金津園(金津遊廓)とは?岐阜の歴史・場所・移転の経緯と今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。

岐阜駅の南西、岐阜市加納水野町には「金津園」と呼ばれる一画がある。この名のもとになったのが、明治21年(1888年)に開かれた「金津遊廓」だ。遊廓は一度の移転ではなく、柳ヶ瀬の西側から手力、そして現在地へと動いている。この記事では特定の店舗や営業には触れず、金津遊廓がどのような経緯で生まれ、なぜ現在の場所にあるのか、その歴史と街の変化を、研究データベースや図書館のレファレンス記録など確認できた資料の範囲で整理する。資料の記述が食い違う点は、その旨を書いた。

金津園(金津遊廓)の要点

1888年(明治21年)に県が15年期限で許可し、11月に開業当初の場所は柳ヶ瀬の西側(西柳ヶ瀬)1929年の一覧は貸座敷54軒・娼妓480人で県内最大戦時中に軍需工場の寮のため手力へ移転1950年10月15日、紡績工場跡地(加納水野町)へ一斉移転1軒63坪の区割りが今も敷地の揃い方に残る
目次

金津園とは|場所と名前

金津園があるのは、岐阜駅南口の西側、加納水野町だ。駅からそれほど離れていない住宅地の一角にあたる。もとの金津遊廓は、現在のJR岐阜駅の南ではなく、岐阜市の繁華街・柳ヶ瀬の西側にあった。1950年に今の場所へ集団で移るまで、およそ60年以上、別の場所にあったことになる。

「金津」の名の由来は、公開されている資料では確認できなかった。開業当初の所在地は、遊廓・遊所研究データベースが「上加納村字高巌」とするのに対し、個人の紹介記事には「字金津」と書くものもあり、表記が分かれている。ここでは、県史・市史などをもとにした研究データベースの「字高巌」に従う。「園」の字を使う呼び名がいつから一般的になったかも、確認できていない。遊郭や新地といった言葉そのものの違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。

岐阜県の公娼制度と金津遊廓の誕生

金津遊廓が生まれる前、岐阜県は遊廓を認めない姿勢をとっていた。1873年(明治6年)には県内の旅籠屋や料理屋だった人々が貸座敷営業を願い出たが、県令は許可せず、1875年に内務省へ直接出された嘆願も却下されている。1876年には県が「売淫罰則」を定めて取締りを強めた。転機は1888年(明治21年)だ。この年の娼妓貸座敷取締規則により、岐阜・大垣・高山に遊廓が認められ、翌年には多治見が加わって県内は4か所になった。

経緯は日付まで記録が残っている。1888年6月ごろ、上加納村周辺の有志が遊廓の設置を県に願い出た。立案者には、岐阜町の有力者や県会議員が含まれていた。8月6日には「申合規約書」が調印され、遊廓の収益から2万2000円を道路の開設などの公益事業にあてることが決まった。8月16日に県は15年の期限つきで営業を許可し、8月24日に取締規則が公布された。建設は9月1日に始まり、11月5日に開業。翌1889年5月11・12日に開業式が行われた。遊廓が、道路整備などの費用を生む仕組みと結びついていた点が、この町の特徴だといえる。

用意された土地は、上加納村字高巌のうち約1万4400坪で、地主は大矢富次郎だった。廓内は東側の約8500坪に貸座敷・割烹店・芸妓屋などを置き、西側の約6000坪を遊園地にして演劇場や遊技場を建てる計画だったとされる。Wikipediaによれば、現在の大富町という町名は大矢富次郎にちなむという。

1930年代の岐阜・柳ヶ瀬の通り
1930年代の柳ヶ瀬の通り(岐阜市)。金津遊廓は、この繁華街の西側(西柳ヶ瀬)で開かれた。写真は当時の街の雰囲気を伝えるもので、遊廓そのものを写したものではない(撮影者不詳)。
パブリックドメイン / Wikimedia Commons

西柳ヶ瀬の時代|規模と暮らし

開業当初の規模について、Wikipediaは58軒とする。昭和初期の数字は、1929年(昭和4年)刊の上村行彰『日本遊里史』の付録にある一覧が使われることが多く、金津は貸座敷54軒、娼妓480人だった。同じ一覧で、岐阜県内のほかの遊廓は、大垣の旭が18軒・130人、多治見の西ヶ原が11軒・87人、高山の花岡が12軒・52人で、金津が県内最大だったことが分かる。

遊廓名貸座敷数娼妓数
金津(岐阜市)54軒480人
旭(大垣市)18軒130人
花岡(高山市)12軒52人
西ヶ原(多治見市)11軒87人

この時代の様子は、図書館の記録に断片的に残る。岐阜市立図書館のレファレンス記録によれば、1899年には新聞に「岐阜遊廓移転問題」の記事が載っており、遊廓の位置は早い時期から議論になっていた。昭和3年ごろ(1928年ごろ)の「金津園のおいらん道中」の写真や、軒先に提灯が並ぶ昭和7年ごろの写真、1933年・1936年の見取図も残っている。1937年には、地元紙が金津の芸娼妓の親族にあたる応召兵への慰問を報じている。「金津園のおいらん道中」と題された写真があり、遊廓を指す名として金津園の呼び名が使われていたことが分かる。

遊廓は岐阜市の財政とも結びついていた。2026年の文春オンラインの記事は、金津遊廓が行政に多くの富をもたらし、岐阜市政の発展に貢献したと述べる。一方で、娼妓を縛る前借金や年季の仕組みは、ほかの遊廓と同じく、そこで暮らす女性にとって重い負担だった。全国の制度は日本の遊廓の成り立ちと全国一覧で解説している。

戦時中の移転|手力へ

太平洋戦争の末期、金津遊廓は柳ヶ瀬の西側から動かされた。Wikipediaは、1945年に川崎航空機工業の寮を建てるため、岐阜市長森蔵前字東中島、現在の手力町付近へ移されたと書く。急造だったためバラック造りの趣はなかったともいう。個人の調査記事は、1944年に川崎航空機の宿舎として接収されたとしており、年は資料によって1944年と1945年に分かれる。いずれにしても、軍需工場の都合で町ごと移された点は一致している。

移転先は戦後、「手力特殊喫茶街」と呼ばれた。岐阜市は1945年7月9日に空襲を受けており、総務省の記録では、約130機のB-29が来襲して死者は約900人、焼けた家屋は2万戸以上、市街地の約7割が焼失した。ただし、この空襲で遊廓の建物や人にどんな被害があったかは、確認できた資料では分からなかった。1946年の公娼制度の廃止後、こうした地域は特殊飲食店街、いわゆる赤線として続くことが多い(赤線・青線とは?戦後の歴史)。

1919年ごろの岐阜駅
1919年ごろの岐阜駅。1950年に金津園が移った加納水野町は、いまの岐阜駅南口の西側にあたる(撮影者不詳)。
パブリックドメイン / Wikimedia Commons

1950年の一斉移転|63坪の区割り

現在の金津園が生まれたのは、1950年(昭和25年)10月15日のことだ。業者は岐阜駅南口の西にあった富士瓦斯紡績岐阜工場の跡地へ、一斉に移った。業者は60軒で、場所はくじ引きで決められた。敷地は1軒あたり63坪に区切られ、現在も各店の敷地がほぼ同じ広さなのは、この区割りの名残だとWikipediaは説明している。

2026年の文春オンラインの記事によれば、2度の移転を経たため、現存する建物は最も古くても1950年以降のものだ。遊廓時代の建物がそのまま残る町ではなく、戦後の計画移転で生まれた町だという点は、ほかの旧遊廓の跡地と大きく違う。一方で、大正9年創業という家が親子三代で続いている例も紹介されており、人と家業のつながりは移転をまたいで続いている。

売春防止法後|転廃業から現在まで

1956年に公布された売春防止法は、1958年4月に全面施行された(売春防止法(1956年)の歴史)。岐阜市立図書館の記録は、1957年に金津の全業者が転廃業して約70年の歴史が終わり、1958年には業者が旅館営業などに転じたと整理している。そのあとの経緯は、Wikipediaが「赤線地帯を経てソープ街になった」と簡潔に書く程度で、公開資料からは細かい移り変わりまでは追えなかった。風俗営業をめぐる法律や業態の変遷はトルコ風呂からソープランドへの歴史にまとめてある。

その後の規模は縮小している。Wikipediaによれば、店の数は1993年(平成5年)の69店が最多で、2008年のリーマンショックや市道拡張に伴う廃業などを経て、2017年には54店になった。市道水野町線は、岐阜駅周辺の渋滞を和らげるための道路で、金津園の一画を通る計画だったが、店の移転が進まず遅れ、2023年(令和5年)7月6日に暫定の2車線で供用が始まった。町の周囲は、いまは住宅地が取り囲んでいる。

今の姿|名残を歩くときの目安

いまの金津園は、住宅地のなかにある風俗営業の街として続いている。跡をたどるときに目に見える歴史の手がかりは、次の3つだ。1つ目は、ほぼ同じ大きさに揃った区画で、1950年のくじ引きと63坪の割り付けの跡だ。2つ目は、新しく通った市道水野町線で、町の成り立ちが現代の都市計画と重なる部分だ。3つ目は、旧地の柳ヶ瀬側にある「大富町」の名で、地主の大矢富次郎に由来する。西柳ヶ瀬にあった遊廓時代の建物は、確認できた資料では現存を確かめられなかった。

なお、手力の旧地については、古い民家や長屋が残るという個人の散策記があるが、現在の様子は確認していない。どの場所も人が暮らす生活圏であり、外から静かに眺めるのが前提になる。

金津園の年表

年出来事
1873年県令が貸座敷営業の願い出を許可せず
1888年8月県が15年の期限つきで営業を許可。娼妓貸座敷取締規則が公布される
1888年11月5日金津遊廓が開業(上加納村字高巌)
1889年5月開業式が行われる
1899年新聞に「岐阜遊廓移転問題」の記事が載る
1929年『日本遊里史』付録の一覧に貸座敷54軒・娼妓480人とある
1944〜45年軍需工場(川崎航空機)の寮のため手力へ移転(年は資料により異なる)
1945年7月9日岐阜空襲。市街地の約7割が焼失
1950年10月15日加納水野町の紡績工場跡地へ60軒が一斉移転。1軒63坪の区割り
1957〜58年売春防止法を前に全業者が転廃業、旅館営業などに転じたと整理される
1993年店数が最多の69店
2017年店数は54店
2023年7月6日市道水野町線が暫定2車線で供用開始
金津遊廓(岐阜)の年表。1888年の開業から1950年の一斉移転、2023年の市道水野町線の開通まで
金津遊廓の歩み(本文の年表をもとに作成。年号は資料により前後する場合があります)

資料で食い違う点

金津園の歴史は、資料ごとに細部が違う。開業当初の所在地は「字高巌」と「字金津」で表記が分かれる。戦時中の移転は1944年とする記述と1945年とする記述があり、移転先も「手力町付近」「東中島付近」などと書かれる。開業当初の軒数は、Wikipediaの58軒に対し、規模を示す確かな一次資料は確認できなかった。昭和初期の54軒・480人は、1929年の一覧の数字であり、年や調査の方法で変わりうる。この記事では、日付や数字まで記録が残るものを中心に、出典を示して書いた。

まとめ

金津遊廓は、1888年に岐阜県が15年期限で許可し、同年11月に開業した。収益の一部を道路などの公益事業にあてる取り決めがあり、1929年の一覧では貸座敷54軒・娼妓480人と県内最大だった。戦時中に手力へ移され、1950年10月15日に加納水野町の紡績工場跡地へ60軒が一斉移転して、現在の金津園の原形ができた。売春防止法の前後に遊廓としての営業は終わり、その後は性格を変えながら現在の街に続く。目に見える名残は、遊廓時代の建物ではなく、1軒63坪の区割りや町名、地図に残る移転の軌跡だ。ほかの中部・北陸の旧遊廓は中部・北陸の遊郭跡、全国の位置づけは日本の遊廓の成り立ちと全国一覧からたどれる。

よくある質問

Q. 金津遊廓はいつ、どこに開かれたのですか?
A. 1888年(明治21年)11月5日に開業した。県が許可したのは同年8月16日で、15年の期限つきだった。場所は上加納村字高巌の約1万4400坪で、地主は大矢富次郎。のちに柳ヶ瀬の西側(西柳ヶ瀬)の遊廓として知られる。

Q. なぜ現在の加納水野町にあるのですか?
A. 戦時中に軍需工場の寮を建てるため手力へ移された後、1950年10月15日に、岐阜駅南口の西にあった富士瓦斯紡績岐阜工場の跡地へ60軒が一斉に移ったため。場所はくじ引きで決められた。

Q. 敷地がどれも同じ広さなのはなぜですか?
A. 1950年の移転の際に、1軒あたり63坪に区切って割り当てたため。Wikipediaは、この区割りが今も各店の敷地面積がほぼ同じである理由だと説明している。

Q. 昭和初期はどのくらいの規模でしたか?
A. 1929年(昭和4年)の『日本遊里史』付録の一覧では、貸座敷54軒、娼妓480人。岐阜県内の4つの遊廓のなかで最大だった。

Q. 遊廓はいつ終わったのですか?
A. 岐阜市立図書館の記録は、1957年に全業者が転廃業して約70年の歴史が終わり、1958年に旅館営業などに転じたとする。売春防止法は1956年公布、1958年4月に全面施行された。

Q. 遊廓時代の建物は残っていますか?
A. 2026年の報道は、2度の移転のため現存する建物は最も古くても1950年以降だと伝える。西柳ヶ瀬にあった時代の建物は、確認できた資料では現存を確かめられなかった。

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