コザ(沖縄市)の特飲街とは?八重島・照屋など基地の街の歴史と今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。

コザは、現在の沖縄市の中心部を指す通称で、1956年から1974年までは「コザ市」という市名でもあった。嘉手納基地の第二ゲート前に発達した基地の街で、米軍統治下の沖縄では、本土の赤線とは異なる仕組みで、米軍関係者向けの歓楽街や特殊飲食店街(特飲街)が形づくられた。この記事では特定の店や利用方法には触れず、八重島、照屋、センター通りといった地区がどのように生まれ、なぜ姿を変えたのかを、研究論文や自治体の年表など確認できた範囲の資料で整理する。

コザの特飲街の歴史

コザ市は1956〜1974年1950年に最初の歓楽街「八重島」オフリミッツとAサイン照屋とセンター通りで客層が分かれる沖縄の売春防止法は1970年に立法1970年のコザ騒動と米兵の減少
目次

コザとは|地名と基地の街の成り立ち

もともとコザ一帯は越来村(ごえくそん)といい、戦前は畑の多い農村だった。1945年4月に沖縄本島へ上陸した米軍は、字嘉間良一帯に宣撫隊の本部を、字胡屋に野戦病院や物資集積所を置き、この一帯を「キャンプ・コザ」と呼んだ。そこに難民収容所も開かれ、同年9月には一時的に「胡差市(こざし)」になったが、翌1946年4月に越来村へ戻っている。「コザ」という名は、隣の美里村の古謝(こじゃ)と、越来村の胡屋(ごや)が混同されたからだという説と、占領時に英語表記を読み誤ったという説がある。

1950年代には広大な土地が基地として接収され、1956年6月13日に村名をコザ村へ改め、7月1日に市制を施行してコザ市となった。人口は1950年の約1万8千人から1970年の約5万9千人へと急増している。研究によると、コザ市の面積約24平方キロメートルのうち約67%が米軍用地に接収され、残った土地に過密な市街地が形づくられた。理髪店、洋服店、飲食店、ホテルなど、市の経済はほとんどが基地に頼る構造になり、復帰当時には経済の80%以上を基地に依存していたと報じられている。

1945年5月、コザに設けられた米軍の野戦病院のテント
米海兵隊が1945年5月15日に撮影した「コザのG-6区第61病院」(沖縄県公文書館所蔵)。終戦前後にコザ一帯が米軍の拠点として使われたことを伝える一枚で、本文の胡屋の野戦病院と同一とは限らない。
U.S. Marines (米海兵隊) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

最初の歓楽街「八重島」|1950年の誕生

コザに全島で初めての歓楽街が生まれたのは、1950年(昭和25年)8月1日のことだった。場所は越来村八重島で、米軍関係者は「ニュー・コザ(New Koza)」と呼び、地元では「裏町」とも言った。地元紙は1951年6月、110戸のうち74軒が料理屋の営業免許を取って正規に営業し、女性は200名余で、毎週病院で健康診断を受けていると報じている。形のうえでは「料理屋(料亭)の町」だったが、研究者は、飲食を建前とした管理売春の店で、本土の「特殊飲食店」に近い業態だったとみている。のちに「特飲街」とも呼ばれるようになった。

立地にも特徴があった。八重島は、市街地の中心から離れた三方を丘に囲まれた細長い谷(南北約200メートル、幅約50メートル)に、米軍が開いたとみられる道を軸にして計画的に造られた。近代日本の遊廓が、遠くから見える高台を避けて置かれたのとは対照的な選び方だ。背景として、戦争で父や夫を失い生活に困った女性が基地の近くで街頭に立つようになったこと、米兵による性犯罪を恐れた地域住民が米軍側と話し合ったことが挙げられているが、これを裏づける公的資料は確認できなかった。八重島が範型となり、同じころ小禄村の「新辻」(1951年)、宜野湾村真栄原の「新町」(1951年)、浦添村城間の「泉町」(1953年)、勝連村の「松島」など、米軍基地ごとに同種の街が各地にできていった。

オフリミッツと「Aサイン」|米軍が営業を左右した

米軍統治下の沖縄では、本土のように警察や条例ではなく、米軍の命令が歓楽街の運命を左右した。性病の蔓延などを理由に、軍人・軍属の立ち入りを禁じる「オフリミッツ」が度々出されたからだ。主な客を失った店は閑古鳥が鳴き、地域経済は大きな打撃を受けた。

1953年3月29日には全島にオフリミッツが出された。解除の条件として、軍と中部地区の村長らは、各村が一定の地域を「特殊地域」に指定し、その区域だけを立ち入り禁止にする方針をまとめた。越来村では、八重島とは別に、農家と畑ばかりの嘉間良(かま原)一帯が軍立ち会いのもとで「赤線地帯」に定められている。実際にはそこに業者はおらず、研究では、すでにある歓楽街に「協定に違反すれば永久にオフリミッツ」という圧力をかけ、売春を抑えさせる狙いがあったとみている。6月1日に協定書が調印され、4日に解除された。同年11月11日には、米軍が軍の許可証(Aサイン)のない飲食店への立ち入りを禁止し、沖縄で初めてAサインが発行された。「A」は「承認(Approved)」の頭文字で、以後はAサインを取った店だけが米軍関係者を客にできた。

1954年7月8日には、越来村が再びオフリミッツとなった。11月18日の軍民会議で、八重島を「モデル(テスト)ケース」として解除することが決まり、業者は料理屋から健全なバーやレストランなどへの転業を求められた。店内に女性の寝室を設けない構造への改築が条件とされ、113軒あった特飲店は、1955年7月には57軒に半減している。1956年2月にAサインの基準がさらに厳しくなっても、67軒のうち62軒が許可を得て営業を続けたが、八重島の勢いはもう戻らなかった。

照屋とセンター通り|人種で分かれた歓楽街

コザの市街地は国道330号(旧軍道24号)に沿って、胡屋十字路やコザ十字路を中心とする商業地区に分かれ、1950年代初めの基地建設とともに形成された。そのなかで特徴的だったのは、白人兵が遊興する街と、黒人兵が遊興する街が、はっきり分かれていたことだ。1948年に米軍内の人種別編成は廃止されたが、基地の外では白人兵と黒人兵の衝突が絶えず、勢力争いの結果、街ごとに客層が分かれたと語られている。

黒人兵の街が「照屋」だ。戦後まもなく米兵相手の商売が始まり、1950年代なかばには黒人の街として定着した。軍道13号(新橋通り)の沿線には1950年代後半から米兵を相手にする人々が各地から移り住んだ記録があり、1970年8月の事業所基本調査から復元すると、飲食店48件のうち46件が外国人客100%で、洋服の仕立店が50件、靴店が13件、理容店が19件あった。バーやホテルに加え、おしゃれを重視する客層に合わせたファッション関連の店が集まっていたのが特色だ。米空軍の1972年の報告書は、この一帯を「ブッシュ」と呼び、黒人兵が自ら選んだ人種分離の所産だと記している。

一方、胡屋のセンター通りやゲート通りは「白人街」と通称された。センター通りには1970年8月時点でクラブ・バーが58件あり、1件を除いてすべてが外国人客を相手にした。最も古いクラブの開業は1956年で、集積が一気に進んだのはベトナム戦争の軍事介入が大規模化した1960年代後半だ。ただし、聞き取りでは「客はすべて白人だったか」と問われて「そうでもなかった」と答える証言もあり、色分けは厳密ではなかったとされる。八重島は、この中心街が育つにつれて「裏町」の位置づけになり、店の一部はセンター通りへ移っていった。

コザと売春防止法|本土との時差

本土では1956年に売春防止法が公布され、1958年に赤線・青線が終わった。ところが米軍統治下の沖縄には、この法律は適用されなかった。沖縄で売春防止法に当たる法律が琉球政府の立法として制定されたのは、本土復帰に先立つ1970年7月10日のことで、刑事処分は1972年7月1日から施行とされた。琉球新報の用語解説も、沖縄では1970年に一部施行、復帰の年の1972年に完全施行されたと説明している。

つまり、コザの特飲街が最盛期を迎えた1950〜60年代は、法の面では本土と異なる空白のなかにあった。そこで実際に歓楽街を縛っていたのは、法律ではなく米軍のオフリミッツとAサインの基準であり、研究者は、これが売春を直接取り締まらずに需要を抑える仕組みとして働き、業者に建物や業態の改変を迫ったと分析している。こうした街の呼び名の違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。

コザの特飲街を年表で見る

年出来事
1945年4月沖縄戦で上陸した米軍が、嘉間良に宣撫隊本部、胡屋に野戦病院などを置き「キャンプ・コザ」と呼ぶ
1950年8月1日越来村八重島に、全島で最初の歓楽街が誕生
1951年小禄村の新辻、宜野湾村真栄原の新町など、基地ごとに同種の街が生まれる
1953年3月29日全島オフリミッツ。解除の条件として「赤線地帯」を設定(6月4日解除)
1953年11月11日軍の許可証「Aサイン」が沖縄で初めて発行される
1954年11月八重島を「モデルケース」としてオフリミッツ解除。業者は転業へ
1956年7月1日コザ市が誕生。2月にはAサインの基準が厳格化
1960年代ベトナム戦争で米兵が増え、照屋やセンター通りが最盛期を迎える
1969年8月30日照屋で、米軍の捜査員の発砲をきっかけに黒人兵が暴動を起こす
1970年7月10日琉球政府が売春防止法を制定(刑事処分は1972年7月1日から)
1970年12月20日コザ騒動。米軍関係車両82台が炎上
1973年米軍のベトナム撤退で米兵が激減し、歓楽街が衰退
1974年4月1日コザ市と美里村が合併して沖縄市に
コザの特飲街の歴史年表(1945年のキャンプ・コザから1974年の沖縄市誕生まで)
コザの特飲街の歴史を、本文の年号だけで整理した年表。

衰退と事件|八重島の終わり、1970年のコザ騒動

八重島は、早くも1950年代末には衰退に向かった。営業軒数は1959年3月に54軒、1961年に40軒、新基準のAサインが始まった1963年8月には30軒に減り、翌1964年にはAサインで営業できたのが15軒だけになった。ベトナム戦争で他の歓楽街がにぎわった1969年7月には、Aサインを持つ店はわずか5軒で、地元紙は1971年3月に「廃虚と化した」と評した。研究者は、衰退の要因として、オフリミッツと基準厳格化による改築の負担、そして中心部から離れた立地を挙げている。

1969年8月30日には、照屋で、麻薬捜査に来た米軍の白人捜査員の発砲に怒った黒人兵約350人が憲兵の車2台を燃やす騒ぎが起きた。そして1970年12月20日未明、米兵の交通事故をきっかけに、コザ市の胡屋十字路付近で住民が米軍関係の車両を次々に焼く「コザ騒動(コザ暴動)」が起きた。沖縄市の戦後年表は、米軍車両82台が炎上し、20〜30日までオフリミッツが出されたと記録している。背景には、米軍人・軍属の事件を琉球警察が捜査できないという不平等な制度への長年の不満があったとされる。

1973年にアメリカがベトナムから撤退すると、コザの米兵は激減し、歓楽街は一気に衰退する。1974年4月1日にコザ市は美里村と合併して沖縄市となり、「コザ市」という市名は消えた。

コザ騒動の数時間後、焼けた車のそばを歩く米軍兵士(1970年12月20日)
コザ騒動の数時間後(1970年12月20日)、焼け焦げた車のそばを歩く米軍兵士。米軍関係の車両が焼かれた現場の記録。
Larry Gray (米軍人・米国政府職員) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
コザ騒動の数時間後、被害を見つめる沖縄の警察官(1970年12月20日)
コザ騒動の数時間後、路上で被害の跡を見つめる沖縄の警察官(1970年12月20日)。背後に焼けた車が並ぶ。
Larry Gray (米軍人・米国政府職員) / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

今の姿|名前だけが残る街

コザ発祥の地とされる嘉間良は、沖縄市の説明では、いまは静かな住宅街になっており、かつては官公庁が集まるコザ地区の「首都」だったという。八重島については、研究論文が「機能も景観も失われ、場所の記憶さえ薄れている」と書いている。照屋は、2017年1月に訪れた筆者が、商店街のほとんどが閉まったままだったと記している。かつての賑わいは、建物のつくりから想像するしかない状態だという。

一方で、合併後も沖縄市の中心部は「コザ」と呼ばれ、店や学校の名にその名が残っている。基地の街としての歴史は、いまも街の呼び名と記憶のなかに続いている。ここで取り上げたのは歴史の概要で、現在の個別の店や営業状況については触れていない。

まとめ

コザの特飲街は、1950年の八重島を出発点に、米軍の命令と許可制度(オフリミッツとAサイン)のもとで形を変えながら、照屋やセンター通りといった人種別の歓楽街へ広がった。沖縄で売春防止法が立法されたのは本土復帰直前の1970年で、それ以前の街は米軍の基準に縛られていた。ベトナム戦争の終結と1974年の市の合併を経て、街の姿は大きく変わり、いまは呼び名と記憶が残る。九州・沖縄の旧遊廓や色街の全体像は九州・沖縄の遊郭跡でまとめている。

よくある質問

Q. コザ市はいつからいつまで存在しましたか?
A. 1956年7月1日に市制を施行し、1974年4月1日に美里村と合併して沖縄市になるまで存在した。日本で唯一のカタカナ表記の市名だった。

Q. 八重島の特飲街とは何ですか?
A. 1950年8月1日に越来村八重島で始まった、全島で最初の歓楽街。料理屋の形をとり、のちに「特飲街」とも呼ばれた。米軍関係者は「ニュー・コザ」と呼んだ。

Q. 「Aサイン」とは何ですか?
A. 米軍が、軍人・軍属の立ち入りを許可した飲食店に出した証票。「承認(Approved)」の頭文字で、1953年11月に沖縄で初めて発行された。

Q. 沖縄で売春防止法はいつ施行されましたか?
A. 琉球政府が1970年7月10日に立法し、刑事処分は1972年7月1日から施行とされた。本土の1958年より10年以上遅れている。

Q. 照屋の「黒人街」とは何ですか?
A. 黒人兵が余暇に集まった歓楽街の通称。白人兵が集まったセンター通りやゲート通りと分かれていた。ただし色分けは厳密ではなかったとされる。

Q. コザ騒動とは何ですか?
A. 1970年12月20日未明、米兵の交通事故をきっかけに、コザ市で住民が米軍車両を焼いた事件。沖縄市の年表は、米軍車両82台が炎上したと記録している。

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