※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。
大分県の別府は、日本有数の温泉都市として知られる。その温泉街には、明治から昭和にかけて、貸座敷(いわゆる遊廓)と芸者の花街が並び立っていた。面白いのは、この二つが同じ場所にあったわけではないことだ。貸座敷は南の浜脇に、芸者の営業は流川や楠町のあたりにと、時代とともに町の中で場所を分けていった。この記事では営業や利用には触れず、別府の温泉と観光の発展を背景に、花街と遊廓の成り立ち、終わり、いまの街の姿を、論文や自治体の資料で確認できた範囲で整理する。個人サイトの記述を使った箇所は、その旨を書いた。
別府の花街・遊廓の要点

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別府温泉の成り立ち|浜脇と流川の位置
別府市の温泉は「別府八湯」と呼ばれ、浜脇、別府、亀川、鉄輪、観海寺、堀田、柴石、明礬の8つの温泉場からなる。市の案内は、このうち浜脇を別府温泉発祥の地とし、浜から湯が湧いたことが名の由来だとしている。浜脇は江戸時代に、港と温泉、寺社の門前町として発展した。いまの別府駅に近い「別府」の温泉場は、明治の築港と鉄道の開通を受けて中心になった。花街の話をするうえで、まずこの位置関係を頭に入れておくとわかりやすい。
流川は、旧別府港(楠港)に注いでいた川の名で、いまは同名の通りとして知られる。1871年(明治4年)5月に流川の河口に別府港が完成すると、人とモノが集まり、周辺の町が急に開けた。港の脇の楠町や流川の周辺は、のちに置屋や待合が集まる地区になっていく。公衆浴場の竹瓦温泉が創設されたのは、1879年(明治12年)とされる。
江戸時代から明治初期|別府と浜脇の遊所
別府の遊所の歴史は、近世にさかのぼる。別府と浜脇は1686年(貞享3年)に幕府領となり、潮湯や楠湯などの共同浴場に浴客を迎えていた。文政5年(1822年)ごろに浜脇を訪れた田能村竹田の紀行は、温泉が各家にあり、妓院なども立ち並んでいたと記している。研究者の神田由築は、恒常的に遊女を抱える遊女宿は別府と浜脇にしかなかったと指摘する。別府の庄屋の日記にも、幕末の1867年の例として、売婦や芸子についての記述が見える。
明治になると、制度のうえで貸座敷と娼妓の営業地が定められる。1878年(明治11年)の県の布達による貸座敷免許地の一つが「別府港」だった。明治10年代前半の統計では、別府の貸座敷は42軒、娼妓は52人(年は1878年とする整理と1882年とする整理がある)。1887年(明治20年)の『豊後別府村浜脇村諸用案内記』は、貸座敷の業者が流川の「名残橋」周辺と、楠湯のそばの「桜新地」に集まっていたと記す。後者はのちに楠遊廓と呼ばれた。遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いでも触れているように、「新地」は新しく開かれた土地の呼び名から遊里の名になった言葉だ。
この時期の別府では、芸者だけを抱える業者はまだ見当たらない。研究が使った史料では、芸妓は娼妓とともに貸座敷の業者が抱えていた。貸座敷の業者には、酒の販売など他の商売を兼ねる人や、温泉宿を営む人が多く、温泉の宿と遊所が近い関係にあったことがわかる。1888年の『別府温泉記』も、宿を兼ねる貸座敷業者が多かったと伝える。
貸座敷の中心が流川から浜脇へ|明治後期の変化
転機は明治の後半にくる。松田法子の論文(2018年)は、明治20年ごろまで貸座敷の中心は流川沿いにあったが、明治末には浜脇に移ったと指摘する。流川沿いは低湿地で、旅館を営む有力な一族が開発した土地だった。移った理由として論文が挙げるのは、1900年(明治33年)の豊州電気鉄道の開通、温泉施設の近代化、それに伴う土地の売買の活発化だ。1907年(明治40年)の『新別府花柳細見』が記す貸座敷業者は、別府が19軒に対して浜脇が44軒と、数の上でも逆転していた。
この間に町の姿も変わった。1893年に別府村は別府町、浜脇村は浜脇町になり、1906年に両町が合併している。浜脇では、埋め立てで生まれた「入江町」に貸座敷が立ち並んだ。論文は、この入江町の土地の所有の仕組みが、他の地域と異なっていたとも述べる。散策記は、明治34年ごろまで船入れ場だった場所を埋め立て、明治41年に「幸楼」が建ったと伝え、全盛期には新町、入江町、東仲町、薬師町などに45軒があったとする。出典は個人サイトなので、数字は目安として読んでほしい。同じサイトが引く『遊郭をみる』は、明治20年代から昭和初期まで、浜脇に常に200人以上の遊女がいたとされる。
建物にも特徴がある。論文は、浜脇の貸座敷が、棟に平行に入口をとる「妻入り」の形で、石灰漆喰の壁など民家に近いつくりだったと説明する。入江町の建物は別の類型を起源とし、地区が新しかったことが理由だという。囲いや大門で区切られた吉原のような「廓」ではなく、町の中に貸座敷の営業地が溶け込んでいた点は、別府の大きな特色だ。こうした営業地を、論文は「貸座敷営業地」と呼んでいる。

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芸者の町となった流川と楠町|大正から昭和戦前
大正に入ると、役割の分かれ方がはっきりする。論文は、大正期以降、貸座敷は浜脇に、芸者に関わる営業は流川周辺にあり、両者の立地が離れていったと指摘する。かつて楠遊廓のあった一帯は、置屋、待合、料亭が集まる地区に変わった。散策記が引く『別府今昔』によると、大正初期には楠町から浮世小路、流川にかけて置屋が26軒あった。芸者の町と遊廓の町が分かれる流れは、花街と遊郭の違いの記事で説明している全国的な区別とも重なる。
観光地としての別府の成長が、その背景にある。1911年(明治44年)に別府駅が開業し、1912年には大阪商船が阪神と別府を結ぶ観光航路を開いた。1924年(大正13年)には市制が施行され、人口は36,276人になった。1928年(昭和3年)には、油屋熊八が地獄めぐりの観光バスを走らせている。1937年(昭和12年)には別府国際温泉観光大博覧会が開かれた。1938年(昭和13年)に完成した現在の竹瓦温泉の建物は、2004年に国の登録有形文化財になっている。そして流川通りは、戦前は「不夜城」と呼ばれる商店街だったと、Wikipediaは記す。

戦後から1958年|観光都市と遊廓の終わり
戦後の別府は、1945年に進駐軍が別府公園を接収するなど占領の影響を受けたあと、1950年(昭和25年)7月に国際観光温泉文化都市の第1号に指定された。新婚旅行や修学旅行の行き先としてにぎわい、観光客は1976年ごろに最盛期を迎えたとされる。北浜を中心に飲食店が密集した一帯は、九州でも有数の規模の歓楽街になったと説明されている。こうした温泉観光の拡大は、花街の客の層も大きく変えたと考えられる。
遊廓の側では、1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行が区切りになった。浜脇の貸座敷営業は、この法律で終わったとされる。全国の流れは売春防止法(1956年)の記事と赤線・青線の記事で整理している。別府の赤線の規模や戦後の営業の実態を示す公的な資料は、今回の調査では確認できなかったため、この記事では書かない。

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浜脇の今|再開発と残る建物
浜脇の景色は、1991年(平成3年)の再開発で大きく変わった。旧浜脇温泉と浜脇高等温泉の跡地は、温泉施設「湯都ピア浜脇」、市営住宅、共同浴場、ショッピングモールを核にした一画になった。市の案内は、浜脇に明治・大正の遊興地の名残が残るとしている。木造の温泉旅館が多かった一帯は、観光の中心が別の地域に移るにつれて衰えた、と別府市観光協会のサイトは説明する。
町には、明治から大正のにおいを残す建物がいくつかある。1911年に建てられた東別府駅舎(当時は「浜脇駅」)は、別府市の有形文化財に指定された、県内で最も古い駅舎とされる。築100年以上の長屋を改装した宿泊施設もある。旧貸席の建物については、2012年から2017年ごろに訪れた散策記が、緑のタイルで外壁を飾ったカフェー風の建物と、妓楼らしい造りの建物を紹介していた。後者は2022年末ごろに取り壊されたと伝えられる。遊廓、旅館、商店は造りが似ていて、看板のない現在は見分けがつきにくいという指摘もある。同じ散策記が触れる洋館の平尾家邸宅(1917年完成)は、遊廓とは関係のない銀行頭取の家だ。外観だけで用途を決めつけず、住民の暮らしの場であることを前提に歩くのが基本になる。
別府の花街・遊廓の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1686年 | 別府・浜脇が幕府領となる |
| 1822年ごろ | 田能村竹田の紀行に、浜脇の温泉と妓院が記される |
| 1871年 | 流川の河口に別府港(楠港)が完成する |
| 1878年 | 貸座敷の免許地の一つに「別府港」が定められる |
| 1887年 | 貸座敷業者が流川の名残橋周辺と、楠湯そばの桜新地に集まる |
| 1900年 | 豊州電気鉄道が開通する |
| 1906年 | 別府町と浜脇町が合併する |
| 1907年 | 貸座敷業者は別府19軒、浜脇44軒(『新別府花柳細見』) |
| 1911年 | 別府駅が開業する |
| 1924年 | 別府市が誕生する |
| 1928年 | 地獄めぐりの観光バスが走り出す |
| 1950年 | 国際観光温泉文化都市の第1号に指定される |
| 1958年 | 売春防止法の全面施行 |
| 1991年 | 浜脇で再開発。湯都ピア浜脇などが整備される |
まとめ
別府の花街と遊廓は、温泉地の発展と一体で育った。近世から別府と浜脇に遊所があり、明治には貸座敷の中心が流川沿いから浜脇へ移った。大正以降は、貸座敷が浜脇に、芸者の営業が流川や楠町の周辺に集まる形で分かれていく。1958年の売春防止法の全面施行で遊廓は終わり、浜脇は1991年の再開発で姿を変えたが、旧貸席の建物や路地に、かつての町の記憶が残る。大分や九州の旧遊廓を見渡すには、九州・沖縄の遊郭跡一覧や日本の遊廓の成り立ちと一覧も参考になる。
よくある質問
Q. 別府の花街と遊廓は同じものですか?
A. 同じではない。遊廓は貸座敷の営業地を指し、別府では主に浜脇にあった。芸者の営業を中心とする花街は、大正以降、流川や楠町の周辺に集まった。
Q. 浜脇とはどんな場所ですか?
A. 別府八湯の一つで、別府温泉発祥の地とされる。浜から湯が湧いたことが名の由来で、江戸時代には港と温泉、寺社の門前町として栄えた。明治後期には貸座敷が集まる地区となった。
Q. 別府で貸座敷の中心が浜脇に移ったのはいつですか?
A. 論文によると、明治20年ごろまでは流川沿いが中心で、明治末には浜脇に移っている。1907年の記録では、貸座敷業者は別府19軒に対して浜脇44軒だった。
Q. 入江町とはどんなところですか?
A. 浜脇にあった埋め立て地の町名で、貸座敷が立ち並んだ。論文は土地の所有の仕組みが他の地域と異なったと述べる。散策記によると、明治34年ごろまで船入れ場だった場所だという。
Q. 別府の遊廓はいつ終わりましたか?
A. 1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で、貸座敷の営業は終わったとされる。
Q. 今も建物は残っていますか?
A. 浜脇には、旧貸席とされる建物や古い長屋、1911年建築の東別府駅舎などが残る。ただし建て替えや取り壊しも進んでいて、散策記が紹介した建物の一つは2022年末ごろに取り壊されたと伝えられる。いずれも暮らしの場なので、外から静かに見るのが前提だ。
Q. 別府の芸妓の数や見番の歴史は分かりますか?
A. 今回の調査では、大正から昭和にかけての芸妓の人数や見番の変遷を示す公的な資料は確認できなかった。確認できた範囲は、置屋や待合の分布の変化にとどまる。
参考にした資料
- 松田法子「大分県別府温泉における芸娼妓の社会と空間―旧浜脇村の貸座敷と娼妓を中心に―」『日本建築学会計画系論文集』83巻747号、2018年(J-STAGE)
- 遊廓・遊所研究データベース「大分県」(松田法子の研究に基づく沿革の整理。該当ページ)
- 別府市「別府八湯ガイド」(浜脇温泉・別府温泉の説明)
- 別府市観光協会「別府レトロ散策」(浜脇エリアの記述)
- Wikipedia「別府市」「別府温泉」「竹瓦温泉」(別府市、別府温泉、竹瓦温泉)
- 個人サイトの散策記(旧貸席の建物と『別府今昔』『遊郭をみる』の引用の参考。note、Nostalgic Landscape)
- 神田由築『近世の芸能興行と地域社会』東京大学出版会、1999年(上記の沿革整理での引用による)
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
遊廓と花街の違い・全国概説・東海から九州沖縄の旧遊廓跡。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 写真: 大分帰省中 撮影(CC BY 3.0)/Wikimedia Commons
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