※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。
雄琴温泉(おごと温泉)は、滋賀県大津市の琵琶湖西岸、比叡山の山麓にある温泉地だ。最澄が開いたという伝承をもつ一方で、温泉地として形が整ったのは大正以降とされる。戦後は鄙びた温泉街だったが、1960年代末から1970年代にかけて、温泉街から少し離れた水田地帯に特殊浴場(当時の呼び名はトルコ風呂)が集まり、「雄琴といえば風俗街」というイメージが全国に広がった。この記事では特定の店や利用方法には触れず、温泉街の成り立ちと、そうした街ができた経緯を、公的な資料や報道で確認できた範囲だけ整理する。
雄琴温泉の歴史
雄琴温泉とは|場所と名前の由来
雄琴温泉は大津市の苗鹿(のうか)・雄琴にある温泉で、国道161号(現在の滋賀県道558号高島大津線)をはさんで旅館・ホテルが10軒ほど点在する。近くには比叡山延暦寺の門前町として知られる坂本、日吉大社、堅田の浮御堂などがあり、冬の鴨鍋や近江牛が名物だ。泉質は無色透明のアルカリ性単純温泉で、泉源は大津市が所有・管理し、各旅館へ配湯している。
地名の由来には、平安時代の貴族・今雄宿禰(いまおのすくね)の荘園がこの地にあり、その邸からよく琴の音が聞こえたため、姓から「雄」を取って「琴」を足したという説明がある。読みは「おごと」で、観光協会や自治体は平仮名の「おごと温泉」を使うことが多く、最寄り駅も地元の働きかけで2008年3月15日に「雄琴」から「おごと温泉」へ改称された。

撮影・作者: SONIC BLOOMING / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
開湯の伝承|最澄と念仏池
雄琴の湯は約1200年前に最澄が開いたといわれる。ただし、これは言い伝えで、史実として確かめられたものではない。伝わるところでは、昔この近くの谷に八つの頭をもつ大蛇が棲み、その谷にあった念仏池(別名・蛇池)の水が病に効くとされ、村人は念仏を唱えながら賽銭を投げ入れていたという。池は苗鹿の法光寺(天台宗)の境内北端にあり、これが雄琴温泉の起こりと語られている。
地域ブランドの調査報告は、平安時代末の保元・平治のころ、源氏の頭領が雄琴の湯に浸かっているところを敵に襲われ、裸で逃げたという記述が残るとも紹介している。いずれも伝承や古い記録の域を出ず、温泉地としての実態がはっきりするのは近代に入ってからだ。

不詳(平安時代) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
温泉地の成立|大正から戦前
同じ調査報告によれば、雄琴が温泉地として成立したのは大正に入ってからだ。1919年(大正8年)、「伝説の話はひょっとして温泉ではないか」と考えた地元の人が発起人となって調べたところ、温泉であると確認された。霊泉がラジウム鉱泉であると判明したのも大正時代とされ、これで温泉開発に弾みがついた。1924年(大正13年)の写真には、のちに雄琴で最初の旅館になる湯元舘と、隣の大衆浴場が写っている。
とはいえ、旅館は「つくってはつぶれ」を繰り返し、漁業との兼業の民宿ではなく旅館業を本業にしていたのは、戦前にはわずか3軒だったという。湯元舘の創業は1929年(昭和4年)で、江若鉄道に雄琴温泉駅が設けられると、温泉旅館が増えていった。戦中は陸軍の保養地になったと紹介する報道記事もある。戦後はしばらく進駐軍に接収され、解除後は客のまばらな鄙びた温泉に戻っている。誘客のために冬の鴨すきを名物に売り出したが、鉱泉を沸かした湯で際立った特徴がなく、芸者は大津市内から呼ばなければならなかったと伝えられる。

撮影・作者: イーゴス108 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
昭和30〜40年代|名神高速と万博の特需
最初の活況は、名神高速道路の開通や比叡山ドライブウェイの整備でマイカーと観光バスの旅が広がった1960年代前半に訪れた。京阪神からの団体バス旅行が一気に増え、日帰りを含めて年間27〜28万人ほどの客が来たという。新しい旅館が増えたのもこの時期で、戦前から続く旅館のほかは、材木屋や呉服屋から転身した人々が、既存の旅館に手ほどきを受けて開業したと報告されている。
全国に「おごと温泉」の名が知られたのは、1970年の大阪万博によってだった。万博期間の6か月間は予想を大きく上回る盛況で、旅行会社から示される宿泊代は、それまでの一泊の定価(約2,000円)の倍以上の4,500〜5,000円に達したという。各旅館はこの特需を見込んで増築し、温泉地全体の収容人員は万博前の750人から1,400人へ、旅館数は最盛期の28軒にまで増えた。木造から鉄筋コンクリートへ建て替えた宿も多い。ただし万博が終わると、その勢いはぴたりと止まった。
風俗街ができた経緯|1966年の線引きから1971年へ
1966年|法改正で「営業できる区域」が決まる
きっかけの一つは法制度の変更だ。1966年(昭和41年)6月30日に風俗営業等取締法の一部を改正する法律(昭和41年法律第91号)が公布され、翌7月1日に施行された。これでトルコ風呂の営業は、公衆浴場法に加えて風俗営業等取締法の規制も受けることになり、学校や官公庁などの周辺では営業できず、営業を認める区域の線引きも行われた。このとき、雄琴の一帯は特殊浴場の営業が禁止されない区域として線引きされたとされる。風営法の歴史やトルコ風呂からソープランドへの名称変更は別の記事で整理している。
1969年|雄琴で最初の営業許可
1969年(昭和44年)4月、改正法のもとで、雄琴の営業可能区域の中で最も北寄りに、特殊浴場の営業許可を受けた店が開いた。これが雄琴で最初のトルコ風呂とされ、大津市内では浜大津の店に続く2番目の店だった。それ以前にも、宴会の余興としての出し物や、水田の真ん中に開いた店があったとする証言があり、どこからを「始まり」とするかは資料によって違う。
1971年|温泉街の南に店が集まり始める
決定的になったのは1971年(昭和46年)だ。2月6日、温泉街から南へ約500メートル離れた大正寺川左岸の河口付近に、後に街の核となる店が開店した。周囲は水田ばかりで、滋賀県も「こんな田んぼの真ん中で開業する者はいないだろう」と考えて営業可能区域に含めていた、と伝えられている。経営者は石川県の山中温泉で同種の店を営んでいた人物とされ、国道161号を走る車に県外ナンバーが多いことに気づき、車で来る客の増加(モータリゼーション)を見込んで進出を決めたという。この経緯は広岡敬一『ちろりん村顛末記』などに基づいて語られるもので、細部は資料により違いがある。
周囲の予想に反して大盛況となり、東京都・千葉県・神奈川県の業者が次々に進出した。地域ブランドの調査報告は、1971年3月に京都府から締め出された業者が生き残りをかけてこの地へ多数流入したとも記している。その後も店は増え、1970年代のうちに、大規模な風俗街として全国に知られるようになった。なお、特殊浴場には雄琴温泉の源泉は引かれておらず、温泉としての関連はない。場所も温泉街とは別で、旅館街から1キロも離れていないが、明確に隔てられている。
なぜ雄琴だったのか
資料から読み取れる理由は、おおむね三つに整理できる。第一に、1966年の線引きで、すでに営業が認められた区域だったこと。第二に、国道161号と名神高速道路によって、京阪神から車で来やすかったこと。第三に、周囲が水田で、住宅地や学校と距離があったことだ。結果として、観光で人を集めていた温泉街のすぐ近くに、営業可能な区域が重なる形になった。
雄琴温泉の歴史を年表で見る
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 約1200年前(伝承) | 最澄が開湯したと伝わる。念仏池の言い伝えが残る |
| 1889年 | 町村制の施行で苗鹿・雄琴・千野の3村が合併し、雄琴村が発足 |
| 1919年(大正8年) | 地元の調査で温泉であることが判明(地域ブランド調査報告) |
| 1929年(昭和4年) | 湯元舘が創業し、雄琴温泉で最初の旅館になる |
| 戦後 | 進駐軍に接収される。解除後は鴨すきなどで誘客 |
| 1960年代前半 | 名神高速道路の開通などで観光バス旅行が増え、第一次の活況 |
| 1966年6月30日 | 風俗営業等取締法の改正法が公布(7月1日施行)。営業できる区域の線引き |
| 1969年4月 | 雄琴で最初の特殊浴場が営業許可を取得 |
| 1970年 | 大阪万博の特需。旅館が増築・建て替え、旅館数は28軒に |
| 1971年2月6日 | 温泉街の南約500メートルに、後に街の核となる店が開店 |
| 1978年 | 宿泊客が年間50万人、売上34.5億円を記録 |
| 1998年 | 旅館組合の若手が「雄琴青経塾」を開塾 |
| 2006年10月27日 | 地域団体商標の第1回認定を受ける |
| 2008年3月15日 | 雄琴駅が「おごと温泉駅」に改称 |
| 2011年2月1日 | 大津市立おごと温泉観光公園が開館 |

最盛期から再編へ|1970年代後半〜2000年代
風俗街の出現は、旅館にとって追い風でもあり、重荷でもあった。1978年には年間50万人の宿泊客が訪れて34.5億円を売り上げたが、客の大半は男性になり、家族連れは遠のいた。地域ブランドの調査報告は、旅館の売上を押し上げたブームは3年ほどで落ち着き、その後は悪名だけが残ったと述べる。1980年代から1990年代には、旅行ガイドブックや温泉の案内書から雄琴の名が外されることもあり、『全国温泉大事典』の記述も「戦後、歓楽温泉として発展」とされるにとどまった。
1985年の新風営法の施行などを経て、風俗店の数は最盛期から大きく減ったと報じられている。一方、バブル崩壊後は主な得意客だった職場の団体客が激減し、28軒あった旅館は10軒まで減った。生き残りのために旅館組合の若手経営者が1998年に「雄琴青経塾」を開き、全室露天風呂付きの新館や露天風呂の整備、創作料理、近江牛の提供などで巻き返しを図った。「雄琴」と名乗らず「西大津」「西びわこ」を掲げて催しを開いた時期もあるという。

Abasaa / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
今の姿|温泉街と別のエリアという構図
2006年10月27日、「雄琴温泉」は第1回の地域団体商標(地域ブランド)に認定された。2011年には宿泊施設が9軒、年間の浴客数が約49万人と集計されている。2011年2月には、大津市立おごと温泉観光公園が開館した。現在の温泉街は、琵琶湖の眺望と比叡山の門前という立地を生かした家族連れや女性客向けの温泉地として再生が進んでいる。旅館街と、かつて特殊浴場が集まった一帯とは別の場所にあり、温泉街の側がそのイメージで一括りにされることへの不満は、関係者の取材でもたびたび語られてきた。
歴史の見方としては、「雄琴=風俗街」だけでも、「雄琴=老舗の温泉地」だけでも足りない。大正期に生まれた小さな温泉地が、万博の特需を経て、規制の線引きと交通の便が重なった結果、性格の異なる二つの顔をもつ地域になったと整理するのがわかりやすい。
まとめ
雄琴温泉は、最澄開湯の伝承をもつ古い湯だが、温泉地として成立したのは大正期で、旅館が本格的に増えたのは名神高速の開通した1960年代以降だった。1966年の法改正で営業できる区域が線引きされ、1969年に最初の営業許可が出て、1971年以降に温泉街の南へ特殊浴場が集まった。バブル崩壊後は旅館が28軒から10軒へ減ったが、1998年の青経塾や2006年の地域ブランド認定を経て、家族向けの温泉地としての再生が続いている。全国の色街の歴史は売春防止法の記事もあわせて読むと整理しやすい。
よくある質問
Q. 雄琴温泉の「雄琴」はどう読みますか?
A. 「おごと」と読む。観光協会や自治体は「おごと温泉」と平仮名で表記することが多く、最寄り駅も2008年に「おごと温泉駅」へ改称された。
Q. 雄琴に特殊浴場が集まったのはいつですか?
A. 雄琴で最初の営業許可が出たのは1969年4月とされる。温泉街の南に後の街の核となる店が開いたのは1971年2月6日で、その後に業者が次々に進出した。
Q. なぜ雄琴に集まったのですか?
A. 1966年の線引きで営業が認められた区域だったこと、国道161号や名神高速で車の客が来やすかったこと、周囲が水田で住宅地や学校から離れていたことが挙げられる。
Q. 温泉の湯と関係はありますか?
A. 関係はない。特殊浴場には雄琴温泉の源泉は引かれておらず、場所も旅館街とは別だと報告されている。
Q. 温泉街の旅館はいくつありますか?
A. 調査報告では、最盛期は28軒、バブル崩壊後に10軒まで減り、2011年の統計では宿泊施設が9軒だった。年によって数え方は変わる。
Q. いまの雄琴温泉はどんな温泉地ですか?
A. 露天風呂付きの客室や近江牛の料理に力を入れ、家族連れや女性客を呼び込む温泉地として再生が進んでいる。2006年には地域団体商標に認定された。
参考にした資料
- Wikipedia「雄琴温泉」(歴史、1966年の法改正、1969年・1971年の経緯、再生の取り組み)
- 中部開発センター「中部発・地域ブランド おごと(雄琴)温泉」(2008年12月)(大正8年の温泉判明、万博前後の旅館数、風俗街出現後の客層)
- 文春オンライン「雄琴が色街として衰退していった本当の理由」(県の区域設定に関する証言)
- 大津市「おごと温泉観光公園」
- 広岡敬一『ちろりん村顛末記』(筑摩書房)、佐野眞一『性の王国』(Wikipediaの記述が引く文献)
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画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 写真: SONIC BLOOMING 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
- 写真: イーゴス108 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
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