近畿の遊郭跡|島原・新町・飛田・五条楽園ほか旧遊廓の場所と今の姿を一覧で解説

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

近畿は、京都の島原と大阪の新町という二つの公許遊廓を生み、のちに松島・飛田・福原などの大規模な遊廓が加わった地域だ。この記事では、資料で確認できた21地点について、いつ・どこにでき、いつ終わり、今どうなっているのかを府県ごとにまとめる。店や営業を紹介する記事ではなく、跡地の歴史を整理するものだ。

近畿の旧遊廓・色街・花街

京都・大阪・兵庫・奈良・三重の21地点島原・新町は三大遊廓に数えられる角屋など遊廓建築の文化財が残る売春防止法で一斉に廃止された遊廓跡地は住宅地・商業地・水路に
目次

この記事の読み方|範囲と用語

対象は京都・大阪・兵庫・奈良の4府県と、近畿に含める区分がある三重県の古市だ。滋賀と和歌山は、取得した資料で確認できなかったため載せていない。「遊廓」は公許の遊女屋を集めた区画、「赤線」は1946〜58年に特殊飲食店として半ば公認で続いた地域、「花街」は芸妓中心の町、「新地」は新しく開かれた歓楽地区の呼び名だ。違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街は何が違う?、赤線・青線とは、売春防止法とはで解説している。島原・新町を含む三都の遊廓は日本三大遊郭とはも参照してほしい。

地域の概観|年表で見る近畿

1929年末の統計では、貸座敷が100戸以上あった全国19か所の遊廓のうち、14か所を大阪・京都・堺が占めた。主な動きは次のとおりだ。

年 出来事
1589年 京都で二条柳町が秀吉の許可で開かれ、のち六条三筋町を経て1641年に島原へ移る
1616〜27年 大坂の新町遊廓が願い出られ(1616年)、1627年に設置される
1868年 神戸の福原遊廓、大阪の松島遊廓が許可される
1887〜90年 京都の二条新地廃止(1887年)、大阪の新町が大火(新町焼け、1890年)
1912年 大阪の南の大火で難波新地が焼け、代替地として飛田が計画される
1922〜30年 住吉新地が許可(1922年)、東岡町で新地開発(1924年〜)、今里新地が開設(1930年)
1945年 大阪・神戸の空襲で、新町・松島・福原などが被災
1958年 売春防止法の全面施行。木辻・五番町・撞木町など多くが廃止
2010〜11年 京都の五条楽園が一斉休業し、2011年3月に解散

主な旧遊廓・色街の一覧

京都・大阪・兵庫・奈良・三重の順に、成立・規模・終わり・現在の様子を資料に書かれている範囲で整理する。

島原(京都市下京区西新屋敷)

足利義満が許した傾城町を始まりとする説と、1589年に秀吉の許可で開かれた二条柳町を起点とする説があり、六条三筋町を経て、1641年に朱雀野への移転を命じられて「島原」と呼ばれた。正式名は西新屋敷で、出入口は東の大門だった。1851年の大火で揚屋町以外をほぼ焼いて衰え、1976年に京都花街組合連合会を脱会、昭和後期にお茶屋組合が解散して住宅地になった。いまは大門や石畳の道、西門跡が面影を伝える。角屋は揚屋建築として唯一現存する遺構で、1952年に国の重要文化財に指定され、「角屋もてなしの文化美術館」として公開されている。輪違屋は1984年に京都市指定有形文化財となった。詳しくは島原の歴史。

五条楽園・七条新地(京都市下京区・河原町五条の南東)

江戸中期に鴨川沿いの畑地を開いて煮売り茶屋を出したのが七条新地の始まりといわれ、隣接する五条橋下などが大正期に合わさって、長く七条新地の名で親しまれた。1929年末の統計では貸座敷237戸。戦後は赤線となり、1958年の売春防止法施行を機に「五条楽園」と名を改めた。2010年10月の摘発を受けて茶屋と置屋が一斉に休業し、2011年3月に解散した(終わりを2010年とするか2011年とするかは資料で分かれる)。唐破風屋根の京町家が残り、いまは旅館が点在する街だ。詳しくは五条楽園の歴史。

五番町(京都市上京区・千本中立売の南西)

江戸初期、御所の拡大で移り住んだ人々が北野天満宮や愛宕山の参拝客に煮売茶屋を出したのが始まりで、上七軒の管下として営業を許された。明治に独立した遊廓となり、東部は芸妓、西部は娼妓の町として栄えたが、のち娼妓中心になった。戦後は「西陣新地」と名を変え、1958年3月15日の売春防止法施行で廃止された。いまは住宅地で、面影はわずかしか残らない。水上勉の小説『五番町夕霧楼』の舞台として知られる。

中書島(京都市伏見区東柳町・西柳町)

伏見城下の遊廓が移されて栄え、柳町遊郭とも呼ばれた。酒どころで水運の便もよく、遊廓であると同時に芸妓の花街でもあった。1910年の京阪電車開業などで発展し、1914年ごろは貸座敷77軒、娼妓282人、芸妓45人。1958年3月15日に約半数が下宿に転業し、残りはお茶屋として続いたが、1970年に花街としての歴史を閉じた。いまは商店街・飲み屋街・住宅地で、遊廓時代の建物がわずかに残る。

撞木町(京都市伏見区)

伏見街道の墨染の南に設けられた遊里で、道の形が撞木(丁字形)に似ていることが町名の由来だ。京都の遊廓では最小規模で、大石内蔵助が通ったという伝承から忠臣蔵ゆかりの地として存続した。1958年3月15日、お茶屋9軒・娼妓40名で廃止された。いまは住宅地で、大正期に関係者が建てた記念碑と門柱、祠が残るのみとされる。

橋本遊廓(京都府八幡市橋本)

京街道の宿場だった橋本で、鳥羽・伏見の戦いの兵火や鉄道の路線から外れたことで衰えた遊里が、明治に再興された。1910年の京阪本線開通で客が増え、最盛期の1937年ごろは貸座敷約90軒・娼妓600人ほど。1958年の売春防止法施行で姿を消し、妓楼の多くはアパートや旅館に転業した。近年は旧妓楼建築を活用する例や街歩きの催しもあり、1937年建立の記念碑は2020年に駅前整備に伴って移設された。

二条新地(京都市左京区川端二条東入る)

江戸前期、聖護院村で水茶屋を開いたのが始まりとされ、公許の島原の支配下で、祇園・上七軒に次ぐ花街として栄えた。1887年、北に第三高等学校(のちの京都大学)が建つため、京都府が風紀上好ましくないと判断して廃止した。いまは普通の住宅地で、花街の面影は残らない。

宮川町・祇園東など京都の花街(京都市東山区)

京都には現在、上七軒・祇園甲部・先斗町・祇園東・宮川町の五花街と島原がある。2014年3月、京都市は「京・花街の文化」を「京都をつなぐ無形文化遺産」に選んだ。宮川町は売春防止法の施行(1958年3月15日)まで遊廓で、1929年末の統計では貸座敷418戸・娼妓1,340人。祇園東は祇園甲部から分かれた「祇園乙部」で、娼妓が多かった。遊廓時代の建物が今も残るとされる。詳しくは京都五花街とは。

新町(大阪市西区新町1・2丁目)

大坂で唯一幕府の公認だった遊廓だ。1616年に設置が願い出られ、1627年に町割りをして市中の遊女屋を集め、7つの町を置いた。元禄年間には800人を超える遊女がいたと確認され、明治初頭まで栄えた。1869年の松島遊廓の開設、1872年の芸娼妓解放令、1890年9月の大火(新町焼け)を経て商業地化が進み、1945年の大阪大空襲で焼け野原になった。戦災復興でなにわ筋の敷設や区画変更が行われ、廓の街路や面影は残らない。いまは商業地域で金属・機械工具の問屋が多く、1922年建築の新町演舞場の建物は2014年に解体された。詳しくは新町遊郭の歴史。

堀江(大阪市西区堀江)

江戸時代、和光寺(あみだ池)の門前の茶店が始まりとされ、堀江川の開削(1698年)後に北堀江が花街になったとの記述もある。明治〜昭和初期は新町・南地・松島と並ぶ規模で、貸座敷175軒、芸妓500名、娼妓81名と書かれる。1929年末の統計は156戸。大阪大空襲で被災して衰え、1957年に消滅したとする年表と、昭和後期に消えたと推定する記述がある。いまは商業地・住宅地で、花街の面影はない。

南地五花街・難波新地(大阪市中央区)

宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・坂町・難波新地を総称して南地五花街と呼んだ。江戸前期、道頓堀の芝居町に続いて芝居茶屋が並んだのが起源で、1871年に遊廓として公認され、芸妓は最盛期に1,000人を超えた。1912年1月16日、難波新地四番町の貸座敷から出火した「南の大火」で難波新地が焼け、遊廓の機能は廃止された。その代替地が飛田だ。1929年末の統計では貸座敷499戸。

松島(大阪市西区千代崎→本田・九条)

1868年2月に許可され、1869年に松島町が成立して開設された。当初の場所は現在の千代崎1・2丁目で、新町の衰退を早めた。1916年には娼家267軒・娼妓4,103人で関西第一とされ、1929年末の統計では貸座敷257戸・娼妓3,657人と、娼妓数で全国最多の数字が挙がる。1945年の大阪大空襲で全焼し、1947年に現在の本田2丁目・九条1丁目へ移って再開した。1958年の売春防止法施行後は、届出上「料理店」の組合として続くとされる。詳しくは松島新地の歴史。

飛田(大阪市西成区山王3丁目ほか)

1912年の南の大火で難波新地が焼け、再建が認められず、阿倍野墓地北西の低地が代替地になった。1916年に遊廓の指定を受け(約22,600坪)、阪南土地建物会社が土地買収から建物建設までを担い、1918年12月に開廓式を行った。当時の妓楼は58戸で、1930年刊『全国遊廓案内』は貸座敷220軒・娼妓2,700人と記す。戦後は赤線、1958年以降は「料理店」の組合として続く。大正中期の旧妓楼建築は2000年に国の登録有形文化財となり、南東側には身寄りなく亡くなった遊女を供養する慈母観音がある。許可の年を1915年とする資料もある。詳しくは飛田新地の歴史。

住吉新地(大阪市住之江区浜口東)

住吉大社の門前で、参拝客をもてなす茶屋が並んだ土地に、1922年に許可が下りた。大正後期には芸妓800名を抱えたとされる。1934年に国道の開通と都市計画で数百メートル西の現・御崎へ移転を命じられたが、同年の室戸台風で移れない店が多かった。戦後に再開したが勢いは戻らず、1958年に消滅した。いまは住宅街になっている。

今里新地(大阪市生野区新今里)

1930年12月、大阪電気軌道の今里駅周辺を開墾し、「芸妓居住指定地」として開かれた花街だ。戦後は赤線となり、松島・飛田に次ぐ規模とされ、1958年の売春防止法施行で遊廓としての歴史を終えた。今里や市岡のように、芸妓の花街として許可を得ながら営業内容は貸座敷と変わらなかった新地は、公式の統計では遊廓に数えられない。

福原(神戸市兵庫区福原町)

兵庫開港後の1868年に明治政府が遊廓の設置を許可し、宇治川河口付近(現・中央区東川崎町)に開業した。福原京にちなんで福原遊廓と名づけられ、鉄道敷設で神戸駅の用地になったため、1871年(1872年とする資料もある)に旧湊川東岸の現在地へ移った。1897年には貸席106軒・娼妓913人、1930年には妓楼95軒・娼妓1,320人。1932年には観光名所の人気投票で花街部門の1位に選ばれた。戦災を受けたが戦後に復興し、1958年の売春防止法施行で遊廓は廃業し、以後は風俗営業の店が集まる町として知られる。町内には1882年に遊廓の繁栄を祈って建てられた金刀比羅宮神戸分社がある。詳しくは福原遊郭の歴史。

新川遊廓・二葉新地・春日野新地(神戸市)

新川遊廓は1880年、柳原から娼妓だけを分けて兵庫区今出在家町に置かれたが、1945年3月の空襲で焼け、跡の大部分は1952年の兵庫運河拡張で水路や船溜まりになった。二葉新地(長田区二葉町5丁目・久保町5丁目)は1922年に芸妓置屋として認可され、戦後は赤線として栄えたが、1958年3月に解散した。春日野新地(葺合区筒井町3丁目)は1935年に二業地として発足し、1952年に青線地区として復活、1958年3月まで続いた。

木辻遊廓(奈良市東木辻町・鳴川町・瓦堂町)

慶長・寛永のころ、田園だった一帯に茶店ができて遊女を置いたのが始まりとされる。近世には奈良で唯一の公認遊廓とされ、1879年には貸座敷19軒・娼妓89人。1914年の大火で往時の建物の多くが焼けた。1958年3月15日、赤線廃止で置屋は廃業し、旅館や喫茶店、料亭に転じた。独特の「木辻格子」が特徴で、元妓楼の旅館建築は2022年に取り壊された。木辻・瓦堂・洞泉寺・東岡町の4つは「近代奈良四遊廓」と呼ばれる。

洞泉寺遊廓(奈良県大和郡山市洞泉寺町)

17世紀前葉に水野勝成が雑穀町の遊廓を洞泉寺の近くへ移したとされ、近世後期は幕府非公認の遊所だった。1877年に公認され、鉄道の開通で客が増えて、1924年には貸座敷17軒・娼妓200名の最盛期を迎えた。1958年の売春防止法施行で旅館や下宿などに転廃業した。旧川本楼(旧川本家住宅)は1924年上棟の木造3階建てで、1999年に大和郡山市が購入し、2014年に登録有形文化財となって、2018年から「町家物語館」として公開されている。一方で解体が進み、遊廓建築は2020年時点の7棟から3棟に減ったと書かれている。

東岡町遊廓(奈良県大和郡山市東岡町)

奈良街道沿いの旅籠街で、明治期は芸妓の町だった。1921年に大阪電気軌道の郡山停留所が開かれると、1924年以降に西側の金魚池や荒地へ「岡町新地」が開発され、1933年には妓楼25軒・娼妓280人と、洞泉寺や木辻を上回る盛況になったとされる。戦後は赤線、1958年以降は旅館などに転じたが、1989年の一斉摘発で実質的な遊廓史は幕を閉じたとされる。2024年10月には、象徴だった三階建て妓楼建築が特定空き家として行政代執行で解体され、2025年3月時点で空き地になっている。

古市(三重県伊勢市古市町)

伊勢参りの精進落としの場として栄えた、幕府非公認の遊里だ。江戸前期に遊女を置く茶屋が現れ、最盛期の天明年間(1781〜89年)には妓楼70軒・遊女1,000人を数えた。吉原・島原と並ぶ三大遊廓、新町・丸山を加えた五大遊廓に数える見方もある。明治に古市を迂回する道路ができて衰え、1872年の貸座敷33軒・娼妓640人は昭和初期に22軒・135人まで減り、1945年の空襲で壊滅した。いまは伊勢古市参宮街道資料館(伊勢市中之町)が、妓楼関係の資料や伊勢歌舞伎の台本などを展示している。

地域別の一覧表

ここまでの21地点を表にまとめる。

名称 所在地 成立 終わり 現状
島原 京都市下京区 1589年起点説/1641年移転 昭和後期に衰退 角屋(重文)・大門
五条楽園・七条新地 京都市下京区 江戸中期 2010〜11年 旅館・町家
五番町 京都市上京区 江戸初期 1958年 住宅地
中書島 京都市伏見区 伏見城下から移転 1958年に半数/1970年 商店街・住宅地
撞木町 京都市伏見区 江戸時代 1958年 碑・門柱・祠
橋本遊廓 八幡市橋本 明治に再興 1958年 旧妓楼の活用例
二条新地 京都市左京区 江戸前期 1887年 住宅地
宮川町・祇園東 京都市東山区 江戸中期 1958年(遊廓) 五花街として現役
新町 大阪市西区新町 1627年 1890年の大火後に衰退/1945年戦災 商業地域
堀江 大阪市西区堀江 江戸時代 1957年説/昭和後期 商業地・住宅地
南地五花街 大阪市中央区 江戸前期 1912年に遊廓機能廃止 町名の多くが消滅
松島 大阪市西区ほか 1868〜69年 1945年/1958年 「料理店」組合
飛田 大阪市西成区 1918年 1958年 旧妓楼が登録有形文化財
住吉新地 大阪市住之江区 1922年 1958年 住宅街
今里新地 大阪市生野区 1930年 1958年 割愛
福原 神戸市兵庫区 1868年 1958年 風俗営業の集まる地区として知られる
新川・二葉・春日野 神戸市 1880年/1922年/1935年 1945年/1958年 新川は水路に
木辻 奈良市 慶長・寛永ごろ 1958年 元妓楼旅館は解体
洞泉寺 大和郡山市 17世紀前葉 1958年 町家物語館
東岡町 大和郡山市 1924年以降に新地開発 1989年(実質) 妓楼建築が解体
古市 伊勢市 江戸前期 1945年に壊滅 資料館

まとめ

近畿の旧遊廓は、島原と新町という江戸時代の公許遊廓、明治に開かれた松島・福原、大正の飛田、鉄道とともに伸びた東岡町や今里のように、時代ごとに生まれた町が重なっている。多くは1958年の売春防止法で廃止され、跡地は住宅地や商業地、水路に変わった。一方で、島原の角屋、洞泉寺の旧川本楼、飛田の旧妓楼のように、建物が文化財として残る例もある。解体が進む町も多く、建物をどう残すかは各地の課題だ。

よくある質問

Q. 近畿で建物が文化財になっている旧遊廓はありますか?
A. 島原の角屋が1952年に国の重要文化財、輪違屋が1984年に京都市指定有形文化財になった。洞泉寺の旧川本楼は2014年に、飛田の旧妓楼は2000年に登録有形文化財になっている。

Q. 五条楽園はいつ終わったのですか?
A. 2010年10月に茶屋と置屋が一斉に休業し、2011年3月に解散した。2010年とするか2011年とするかは資料で分かれる。

Q. 福原が今の場所に移ったのは何年ですか?
A. 資料によって異なる。鉄道敷設に伴い、1871年に旧湊川東岸へ移ったとする資料と、1872年とする資料がある。

Q. 売春防止法より前に終わった遊廓はありますか?
A. 京都の二条新地は1887年に廃止された。大阪の新町は、1890年の大火後に商業地化が進み、1945年の大阪大空襲で焼け野原になった。

Q. 滋賀や和歌山の遊廓は載っていませんか?
A. 取得できた資料で成り立ちや終わりの時期を確認できなかったため、載せていない。確認できた範囲だけを掲載している。

参考にした資料

  • Wikipedia「遊廓」「赤線」「京の花街」「大阪の花街」「神戸の花街」「島原(京都)」「角屋」「輪違屋」「七条新地」「五条楽園」「五番町(京都市)」「中書島」「撞木町」「橋本遊廓」「二条新地」
  • Wikipedia「新町遊廓」「堀江(花街)」「南地」「松島遊廓」「飛田遊廓」「住吉新地」「今里(花街)」「福原(神戸市)」「木辻遊廓」「洞泉寺遊廓」「東岡遊廓」「古市(伊勢市)」
  • 三重県観光連盟「伊勢古市参宮街道資料館」
  • 『全国遊廓案内』(1930年刊)、草間八十雄の1929年末の統計(Wikipedia「遊廓」の引用による)

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