信太山新地とは?歴史・場所・成り立ちを旧遊廓との違いから解説

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。信太山新地については公開されている一次資料が少ないため、確認できた範囲と、出典によって説明が分かれる点を分けて書いています。

信太山新地は、大阪府和泉市の信太山(しのだやま)の丘陵のふもとにある、戦後に成立した新地だ。大阪の新地というと、大正期に計画的につくられた飛田や、明治に開かれた松島を思い浮かべる人が多いが、信太山の成り立ちはこれらとは違う。この記事では営業の様子や利用には触れず、土地の歴史、陸軍との関わり、戦後の成立、売春防止法のあとの動きを、確認できた範囲で整理する。

信太山新地の歴史の要点

戦前の公認遊廓ではない陸軍の「軍の町」だった信太山戦後の青線として成立開廓は1952年ごろと伝わる1958年の売春防止法で業態が転換
目次

信太山新地とは|戦後に生まれた新地

結論を先に書く。確認できた資料の範囲では、信太山に戦前から公認の遊廓(貸座敷の営業地)があったとは言えない。戦前には、軍隊の周りに兵士を相手にする私娼の業者が十軒ほどできたという記録があるが、それは終戦とともに消えたとされ、いまの新地とは別の場所に散らばっていたとみられている。いまの新地につながるのは、戦後の1950年代に、散らばっていた業者を一か所にまとめる動きのなかで生まれた区画で、その成立は1952年(昭和27年)と伝えられている。旧遊廓の跡というより、戦後の青線から出発した新地、と整理するのが正確だ。

地名は「信太山新地」で通っているが、正式には「信太山新開地」と呼ばれたとされる。新開地は、新しく開いた土地という意味の言葉だ。新地、遊廓、遊里、色街といった言葉の違いは、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いの記事で整理している。

信太山という土地|台地・古墳・陸軍の演習場

信太山は、和泉市の北東部に広がる標高50〜80メートルほどの洪積台地だ。台地の北西のふもとには、葛の葉の狐の伝説で知られる信太の森があり、一帯には信太千塚古墳群と呼ばれる古墳が多い。和泉黄金塚古墳からは、景初三年(239年)の銘がある鏡が出土している。古くから人が暮らし、信仰と伝承が重なってきた土地である。

一方で、台地の上は農業に向かない土地とされ、明治以降は軍が射撃場などに使うようになり、大部分が陸軍の演習場になった。現在の陸上自衛隊信太山駐屯地や、住宅団地の鶴山台は、この演習場の跡にあたる。和泉市の信太の森ふるさと館が2025年に開いた特別展「軍隊と市民の暮らし-信太地域と戦争-」でも、いまの地域のあり方は陸軍演習場の歴史につながるものとして紹介された。

古い写真帖に収められた「信田の森(泉北郡信太村)」の石柱と鳥居
田山宗尭の写真帖(国立国会図書館デジタルコレクション)に収められた「信田の森(泉北郡信太村)」。石柱と鳥居が写る古い図版。
田山宗尭 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
和泉黄金塚古墳の墳丘
和泉黄金塚古墳の墳丘(2018年撮影)。信太山の台地一帯には、信太千塚古墳群と呼ばれる古墳が多い。
撮影・作者: Saigen Jiro / CC0 / Wikimedia Commons

1919年の移駐|野砲兵第四聯隊と「軍の町」

転機は大正8年(1919年)11月だ。大阪市東区の法円坂にいた陸軍野砲兵第四聯隊の第1大隊が信太山に移り、陸軍信太山駐屯地が開設された。以後、敗戦まで部隊が駐屯し、陸軍病院の分院なども置かれて、信太山は軍の町になったと紹介されている。

連隊のある町には、兵士を相手にする商売が集まるのが通例で、信太山もその例だった。大阪府の資料にもとづくとされる記述では、聯隊の設置に伴って兵隊を相手にする私娼の業者が十軒ほどでき、終戦とともに消滅したという。ただし、その場所は特定されておらず、聯隊の周辺に散らばっていたとされる。のちの新地へ直接つながる存在ではなかったようだ。

陸上自衛隊信太山駐屯地の正門
現在の陸上自衛隊信太山駐屯地の正門(2014年4月撮影)。駐屯地の開設は1957年9月で、本文のとおり、戦前は陸軍の演習場だった土地にあたる。
撮影・作者: Hunini / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

戦後の占領期|米軍の接収と青線のはじまり

1945年の敗戦後、信太山の旧陸軍の施設は占領軍に接収され、米軍が駐留した。1950年には米海兵隊の下士官養成学校としても使われている。接収が解かれ、陸上自衛隊信太山駐屯地として開設されたのは、1957年(昭和32年)9月2日だ。

この占領期の間に、いまの新地が生まれる。1946年1月のGHQの指令で公娼制度が廃止されると、戦前の遊廓の制度はなくなり、各地には警察が特殊飲食店として黙認した赤線と、ふつうの飲食店の許可だけで営業する青線が並ぶようになった。両者の違いは赤線・青線の記事で詳しく書いたが、信太山は後者だった。大阪府の資料にもとづくとされる説明では、1951年(昭和26年)ごろから、散らばっていた業者を一か所にまとめて赤線にしようという動きが始まった。しかし設備の不備などから正式な許可は出ないまま営業が始まり、既成事実として黙認される青線の扱いだったという。

開廓は1952年|航空写真と記念碑が示す時期

成立の年については、複数の手がかりが同じ時期を指している。まず、1946年(昭和21年)に撮られた航空写真では、現在の新地の場所には何もない。ところが1956年(昭和31年)の航空写真では、土地が開発されて建物が確認できる。次に、新地の入口にある「信太山新開地五十五周年記念碑」の裏面には、2007年(平成19年)と刻まれているとされる。そこから55年を引くと1952年になり、資料で開廓が昭和27年(1952年)と伝えられていることと重なる。

ただし、これは個人の調査によるまとめで、大阪府の元の資料そのものを確認したものではない。記念碑の年からの逆算も推定にとどまる。この記事では「1952年ごろと伝えられる」と書くにとどめる。

1958年の売春防止法とその後

1956年5月24日に公布された売春防止法は、1957年4月1日に一部が施行され、1958年(昭和33年)4月1日から罰則が適用されて完全施行となった(売春防止法の記事)。赤線は廃止され、青線もこの日を境に根拠のない存在になる。信太山でも、業者は「料理屋」や「旅館」に転業したとされる。この記事は、その後の営業の実態には立ち入らない。

信太山新地の年表

年出来事
1919年11月野砲兵第四聯隊の第1大隊が大阪・法円坂から移駐し、陸軍信太山駐屯地が開設される
戦前聯隊の周辺に私娼の業者が十軒ほどできる(大阪府の資料とされる)。終戦とともに消滅
1945年敗戦。旧陸軍の施設が占領軍に接収される
1946年GHQの指令で公娼制度が廃止される。この年の航空写真では新地の場所は空き地
1950年米海兵隊の下士官養成学校として使われる
1951年散在していた業者を一か所にまとめる動きが始まる(大阪府の資料とされる)
1952年ごろ信太山新開地の開廓と伝えられる
1956年航空写真で新地の建物が確認できる。5月24日に売春防止法が公布される
1957年4月1日に売春防止法が一部施行。9月2日に接収が解かれ、陸上自衛隊信太山駐屯地が開設される
1958年4月1日売春防止法の罰則が適用され、完全施行。業者は料理屋・旅館に転業したとされる
信太山新地の歴史年表(1919年の陸軍信太山駐屯地の開設から1958年の売春防止法の完全施行まで)
信太山新地の成り立ちを、本文の年号だけで整理した年表。

よく語られる二つの説を確かめる

「江戸時代の熊野参詣の精進落としが起源」という説

旅行ブログや案内サイトには、江戸時代に熊野参詣の「精進落とし」の遊里として栄えた、という説明が多い。しかし、その根拠になる史料を示した例は、確認できた範囲ではなかった。江戸時代の街道沿いに宿や茶屋があったことと、戦後に成立した現在の新地が直接つながるかどうかは、別に確かめる必要がある。この記事では、起源とは扱わない。

「自衛隊のために作られた」という説

自衛隊のために作られた新地だという話もある。だが、陸上自衛隊信太山駐屯地が開設されたのは1957年9月で、新地の開廓は1952年と伝えられる。この時期は米軍が駐留していた時期にあたり、順序が合わない。さらに、大阪府の資料にもとづく記述には、売春防止法の後の時期に「自衛隊員の出入は禁止されている」とあったとされる。一方で、旧陸軍の聯隊があった土地柄が、兵士相手の商売が集まりやすい素地になったという見方は成り立つ。

大阪の「新地」のなかの位置づけ

飛田、松島、今里、滝井、信太山は、大阪の五つの新地として並べて紹介されることが多い。しかし成り立ちは大きく違う。

名称成り立ち戦前の位置づけ戦後
飛田1918年に開廓式公認の遊廓赤線を経て1958年に転機
松島1868年に成立公認の遊廓1958年に消滅
今里新地1929年に一部が営業開始芸妓居住地(花街)一部が赤線に
信太山新地1952年ごろに開廓と伝わる公認なし(軍隊周辺の私娼のみ)青線として出発し、1958年に転業

同じ新地でも、戦前から続く公認遊廓、芸妓の花街、戦後に生まれた青線では、歴史の層がまったく違う。ほかの近畿の旧遊廓・色街との位置づけは近畿の遊郭跡の記事を、全国の主な遊廓は日本の遊廓の一覧を参照してほしい。

まとめ

信太山新地は、戦前の公認遊廓の跡ではなく、1919年の野砲兵第四聯隊の移駐で軍の町になった信太山に、戦後の占領期、1950年代はじめに生まれた新地だ。散らばっていた業者を一か所にまとめる動きのなかで、正式な許可のない青線として出発し、開廓は1952年ごろと伝えられる。1958年の売春防止法の完全施行で、業者は料理屋・旅館に転業したとされる。江戸時代の熊野参詣起源説や自衛隊のために作られた説は、確認できた範囲では裏づけが乏しい。公開資料が限られるため、今後の調査で見直される部分もありうる。

よくある質問

Q. 信太山新地はいつからある場所ですか?
A. 開廓は1952年(昭和27年)ごろと伝えられる。航空写真では1946年には空き地で、1956年には建物が確認できる。

Q. 戦前は遊廓だったのですか?
A. 公認の遊廓があったとは確認できない。戦前は、聯隊の周辺に兵士相手の私娼の業者が十軒ほどでき、終戦で消えたとされる。

Q. 陸軍とはどんな関係がありますか?
A. 1919年11月に野砲兵第四聯隊が移駐して軍の町になった。そのことが、のちの新地が生まれる土地柄の背景にあったと考えられるが、新地が軍の施設だったわけではない。

Q. 赤線ですか、青線ですか?
A. 大阪府の資料にもとづく説明では、正式な許可が出ないまま営業が始まり、黙認される青線の扱いだったとされる。

Q. 売春防止法のあとはどうなりましたか?
A. 1958年4月1日の完全施行後、業者は料理屋や旅館に転業したとされる。現在の営業の実態は、この記事の対象外とする。

Q. 新地と遊廓は同じ意味ですか?
A. 同じではない。遊廓は貸座敷の営業地として公に指定された区画を指し、新地は新しく開いた色街・花街を広く指す言葉だ(言葉の違いの記事)。

参考にした資料

  • Wikipedia「信太山」「信太山駐屯地」「青線」「売春防止法」「大阪の花街」(信太山、信太山駐屯地)
  • 和泉市 信太の森ふるさと館 夏季特別展「戦後八〇年記念 軍隊と市民の暮らし-信太地域と戦争-」(告知ページ)
  • 陸上自衛隊 信太山駐屯地 公式サイトの駐屯地紹介(旧陸軍野砲兵第四聯隊の移駐)
  • 八木澤高明「信太山新開地【信太山新地】」『遊郭・赤線跡をゆく』(個人サイト。大阪府の資料の引用、航空写真、記念碑の記述を含む。該当ページ)

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Saigen Jiro 撮影(CC0)/Wikimedia Commons
  • 写真: Hunini 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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