小樽の花街・遊廓とは?ニシン景気と花園・松ヶ枝の歴史と今

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

小樽の遊廓と花街は、ニシン漁で沸いた港町の景気と大火の歴史に深く結びついている。開拓使が遊廓を公認したのは1871年で、場所は大火のたびに金曇町、住ノ江町、松ヶ枝町と移された。一方、料亭で宴席に出る芸者の花街は、ニシン景気で財をなした網元や商人に支えられて栄え、大正時代には約600人の芸者がいたと伝わる。現在の繁華街である花園は、遊廓の跡地ではなく、大火で焼け出された人々が丘を削って築いた商店街が元になっている。この記事では特定の店舗や営業には触れず、小樽の遊里と花街の歴史、現在の街並みを、公開資料で確認できた範囲だけ整理する。

小樽の花街と遊廓のポイント

ニシン漁の出稼ぎ景気が背景1871年に開拓使が金曇町の遊廓を公認大火のたびに住ノ江町→松ヶ枝町へ大正期には約600人の芸者がいた花園は大火後に育った繁華街
目次

この記事の読み方|遊廓と花街、花園は別のもの

小樽について調べると、遊廓、花街、花園という三つの言葉が混ざって出てくる。整理すると、遊廓は貸座敷の営業を認められた指定区画で、金曇町、住ノ江町、松ヶ枝町、梅ヶ枝町といった場所に置かれた。花街は芸妓が料亭や待合で宴席に出る街で、小樽ではニシン景気に支えられた料亭文化が栄えた。花園は、そのどちらでもなく、明治の大火後にできた商店街・飲食街の地区だ。言葉の違いは花街と遊郭の違いに詳しい。

小樽の遊廓・花街の年表

年出来事
1856年(安政3年)神威岬以北への女人の渡海禁制が解かれる
1869年(明治2年)開拓使が置かれ、「オタルナイ」が「小樽」に改称される
1871年(明治4年)開拓使が金曇町(信香町付近)を遊廓として公認する
1881年(明治14年)大火で金曇町の遊廓が焼ける。貸座敷は金曇町と新地町に限る規則が出される
1883年(明治16年)遊廓が畑地だった住ノ江町へ移る
1884年(明治17年)花園町の町名が設けられる
1896年(明治29年)住ノ江の遊廓からの出火で旧小樽の7か町が全焼。遊廓は松ヶ枝町(南廓)へ移る
1907年(明治40年)手宮に近い梅ヶ枝町に北廓ができる
1923年(大正12年)小樽運河が完成する
1946年(昭和21年)GHQの指令で公娼制度が廃止され、その後、赤線が生まれる
1954年(昭和29年)この年を境にニシンが獲れなくなる
1958年(昭和33年)売春防止法の完全施行で赤線が終わる
小樽の遊廓・花街の年表(1856年の女人渡海禁制の解除から1958年の赤線終了まで)
小樽の遊廓・花街の歴史を、本文の年号だけで整理した年表。

ニシン景気が生んだ港町

小樽の繁栄の元手は、春に産卵のため沿岸に押し寄せるニシンだった。江戸時代末期に松前藩が後志地方までのニシン漁を認めると、人が移り住み、小樽のにぎわいが始まった。漁期は3〜5月で、ニシンの大部分は肥料の鰊粕に加工され、本州の綿花や藍の畑へ出荷された。19世紀末までの年間漁獲量は9万トン近くに達したとされ、「ニシンのゴールドラッシュ」と呼ばれる景気が、労働者や商人、一攫千金を狙う人々を呼び寄せた。1911年(明治44年)には、小樽港の積み出し貨物の金額のうち、ニシン粕が18%を占めて最多だった。

漁場には多くの出稼ぎが集まった。ところが、神威岬以北は女人の渡海が1856年(安政3年)まで禁じられていたため、遊女が現れるのは遅れた。安政4年(1857年)以降、道路の開削や入植の奨励で集落が発達し、居酒屋や旅籠が増えると、遊里の形も整っていく。小樽は、江戸以来の城下町や宿場ではなく、漁場と港の景気が先にあり、そこに遊廓が置かれていった町だ。全国の遊廓の成り立ちとの違いは日本の遊廓とは?成り立ちと全国の主な遊廓一覧も参考になる。

1873年に描かれた小樽港の眺め(今村三峰の絵)
今村三峰が1873年(明治6年)に描いた小樽港の眺め。松前城に展示されている。開拓使が遊廓を公認する(1871年)ころの小樽の姿を伝える絵。
今村三峰 (Mitsumine Imamura) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
小樽市祝津にある小樽鰊御殿の外観
小樽市祝津の小樽鰊御殿(2022年6月撮影)。ニシン漁で栄えた時代の漁場の屋敷として知られ、ニシン景気を今に伝える建物。
撮影・作者: 皓月旗 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

金曇町から住ノ江町へ|開拓使の公認と大火

1871年(明治4年)、開拓使は金曇町(現在の信香町付近、勝内川河口)を遊廓として公認した。金曇通りには遊女屋や居酒屋が15〜16軒あったとされる。ところが1881年(明治14年)の大火で、この遊廓は焼けてしまった。同じ年に定められた規則(資料では「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」)は、貸座敷の営業を金曇町と新地町に限ったが、実際にはほかの地域にも、あいまいな女性を置く料理屋があったという。

風紀の取締りを強めたい開拓使は、市街地から離れた畑地の住ノ江町へ遊廓を移すことにした。移転は1883年(明治16年)に完了した。四層の洋風の楼閣があったことが記録に残り、このころの住ノ江は、港町の新しい盛り場になっていたようだ。

松ヶ枝町と梅ヶ枝町|南廓と北廓

1896年(明治29年)、住ノ江の遊廓から出た火が広がり、旧小樽の7か町が全焼した。遊廓は、天狗山の麓の入舟町の奥にある松ヶ枝町(南廓)へ移された。当初の貸座敷は18軒とされる。しかし交通が不便なために客足が落ち、1906年(明治39年)には再移転の陳情が出たものの、市民の反対で認められなかった。松ヶ枝には、羽衣町・弁天町・仲町・京町・柳町という、吉原にちなむ町名が並んでいたと伝わる。大正4年に松ヶ枝町の名が設けられた当時、遊郭があったことから、風情のある名前が選ばれたのではないかとする指摘もあるが、由来そのものは分かっていない。

もう一つの遊廓が、手宮に近い梅ヶ枝町の北廓だ。1880年(明治13年)に小樽と札幌の間の鉄道が開通し、始発駅の手宮が発展すると、風紀への対応が必要になった。1907年(明治40年)に梅ヶ枝町に遊廓が設けられ、翌年には16戸の楼、約130人の抱え娼妓がいたとされる。北廓については聞き取りが多く、調べた研究者自身も正確さは断定していない。

戦後は、1946年(昭和21年)の公娼制度の廃止のあと、手宮周辺や新地、南小樽駅付近などに、特殊飲食店街(赤線)が生まれた。1956年に成立した売春防止法が1958年に完全施行され、赤線は終わった。経緯は赤線・青線とは?戦後の特殊飲食店街の歴史を解説と売春防止法(1956年)とは?成立から施行までの歴史を参照してほしい。

小樽の花街|料亭と芸者の時代

遊廓とは別に、小樽には料亭と芸者の花街があった。19世紀後半から20世紀初めにかけて、北海道でもっとも豪華な料亭やホテルは小樽に集まっており、ニシンで財をなした漁場主や商人が、取引先の接待や宴会に使った。国土交通省の観光資料によれば、大正時代(1912〜26年)には約600人の芸者が、小樽の高級料亭で客をもてなしていた。そうした料亭の多くは、20世紀半ばの経済の低迷にともなって取り壊され、魁陽亭や光亭など、いまも建物が残るものは、改修のために閉じているか、民間の施設として再利用されている。

郊外のオタモイ海岸には、昭和初期に「オタモイ遊園地」が開かれた。戦前最後の好景気を象徴するような施設で、特に断崖にせり出すように建てられた高級料亭「龍宮閣」が人気を集めたが、1952年(昭和27年)に火事で焼け、遊園地も姿を消した。小樽市の資料は、これらを北海道の観光事業の先がけとして位置づけている。花街の成り立ちや芸者のしくみは花街と遊郭の違い|芸者・舞妓とは何が違うのかで説明している。なお、小樽の見番や芸妓数の細かな推移は、公開資料では確認できなかったので、ここでは扱わない。

小樽の料亭だった旧魁陽亭の外観と石段
小樽の料亭だった旧魁陽亭(2015年4月撮影)。小樽市の歴史的建造物に指定された明治期の料亭建築で、本文のとおり、花街の料亭の建物としていまも残る一つ。
撮影・作者: 山本昂左衛門 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

花園はどんな街か|大火で焼け出された人々の商店街

いまの小樽の繁華街、花園は、遊廓の移転先ではない。市の資料によると、花園の一帯は明治20年ごろまで荒涼とした丘陵だった。丘を削って平らな地面をつくり、住宅や店舗が建ち、人口が流れ込んで花園地区が生まれた。明治30年代に市内で大火が相次ぐと、焼け出された人々が花園に移って商売を始めたため、店舗が増え、昭和初期には道内でも屈指の活気ある商店街になった。花園町の町名が設けられたのは1884年(明治17年)で、由来は分かっていない。丘を削った跡は、明治30〜40年代の削平として、個人住宅の下に痕跡が残るという。

現在の花園は、山側に官公庁や市役所、海側に飲食店街がある構成だ。「花園銀座」と呼ばれる商店街の名は、「花園」が北前船の交易で結ばれた京都、「銀座」が東京にちなむといわれる。1964年(昭和39年)にはJRの高架橋が完成し、それまでの「開かずの踏切」がなくなった。路地には居酒屋やスナックが密集し、通りごとに呼び名がある。市の資料も、花園を居酒屋やスナックが集まる繁華街として紹介している。

小樽市花園地区の眺め
小樽市花園地区の眺め(2018年4月撮影)。花園は丘陵を削って開かれた地区で、明治の大火後に商店街が育った。
撮影・作者: Braveheart / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
小樽運河と石造倉庫群
小樽運河(2009年6月撮影)。1923年(大正12年)に完成し、保存運動を経て1986年に現在の姿になった。
Komatta / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

今の姿|運河と銀行街、跡地の住宅街

小樽観光の中心は、運河と石造倉庫群、銀行街だ。小樽運河は1923年(大正12年)に完成した全長1,140m、幅40mの運河で、1966年(昭和41年)に埋め立て計画が持ち上がると、保存運動が起き、一部が残されて1986年に現在の姿になった。色内には、日本銀行旧小樽支店(1912年、辰野金吾が顧問)や旧北海道銀行本店といった建物が残る。大正期までの小樽は札幌より規模が大きく、約20の金融機関が集まって「北のウォール街」と呼ばれた。

遊廓の跡はどうか。金曇町(信香町)には、遊廓の建物は残っていない。松ヶ枝町と梅ヶ枝町は、閑静な住宅街になっている。小樽市の資料は、松ヶ枝について、住ノ江から移った遊廓が作った遊興の場だったが宅地化が進み、現在は火防帯として設けられた広い道路のみに痕跡を見られると記す。住宅街の見学では、住民の生活に配慮したい。

ニシンは1954年(昭和29年)を境に獲れなくなった。戦後は、ニシンの不漁、樺太の喪失、石炭需要の減少などで卸商が衰え、人口は1964年(昭和39年)9月末の207,093人をピークに減り、2025年の国勢調査では100,269人になった。一方で観光入込客は2017年度に年間800万人を超えた。港町の富を支えたニシンと、その景気に集まった人々の街は、観光都市として別の顔をもつようになった。

まとめ

小樽の遊廓は、ニシン景気で人が集まった港町で、1871年に開拓使が金曇町の遊廓を公認したのが始まりだ。1881年と1896年の大火を経て、住ノ江町、松ヶ枝町と移され、1907年には手宮に近い梅ヶ枝町にも北廓ができた。料亭と芸者の花街も栄え、大正期には約600人の芸者がいたと伝わる。ニシンが獲れなくなった1954年、売春防止法が施行された1958年を経て、遊廓の跡地は松ヶ枝・梅ヶ枝の住宅街と火防帯の道路になり、繁華街としての花園は居酒屋やスナックの集まる街として続いている。ほかの地域は北海道・東北の遊郭跡で比べられる。

よくある質問

Q. 小樽の遊廓はどこにあったのですか?
A. 1871年に公認された金曇町(現在の信香町付近)、1883年からの住ノ江町、1896年からの松ヶ枝町(南廓)、1907年にできた梅ヶ枝町(北廓、手宮に近い)の順に置かれた。

Q. なぜ小樽に遊廓や花街が栄えたのですか?
A. ニシン漁の出稼ぎ人や、ニシン景気で財をなした網元・商人が集まったためだ。1911年には小樽港の積み出し貨物でニシン粕が18%を占めて最多だった。

Q. 花園は遊廓の跡地ですか?
A. 違う。花園は、明治30年代の大火で焼け出された人々が丘を削って築いた商店街・飲食街の地区で、昭和初期には道内でも屈指の商店街になった。遊廓は住ノ江町や松ヶ枝町などに置かれた。

Q. 小樽の花街にはどれくらい芸者がいたのですか?
A. 大正時代(1912〜26年)には約600人の芸者が、小樽の高級料亭で客をもてなしていたと、国土交通省の観光資料は記す。

Q. 遊廓の跡には何か残っていますか?
A. 信香町には建物が残っておらず、松ヶ枝町と梅ヶ枝町は住宅街になっている。松ヶ枝には火防帯として設けられた広い道路にのみ、痕跡を見られると市の資料は記す。

Q. 小樽のニシン漁はいつ終わったのですか?
A. 昭和期に漁獲が減り、1954年(昭和29年)を境に獲れなくなった。水温の上昇や森林伐採などの環境変化、乱獲が原因とみられている。

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: 皓月旗 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: 山本昂左衛門 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: Braveheart 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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