熱海の花街とは?熱海芸妓と見番の歴史、昭和の温泉歓楽街から今の姿まで

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

熱海は、全国で最も芸妓の多い温泉地として知られる。いわゆる遊廓や色街とは成り立ちが異なり、湯治場として発展した温泉町の宿と宴席を支えるかたちで、芸妓の文化が育った。この記事では特定の宿や店には触れず、熱海芸妓がどう生まれ、どんな時代にどれほどの規模になり、いまどうなっているのかを、組合や熱海市の公式情報、百科事典の記述など、資料で確認できた範囲で整理する。

熱海の花街とは

明治10年の遊芸師が起源昭和7年に熱海芸妓組合が設立1950年の熱海大火で置屋も被災1954年に現在の見番が落成昭和30〜40年代は芸妓1,000人超現在も約100人が活動
目次

熱海の花街とは|温泉町に根づいた芸妓の世界

熱海の芸妓は、多くが「置屋(おきや)」と呼ばれる所属先に籍を置き、宿や料理屋の宴席に呼ばれて、踊りや三味線、唄で場を盛り上げる職業だ。置屋の組合を「見番(けんばん)」といい、芸妓の稽古場としての役割も持つ。熱海芸妓の組合は、花街のあり方を次のように説明している。関東では「芸者」「芸妓」、修行中の若い芸妓は「半玉」と呼び、その世界を「花柳界」という。

花街と遊廓には、宴席で芸を披露する芸妓の街か、公認された貸座敷の区画かという違いがある。くわしくは花街と遊郭の違いや遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いの記事を参照してほしい。熱海の花街の背景にあったのは、湯治客や別荘族、のちには団体旅行客を受け入れた宿の経済だとみられる。

将軍の湯から保養地へ|江戸から明治

熱海は古くからの湯治場だ。江戸時代初期の1604年(慶長9年)には徳川家康が約1週間逗留した記録があり(『徳川実紀』)、以後は将軍家に愛用され、湯を江戸城へ運ぶ「御汲湯(おくみゆ)」も行われたと伝わる。熱海市の公式サイトによれば、明治の中ごろまでは平均で1週間ほど滞在する湯治客が中心だったが、しだいに保養が目的となり、客層は中産階級へ広がった。宿泊の形も自炊中心から、食事を出す形へと変わっていった。

この変化が、宴席を盛り上げる芸妓の需要を生んだとみられる。尾崎紅葉の『金色夜叉』が1897年から読売新聞に連載され、熱海の名が全国に知られたのも、ちょうどこの時期だ。1889年(明治22年)には、のちに大正天皇の療養にも使われる熱海御用邸が竣工している。

日下部金兵衛が撮影した明治期の熱海の温泉の湧出を写した手彩色写真
日下部金兵衛による明治期の手彩色写真「Great Hot Boiling Springs at Atami」。熱海の湧き出る温泉と周りの建物を写している。
Kusakabe Kimbei (日下部金兵衛) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
武内桂舟が描いた『金色夜叉』の口絵(貫一とお宮)
武内桂舟による『金色夜叉』の口絵「貫一とお宮」(1898年・明治31年出版)。
武内桂舟 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

熱海芸妓のはじまり|明治10年の遊芸師

熱海芸妓置屋連合組合の沿革によれば、熱海芸妓のはじまりは1877年(明治10年)にさかのぼる。阪東三代吉(本名・樋口ろく)という遊芸師が熱海の浜町に住み、宿に泊まる客の稽古の相手をしていた。長唄は杵屋、踊りは阪東流で、岩倉具視の「お墨付き」があったと伝わる。1910年(明治43年)には、三代吉の功労を記念する等身大の碑が、当時の上流階級の人々によって大乗寺の山門に建てられたが、いまは跡形もないという。組合は1992年(平成4年)、三代吉の菩提寺に、使い古した三味線や扇子などを供養する撥扇塚(はっせんづか)を建てた。

注目したいのは、当初は「芸妓」とは認められていなかった点だ。大正の初めごろは、遊芸師でなければ宿への出入りは許されず、芸妓と呼ばれるようになったのは、1932年(昭和7年)に熱海芸妓組合が設立されてからだと組合は説明している。人数は、遊芸師を含めて大正7年ごろに27〜28人だったものが、昭和11年(1936年)には195人に増えた。約18年で約7倍という急な伸びは、温泉地としての成長と歩調を合わせている。

明治期に刊行された熱海の鳥瞰図「豆州熱海全圖」
「豆州熱海全圖」(1881年・明治14年ごろ)。熱海芸妓がはじまった明治10年代の温泉町の姿を描いた鳥瞰図。
パブリックドメイン / Wikimedia Commons

鉄道と丹那トンネルが変えた町|昭和初期の熱海

熱海を大きく変えたのは鉄道だ。熱海市の資料は、1925年(大正14年)の国鉄熱海線の開通で東京と3時間20分で結ばれ、保養や観光の客が急増したと記している。さらに1934年(昭和9年)に丹那トンネルが完成して東海道本線が通ると、熱海の地位は一層高まり、旅館は95軒、宿泊客は33万人を数えた。1936年(昭和11年)7月には町営温泉(のちの市営温泉)が発足している。

百科事典のWikipediaによれば、この時期の熱海は新聞に「エロの街、カフェーの街」と書かれるほど風俗産業の盛んな温泉街だったが、丹那トンネルの開通で温泉目的の観光客が増えると、カフェーは続々と食堂に転じたとされる。一次の資料までは確認できていないため、ここでは概要の紹介にとどめる。いずれにしても、昭和初期の熱海は、芸妓、カフェー、旅館が並び立つ、にぎやかな歓楽温泉への道を歩み始めていた。

年出来事
1604年徳川家康が湯治に訪れた記録がある(『徳川実紀』)
1877年遊芸師・阪東三代吉が浜町で宿の客に稽古を付ける(熱海芸妓のはじまり)
1925年国鉄熱海線が開通し、東京と約3時間20分で結ばれる
1932年熱海芸妓組合が設立される。このころから「芸妓」と呼ばれる
1934年丹那トンネルが完成。旅館95軒、宿泊客33万人
1936年芸妓195人。町営温泉が発足する
1950年4月熱海大火。約1,500棟が焼失。8月に熱海国際観光温泉文化都市建設法が公布される
1954年4月現在の見番が落成し、「東海一の芸妓組合」と呼ばれる
昭和30〜40年代芸妓が1,000人を超え、置屋は200軒を超える
1990年「熱海をどり」が始まる
1998年見番を公開する「湯めまちをどり華の舞」が始まる
建設中の丹那トンネルの坑口付近(大正から昭和戦前期の写真)
建設中の丹那トンネル(大正〜昭和戦前期の写真。国書刊行会『目でみる懐かしの停車場』より、Commonsの記載による)。
パブリックドメイン / Wikimedia Commons

熱海大火と見番の新築|戦後の復興

1950年(昭和25年)4月13日の夕方、熱海市渚町の埋立地で、トラックにガソリンを給油していた作業員の火が引火し、大火になった。海から吹く15メートル以上の強風にあおられ、渚町の糸川以北、現在の銀座町と中央町に当たる市街地の中心部、清水町と昭和町の西部まで燃え広がり、午前0時に鎮火した。焼けた面積は市役所を含む約14万1,900平方メートル、焼失した家屋は約1,500棟に上った。死者は出なかったが、979人が重軽傷を負い、1,461世帯が被災した。

国は同年8月1日に「熱海国際観光温泉文化都市建設法」(法律第233号)を公布し、熱海を国際観光温泉文化都市として建設することを目的に、国と地方の関係機関に事業への援助を求めた。この大火では置屋も多く焼け出され、組合は事務所を転々とした。現在の見番の建物は、そうした混乱を経て1954年(昭和29年)に完成し、4月1日と2日に落成を祝った。当時としては立派な建物で、「東海一の芸妓組合」と呼ばれたという。建物の前の川の向こうから撮った落成記念の写真は、集まった人の多さが目を引くものだ。

なお、同じ時期の熱海は、新婚旅行の人気地でもあった。昭和30年代には白いドレスに白いスーツケースのカップルが目立ち、東海道新幹線が開業した1964年以降の昭和40年代には、団体旅行の誘致で宿泊者が年間450万人を超えたとWikipediaは記している。

熱海の花街・熱海芸妓の歴史年表(1604年の家康の湯治から昭和30〜40年代の最盛期まで)
熱海芸妓の歴史を、本文の年号だけで整理した年表。

最盛期の熱海芸妓|1,000人を超えた昭和30〜40年代

熱海芸妓置屋連合組合の元組合長は、観光客でにぎわった昭和30〜40年代には1,000人以上の芸妓がいたと語っている。ほかの資料でも、最盛期には置屋が200軒を超え、1軒で40人もの芸妓を抱える置屋があったと紹介されている。当時の熱海は、日本で最も芸妓の多い見番だったことになる。団体の宴会、慰安旅行、新婚旅行といった昭和の旅の文化が、この規模を支えていた。

だが、バブル崩壊後に企業の保養所や団体旅行が衰えると、客は減った。1990年代前半の伊東沖の群発地震も追い打ちとなり、熱海は2006年に市が財政危機を宣言するまでに落ち込んだと、Wikipediaは整理している。芸妓の数もそれに合わせて減り、2014年の組合長の話では、芸妓は150人弱、置屋は67〜68軒になっていた。

熱海の花街の今|見番と公開された稽古場

それでも熱海は、いまも「全国屈指の芸者街」と呼ばれる。熱海芸妓見番の公式サイトは、現在の熱海に置屋が約50軒、芸妓が約100人いると紹介している(観光サイトでは置屋を約40軒とする記述もあり、数え方で幅がある)。熱海市は、熱海芸妓を熱海の代表的な文化と位置づけ、国内外に発信している。

見番は、熱海市中央町の初川沿いに建つ。熱海芸妓見番歌舞練場として、芸妓の稽古場であると同時に、観光客に開かれた文化の場でもある。1990年(平成2年)には、見番の新館の落成を機に「熱海をどり」が始まり、毎年4月28日と29日に開かれる。日程は、見番の建物が完成した日を記念して決められたと紹介されている。1998年(平成10年)6月からは、見番を公開して芸妓の踊りを披露する「湯めまちをどり華の舞」も続いている。一人前になるには最低10年かかるといい、東京から来る師匠に常磐津、長唄、鳴物、小唄、踊りなどを学ぶと、組合長が語っている。

組合は毎年4月20日、使い古した三味線や扇子、糸、撥などを焚き上げて供養する「撥扇塚供養祭」を行い、芸事の精進を祈願している。芸を受け継ぐための行事が、見番の暦に組み込まれている。

熱海を詠んだ文学

熱海は文学の舞台にもなった。尾崎紅葉『金色夜叉』のほか、永井荷風の『冬の日』、林芙美子の『うず潮』などが熱海を描いたとWikipediaは紹介している。海岸に立つ貫一とお宮の像は、いまも観光名所になっている。こうした作品が、熱海を「温泉と恋の町」として全国に印象づけた面があるとみられる。

まとめ

熱海の花街は、遊廓ではなく、湯治場から保養地、観光地へと育った温泉町に根づいた芸妓の文化だ。1877年(明治10年)の遊芸師に始まり、1932年に熱海芸妓組合ができて「芸妓」と呼ばれるようになった。1950年の熱海大火を越え、1954年に見番が落成し、昭和30〜40年代に芸妓1,000人超の最盛期を迎えた。いまは約100人に減ったものの、見番の公開や「熱海をどり」で、伝統は受け継がれている。ほかの地域の花街や遊廓は、中部・北陸の遊郭跡や日本の遊廓の成り立ちと全国一覧の記事も参照してほしい。

よくある質問

Q. 熱海芸妓はいつから始まったのですか?
A. 組合の沿革では、1877年(明治10年)に遊芸師の阪東三代吉が熱海の浜町で宿の客に稽古を付けたことが起源とされる。芸妓と呼ばれるようになったのは、1932年(昭和7年)の熱海芸妓組合の設立以降だ。

Q. 熱海に遊廓はありましたか?
A. この記事で確認できたのは、宿と宴席を軸にした芸妓の文化だ。公認遊廓に関する資料は今回の調査では確認できなかった。昭和初期にはカフェーが多かったとされる。

Q. 見番とは何ですか?
A. 置屋(芸妓が所属する所)の組合のことで、芸妓の稽古場も兼ねる。熱海芸妓見番歌舞練場は1954年(昭和29年)に落成した。

Q. 最盛期の芸妓はどれくらいいましたか?
A. 組合の元組合長によれば、昭和30〜40年代に1,000人以上。置屋は200軒を超えたとされる。

Q. 熱海大火はどんな被害でしたか?
A. 1950年4月13日の大火で約14万1,900平方メートルを焼き、約1,500棟が焼失した。死者はなかったが979人が重軽傷を負った。

Q. いまの芸妓は何人くらいですか?
A. 見番の公式サイトは約100人と紹介している。2014年には150人弱という組合長の話があり、減少が続いてきた。

参考にした資料

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