歴史を聞き書きで追ったルポだ。マンガ『渋谷区円山町』(おかざき真里)は2007年に映画化され、映画『ラーメンガール』『とんかつDJアゲ太郎』などにも町が登場する。町名を歌詞に織り込んだ楽曲もいくつかある。表の顔と裏の顔が同居する町の表情が、創作者を引きつけてきたのだろう。
まとめ
円山町は、1887年ごろの芸者屋に始まり、1913年に三業地となった花街だ。1921年には芸妓402人、待合96軒という規模に育ち、1970年代まで料亭の活況が残ったのち、バブル期の地上げで料亭が減った。その流れと重なるように、1970〜80年代にはホテルが集中し、1990年代以降はライブハウスやクラブが加わって、いまの町の姿になった。いまも少数の芸者が活動しており、花街の記憶は途切れていない。歴史を知ると、同じ町の中に、料亭の石畳、旅館の名残、音楽の熱気が積み重なっていることが分かる。全国の花街・遊廓の歴史は、日本の遊廓の成り立ちと全国一覧や関東の遊郭跡の記事も参照してほしい。
よくある質問
Q. 円山町はもともと何の町でしたか?
A. 明治20年ごろの芸者屋に始まり、1913年に三業地に指定された花街だ。公認の遊廓ではなく、料理屋・待合・芸妓置屋の町だった。
Q. 三業地とは何ですか?
A. 料理屋・待合・芸妓置屋の三業が認められた地域のことだ。渋谷区の年表には、1913年1月に渋谷の三業地が指定されたと記されている。
Q. 最盛期の規模はどれくらいでしたか?
A. 1921年(大正10年)には芸妓置屋137戸、芸妓402人、待合96軒に達し、関東大震災の直前には芸妓が420人いたとされる。
Q. なぜホテルが多い町になったのですか?
A. 戦後は渋谷駅周辺の複数の坂に分かれていた宿泊施設が、1970年代後半から80年代にかけて円山町と道玄坂二丁目に集中したと研究者の調査で説明されている。花街の衰退と時期が重なるが、因果の詳細は確認できていない。
Q. 百軒店は円山町の一部ですか?
A. 別の場所だ。百軒店は道玄坂二丁目にあり、1924年に円山の三業地の隣に開発された商店街である。
Q. いまも芸者はいますか?
A. 東京新聞の2024年1月の記事によれば、円山町には4人の芸者がいる。見番はなく、少数が料理店のお座敷などで活動している。
参考にした資料
- Wikipedia「円山町 (渋谷区)」、「百軒店」、「神泉駅」
- 渋谷区立図書館「渋谷区史年表(石器時代以前から大正まで)」、「渋谷区史年表(昭和から平成まで)」
- 渋谷区公式サイト「地名の由来」(神泉の項)
- 東京新聞「ラブホに囲まれた料亭、響く三味線 渋谷・円山町で『お座敷』に出続ける芸者が見てきたもの」(2024年1月9日)
- 本橋信宏『東京の異界 渋谷円山町』(新潮文庫、新潮社の書籍紹介ページ)
- 東京の花街の紹介「円山町」(tokyo-geisha.com)
- Wikipedia「Shibuya O-WEST」、「Club Asia」の沿革欄、およびクラブの開業日を記したDBpedia「WOMB」
- 渋谷・円山町はなぜラブホテル街になったのか|花街・旅館・百軒店の歴史(研究者の調査を紹介した解説。個別の数字は直接確認していない)
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(東日本編)
北海道・東北・関東・甲信越・北陸・静岡の旧遊廓と花街の歴史。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 写真: Asanagi 撮影(CC0)/Wikimedia Commons
- 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成

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