京都の旧遊廓・花街跡とは?島原・五条楽園・祇園を歩く歴史と今

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

京都は、日本の遊廓の歴史と、芸妓・舞妓の花街の文化が、同じ町の中で重なってきた土地だ。島原のように遊廓として生まれ、いまは建物と太夫文化だけが残る町がある。五条楽園のように2010〜11年に姿を消した町もある。祇園甲部や先斗町のように、観光地として人が絶えない現役の花街もある。この記事では、京都の旧遊廓・花街跡について、島原・五条楽園・橋本を中心に、祇園・先斗町・宮川町など現存する花街の見られる範囲も含めて、街歩きの順路と見どころを整理した。店や営業の案内はしない。花街と遊廓の違いは花街と遊郭の違いの記事に、近畿全体の一覧は近畿の遊郭跡にまとめてあるので、ここでは「歩く順に何が見えるか」と「いまの町でのふるまい」に重心を置く。

京都の旧遊廓・花街を歩く

島原は角屋(重要文化財)と島原大門が核五条楽園は2011年に解散した旧遊廓・旧花街橋本は旧妓楼が旅館などに生まれ変わった町祇園・先斗町・宮川町は現役の花街として見る私道や路地では撮影と立ち入りに配慮が要る
目次

京都の花街と遊廓|歩く前に整理しておきたい基礎知識

京都市の資料では、現在の京都花街組合連合会に加盟する花街は、祇園甲部・宮川町・先斗町・上七軒・祇園東の「五花街」で、島原も独自の文化を今に伝える花街の一つとされる。2014年3月には、京都市が「京・花街の文化」を「京都をつなぐ無形文化遺産」に選んだ。花街は芸妓や舞妓が宴席で舞や唄を披露する町で、娼妓がいた遊廓とは制度が違う。ただ、京都では二つが混ざる時期があった。宮川町は明治・大正期から1958年の売春防止法の施行まで遊廓であったとされ、祇園東は祇園甲部から1881年に分かれた「祇園乙部」と呼ばれた時期がある。区別のしかたは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いに整理してある。

この違いを知っておくと、歩くときの距離感が変わる。島原や五条楽園は「跡」を見る町で、祇園甲部や先斗町は「いま営業している町」を外から見る場所だ。後者では、見学のつもりでも、地元の生活と営業に入り込む形になる。

京都の旧遊廓・花街の年表

年出来事
1589年京都で二条柳町が秀吉の許可を得て開かれる(のち六条三筋町を経て島原へ)
1641年島原へ移転を命じられ、「島原」と呼ばれる
1670年鴨川の護岸工事で州が埋め立てられ、のちの先斗町の土地ができる
1732年祇園で茶屋渡世の営業許可が正式に下りる
1851年島原で大火。揚屋町以外をほぼ焼き、衰える
1857年輪違屋の現在の建物が再建される
1873年島原に歌舞練場が開設される
1881年祇園甲部から祇園乙部(のちの祇園東)が分かれる
1927年先斗町歌舞練場が完成する
1952年角屋が国の重要文化財に指定される
1958年売春防止法の全面施行。京都の遊廓・赤線が廃止される
1976年島原が京都花街組合連合会を脱会する。祇園新橋が重要伝統的建造物群保存地区に選定される
2010〜11年五条楽園の茶屋と置屋が一斉に休業し、2011年3月に解散する
1589年の二条柳町から、島原への移転、島原の大火、角屋の重要文化財指定、売春防止法の全面施行、島原の花街組合脱会、五条楽園の解散(2010〜11年)までを並べた京都の旧遊廓・花街の年表
京都の旧遊廓・花街の年表(年号は資料により前後する場合があります)

島原を歩く|丹波口駅から大門、角屋、輪違屋へ

島原(京都市下京区西新屋敷)は、京都で最も古い花街とされる。足利義満が許した傾城町を始まりとする説と、1589年の二条柳町を起点とする説があり、六条三筋町を経て、1641年に朱雀野付近へ移された。移転の騒ぎが島原の乱に似ていたため「島原」と呼ばれたという説もあるが、由来には諸説ある。正式な町名は西新屋敷だ。京都駅から山陰本線で2駅のJR丹波口駅が起点になる。角屋へはJR丹波口駅または梅小路京都西駅から徒歩7分ほどと案内されている。

1. 島原大門

花屋町通沿いの島原大門は、東の玄関にあたる高麗門で、京都市の登録文化財になっている。現在の門は1867年(慶応3年)の建立とされる。門の周辺には「出口の柳」や「思案橋」といった名が伝わる。大門から続く石畳風の道には、歌や俳句を刻んだ文芸碑が並び、町の風情を伝える。島原の客には公家が多く、和歌や俳諧、囲碁・双六にも通じた太夫がいたと、京都市の資料にある。

2. 角屋|唯一現存する揚屋建築

角屋は、宴席を提供した「揚屋」の建物がそのまま残る唯一の例で、1952年に国の重要文化財に指定され、1998年から「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。木造2階建て、間口は約31.5mの格子造で、古い部分は1641年ごろとみられる。座敷には、天井に扇面を貼った2階の「扇の間」や、青貝を埋め込んだ壁の「青貝の間」がある。庭園は2010年に京都市指定名勝になった。1863年6月に新選組の芹沢鴨が角屋で起こした騒ぎの刀傷も残るとされる。公開範囲は1階が中心で、2階座敷の見学は予約が必要とされてきたが、公開期間や条件は年によって変わるため、行く前に公式の案内を確かめたい。

3. 輪違屋|外から静かに眺める

輪違屋は1688年(元禄元年)創業の置屋で、1872年からお茶屋を兼ねる。現在の建物は1857年に再建され、1871年にほぼ今の姿になった。1984年に京都市指定有形文化財(建造物)になり、いまも営業を続けている。表には「観覧謝絶」の札が掲げられ、いわゆる一見さんお断りの店で、一般の見学は受けつけない。京都市の資料によれば、現在の島原でお茶屋の営業を続けているのは輪違屋のみで、太夫は数人にとどまる。外観を眺める場合も、玄関先で立ち止まらず、短い時間で通り過ぎるのが礼儀だ。

島原の太夫は、社寺の行事にも参加する。4月第2日曜日の吉野太夫花供養(常照寺)や、11月第2日曜日の夕霧供養(清凉寺)では、太夫道中が行われる。ただし日程は年によって変わりうる。島原の歌舞練場は1873年に開かれたが、1976年に島原は京都花街組合連合会を脱会し、昭和後期にお茶屋組合が解散して、町は住宅地へ移っていった。

門の前で踊る女性たちと、水桶を載せた台を描いた、島原の出口の柳の浮世絵
広重筆「京都名所之内 嶋原出口之柳」(メトロポリタン美術館蔵)。島原の出口にあった柳を描く
撮影・作者: Utagawa Hiroshige / CC0 1.0 / Wikimedia Commons
瓦屋根の島原大門と、門の脇に立つ石碑
島原大門(2017年2月撮影)。花屋町通に面する東の玄関にあたる高麗門で、京都市の登録文化財
撮影・作者: KeraKera55 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
格子と欄干が連なる木造2階建ての角屋の外観
角屋の外観(2017年2月撮影)。宴席を提供した揚屋の建物がそのまま残る唯一の例で、国の重要文化財
撮影・作者: KeraKera55 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

五条楽園を歩く|清水五条駅から鴨川沿いへ

五条楽園(京都市下京区、河原町五条の南東)は、江戸中期に鴨川沿いの畑を開いて煮売り茶屋を出したのが始まりとされる七条新地で、大正期に近くの町が合わさって、長く七条新地の名で親しまれた。戦後は赤線になり、1958年の売春防止法の施行を機に「五条楽園」と名を改めた。当時はお茶屋84軒、置屋16軒、旅館15軒、飲み屋19軒に、芸妓が約100人いたと紹介される。

終わりは突然だった。2010年10月、客引きをめぐる問題で警察が売春防止法違反で関係者を摘発し、10月28日にお茶屋と置屋が一斉に休業した。11月に看板が外され、2011年3月に組合は解散した。終わりを2010年とするか2011年とするかは資料で分かれる。

起点は京阪の清水五条駅で、そこから鴨川沿いに南東へ歩く。いまは住宅地と、観光客向けの宿泊施設が混じる町だ。20世紀初めに建った京町家が残り、唐破風の屋根をもつ建物が目を引く。特定の建物を目当てにせず、全体の街並みを外から眺める姿勢で十分だ。住民の暮らしの場なので、玄関先の撮影や、路地に入り込んでの見学は控える。

橋本を歩く|京阪橋本駅で旧妓楼の転用を見る

橋本(京都府八幡市橋本)は、淀川南岸の京街道の宿場で、鳥羽・伏見の戦いや鉄道の路線から外れたことで衰えた遊里が、明治に再興された。1910年の京阪本線の開通で客が増え、最盛期の1937年ごろは貸座敷約90軒・娼妓約600人とされる。1958年の売春防止法で遊廓は消え、妓楼の多くはアパート、旅館、料亭などに転業した。

歩く起点は京阪の橋本駅。旧妓楼の建物は、旅館や茶房に再利用された例がある。旧三桝楼は大規模な改修を経て2020年に旅館に、築約120年とされる旧第二友栄楼は2021年に中国茶のカフェになった。1937年に遊里の再興を記念して建てられた碑は、2020年の駅前整備に伴って移された。地元では負の側面を含めて歴史を伝える街歩きも行われている。参加するなら、主催者の案内に従うのがよい。

現役の花街を外から見る|祇園・先斗町・宮川町・上七軒

ここからは「跡」ではなく、いま続く花街だ。五花街は、それぞれ歌舞練場をもち、春と秋に踊りを上演する。祇園甲部は八坂神社の門前町として栄え、寛永年間(1624〜45年)に門前の水茶屋が始まり、1732年(享保17年)に茶屋渡世の営業許可が下りた。春の「都をどり」の舞台は祇園甲部歌舞練場だ。祇園新橋は、元治2年(1865年)の大火のあとに建った茶屋が並ぶ町並みで、1976年に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。切妻・桟瓦葺の平入2階建てで、1階は紅殻格子、2階は座敷という典型的なお茶屋建築である。

先斗町は、1670年(寛文10年)の護岸工事で鴨川の州が埋め立てられた土地に成立し、約500mの石畳の通りに、お茶屋や料亭が並ぶ。先斗町歌舞練場は1927年に完成した。春の「鴨川をどり」が知られ、2021年には無電柱化が完了している。宮川町は四条通の南から五条通までの町で、17世紀前期に始まるとされ、春に「京おどり」を上演する。歌舞練場は改修を経て、2025年5月に新装開場した。上七軒は北野天満宮の東にある室町時代からの茶屋町で、春は「北野をどり」。祇園東は祇園会館を拠点に、秋に「祇園をどり」が開かれる。

こうした花街は、遊廓の跡ではないが、五条楽園や島原と同じ京都の「色街」の文化史の中にある。京都市は2014年に、この文化を「京都をつなぐ無形文化遺産」に選んでいる。見学は、昼間に通りを外から眺め、歌舞練場の外観や、春・秋の公演を観る程度が現実的だ。

歩くときの注意|撮影・マナー・住民への配慮

京都の花街・旧遊廓を歩く心得

1. 祇園の私道には入らない。2024年の報道では、祇園南側地区協議会が私道に「通り抜けできません」とする看板を設ける予定だと伝えられ、私道での撮影を禁じる高札も報じられた。法的な効力は別として、地元が求めている配慮であり、従うのが基本だ。なお花見小路は公道だが、石畳のため私道と見分けにくい。

2. 舞妓・芸妓を追いかけない。ツアー客が狭い路地に集まり、仕事に向かう人を撮影する問題が、報道で繰り返し指摘されてきた。撮影は本人の許可を得てからにする。

3. 島原の輪違屋のように「観覧謝絶」の建物は、外観を短く眺めるだけにとどめる。玄関先での撮影や声かけはしない。

4. 五条楽園・橋本のように、住宅地や宿泊施設になった旧遊廓では、玄関先や建物の中をのぞき込まない。

5. 夕方以降は避ける。花街は夕刻から営業の時間で、見学の客が通ると仕事の妨げになる。

ほかの京都の遊廓跡|短く押さえておく町

京都にはほかにも、旧遊廓・花街がある。五番町(上京区)は北野天満宮の参拝客向けの煮売茶屋から始まり、1958年に廃止された。水上勉『五番町夕霧楼』の舞台として知られ、いまは住宅地だ。中書島(伏見区)は水運で栄えた遊廓兼花街で、現在は商店街や住宅地になっている。撞木町(伏見区)は忠臣蔵ゆかりの伝承が残る小さな遊廓で、記念碑と門柱、祠が残るだけとされる。二条新地(左京区)は、北に第三高等学校(のちの京都大学)が建つため風紀上好ましくないとされ、1887年に廃止された。いずれも近畿の遊郭跡で位置と歴史を整理している。

京都の旧遊廓・花街|見どころ一覧

場所起点の駅見どころ今の性格
島原JR丹波口駅島原大門(市登録文化財)、角屋(重要文化財)、輪違屋の外観住宅地。花街文化が一部で継承
五条楽園京阪清水五条駅昭和初期の京町家、唐破風の屋根住宅・宿泊施設
橋本京阪橋本駅旧妓楼の転用建築、再興記念碑住宅地・商店街
祇園新橋京阪祇園四条駅など重伝建の茶屋町並み現役の花街
先斗町京阪祇園四条駅など石畳の路地、歌舞練場(1927年)現役の花街
宮川町京阪祇園四条駅など歌舞練場(2025年新装)現役の花街

まとめ

京都の旧遊廓・花街跡を歩くと、島原では建築と太夫文化、五条楽園では住宅地に混じる町家、橋本では旧妓楼の転用と、「跡」の残り方が違うことが分かる。祇園・先斗町・宮川町は、遊廓ではなく花街として今も営業が続き、見る側の振る舞いが問われる。島原は角屋と大門を中心に昼間に歩き、輪違屋は外から静かに眺める。五条楽園は住宅地として扱い、祇園の私道には入らない。この三点だけでも、歴史を見るつもりで町に迷惑をかけてしまうことは避けられる。全国の流れは日本の遊廓とは?成り立ちと全国の主な遊廓一覧にまとめてある。

よくある質問

Q. 京都で旧遊廓の建物が見られるのはどこですか?
A. 島原の角屋が揚屋建築の唯一の遺構で、国の重要文化財。公開は1階が中心で、2階は予約が必要とされてきた。輪違屋は営業中で一般の見学は受けつけない。

Q. 島原はいまも花街ですか?
A. 京都市の資料では、島原は京都の花街の一つで、太夫文化を継ぐ。ただしお茶屋の営業を続けているのは輪違屋のみで、太夫は数人にとどまる。

Q. 五条楽園はなぜなくなったのですか?
A. 2010年10月に関係者が摘発され、茶屋と置屋が一斉に休業し、2011年3月に組合が解散した。終わりを2010年とするか2011年とするかは資料で分かれる。

Q. 祇園や先斗町は遊廓の跡ですか?
A. 祇園甲部や先斗町は、芸妓・舞妓が宴席で舞や唄を披露する花街で、遊廓とは別だ。ただし宮川町は1958年まで遊廓であったとされ、祇園東は祇園乙部と呼ばれた時期がある。違いは花街と遊郭の違いを参照。

Q. 祇園で撮影してはいけない場所はありますか?
A. 私道では通り抜けや撮影を控えるよう、地元協議会が求めていると報じられた。花見小路は公道だが石畳で見分けにくい。人物の撮影は本人の許可を得る。

Q. 1958年に何が起きたのですか?
A. 売春防止法の全面施行で遊廓・赤線が廃止された。経緯は売春防止法の歴史にある。

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画像の出典

  • 写真: Utagawa Hiroshige 撮影(CC0 1.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: KeraKera55 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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