※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、開設年や人数は資料によって異なる場合があります。
今里新地は、大阪市生野区の新今里にあった花街だ。昭和のはじめに計画的に開かれた町で、「芸妓居住指定地」という名目のもと、娼妓のいる遊廓とは制度の上で区別されていた。この記事では営業や利用には触れず、成り立ち、規模、戦争と戦後、1958年以降の町の変化を、資料で確認できた範囲で整理する。
今里新地の歴史の要点
今里新地とは|場所と名前
場所は大阪市生野区の新今里地区で、新今里は1丁目から7丁目までの町からなる。花街だった範囲は、主に新今里の3丁目・5丁目付近にあたる。大阪電気軌道(大軌、現在の近鉄)の今里駅の南方に位置する。生野区は住宅と工場が混在する区で、新今里は、幹線道路沿いと駅前を除くと、都市計画上の用途地域がいまも「商業地域」になっている唯一の地区だと研究で指摘されている。花街としてスタートした歴史が、土地の使われ方に残っているわけだ。

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成り立ち|松島遊郭の過密から芸妓居住地へ
今里新地の花街としての歴史は、1927年(昭和2年)末に始まる。過密が問題になっていた松島遊郭(大阪市西区)の移転先として、今里一帯が芸妓居住地に指定されたのが出発点だと整理されている。翌年からは、デベロッパーの今里土地株式会社が土地を取得して区画整理を進め、花街を構成する家屋が建てられはじめた。そして1929年(昭和4年)に、一部が新地としての営業を開始した。
開設の年は資料で揺れている。Wikipediaは1930年(昭和5年)12月とし、ほかにも1930年とする解説がある。計画の指定、区画整理、営業開始のどの段階を「開設」とみるかで年が変わった可能性もあるが、この点は確認できていない。この記事では、指定は1927年末、営業開始は1929年とする研究の整理に従っている。
開発の背景として、大軌の沿線開発と大阪市内の遊廓整理の流れがあり、大軌の子会社の今里土地株式会社が手がけたと説明する解説もある。また、今里新地組合が1940年にまとめた『今里新地十年史』は、この町の歴史を知るうえで基本の資料としてよく引かれる。開業したばかりの頃は、田んぼを埋め立てた土地で、雨が降ると道がぬかるむような場所だったと伝えられる。開業時の芸妓は十数人だったという。
「芸妓居住指定地」とは|遊廓との違い
芸妓居住地とは、宴席で芸を披露する芸妓が住み、料理屋や待合で営業することを認められた区域だ。娼妓を置く貸座敷の営業地、つまり遊廓とは、制度の上で区別されていた。今里新地組合が編んだ『今里新地十年史』にも、娼妓のいる遊廓とは違うという立場が書かれているとされる。待合(待合茶屋)は、客が芸妓を呼んで遊興する店を指す。花街と遊廓の違いは花街と遊郭の違いの記事にまとめてある。
ただし、制度の区別と実態が同じだったとは限らない。芸妓の中には宴席を超えた営みをする者も少なくなかったとする証言を紹介する記事もあり、戦後の評価も一様ではない。今里のように芸妓の花街として許可を得た新地は、公式の統計では遊廓に数えられない点にも注意が必要だ(近畿の遊郭跡)。
規模|1938年に家屋約2,000戸、芸妓2,000人以上
町は開業後も拡大を続けた。研究によれば、1938年(昭和13年)には、家屋が約2,000戸、料理屋(実質的には待合茶屋)が400軒余、芸妓が2,000人以上にのぼり、関連するサービス業も多数集まるまでになった。開業時の十数人から、10年足らずで桁違いの規模に育ったことになる。ここまでの数字は研究論文の整理によるもので、当時の新聞記事などが伝える数字とは年次や数え方が異なる場合がある。
花街の仕組み|屋形・待合・料理屋
大阪の花街では、芸妓を抱える家を置屋、関西では屋形と呼び、芸妓は屋形から待合や料理屋などの客席へ出向いて座敷をつとめた。この出向く仕組みは「送り込み」と呼ばれる。今里新地の統計に出てくる「料理屋」は、実質的には待合茶屋だったとされ、客が芸妓を呼んで遊興する店を指す。町は、屋形、待合、料理屋、それに衣装や酒食など関連するサービス業が組み合わさって成り立っていた。

戦時中と空襲
戦時中は、芸妓が軍隊の慰問や報国活動に動員されたと伝えられる。空襲では北側が大きな被害を受けた。戦前の今里新地の範囲は、現在の新今里地区の大半を含むものだったが、空襲でその北半分が焼け、花街の店舗は南側(現在の3丁目・5丁目付近)に集約されていったとされる。空襲の日付を1945年6月15日とする記述もある。
戦後と1958年|赤線から花街の営業へ
戦後、今里新地の一部は赤線となり、遊廓としての機能ももつようになった。Wikipediaは、松島と飛田に次ぐ規模だったと紹介している。赤線の仕組みは赤線・青線の記事を参照してほしい。
転機は1958年の売春防止法の完全施行だ(売春防止法の記事)。遊廓としての側面は失われ、町は、芸妓が接待する本来の花街の営業に戻っていった。その過程で廃業する店が増えていく。研究が使った風俗営業の統計では、待合・料理屋を含む「和風設備」の数は、売春防止法の施行を機に急減した。その後、1970年代を通じてやや回復し、最盛期には及ばないものの一定の繁栄がうかがえるという。
花街の関係者が持っていた土地の割合も、数字で追える。1953年発行の『大阪府下新地組合組合員名簿』と照らして推定した研究では、1962年には対象区域の土地273筆のうち、少なくとも113筆(37.0%)が花街関係者の所有だった。これが1985年には63筆(22.3%)まで減っている。
今里新地の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1927年末 | 過密が問題になっていた松島遊郭の移転先として、今里一帯が芸妓居住地に指定される |
| 1928年 | 今里土地株式会社が土地を取得し、区画整理と家屋の建設が始まる |
| 1929年 | 一部が新地としての営業を開始する |
| 1930年 | Wikipediaなどは、この年の12月の開設とする |
| 1938年 | 家屋約2,000戸、料理屋(待合茶屋)400軒余、芸妓2,000人以上 |
| 1940年 | 今里新地組合が『今里新地十年史』をまとめる |
| 1945年 | 空襲で北半分が焼ける(6月15日とする記述もある) |
| 戦後 | 一部が赤線となる |
| 1958年 | 売春防止法の完全施行。遊廓の側面が失われる |
| 1959年 | 対象区域で初めて、在日朝鮮人による土地購入が確認される |
| 1962年 | 土地273筆のうち少なくとも113筆が花街関係者の所有 |
| 1985年 | 花街関係者の所有は63筆に減る |
花街から商業と飲食の街へ|1960年代以降の変化
売春防止法のあと、廃業した待合の一部が売買されるようになる。生野区には戦前から在日朝鮮人の大規模な集住地区があり、現在も日本で最大の在日朝鮮人人口をかかえる。研究によれば、今里新地の対象区域内で在日朝鮮人による土地購入が最初に確認できるのは1959年で、1960年代の初めには、隣の新今里2丁目に韓国式の料亭が開かれた。もともと花街の客に在日朝鮮人はほとんどいなかったが、こうした店の登場とともに、近隣の集住地区から訪れる人が増えたという。
1980年代末のバブル期以降は、賃貸マンションやスナックを集めたビルが建ち、韓国から来た「ニューカマー」が経営する店が急増した。研究は、その背景に、花街の衰退、バブル期以前に形成されていた在日朝鮮人の遊興の場への需要、韓国から来た労働者が暮らせる住宅があったことを挙げる。商業地域の指定が残っていたことも、飲食や接客の店が成り立つ土地条件として働いた。近年は中国系やベトナム系の住民・事業者も増えたと紹介されている。花街として始まった町が、時代ごとに住む人と使われ方を変えてきた例といえる。
今に残る面影
2015年に発表された研究は、今里新地にはいまもわずかに待合が残り、看板や灯籠などから往事の花街の景観をうかがえる、と述べている。ただし、現在の個別の建物や営業の状況は、この記事では確認していない。現地は住宅や店舗が営業する生活の場なので、訪れる場合は周囲への配慮が必要だ。
まとめ
今里新地は、松島遊郭の過密を受けて1927年末に芸妓居住地に指定され、今里土地株式会社の区画整理を経て、1929年に営業を始めた花街だ。1938年には芸妓2,000人以上を数える規模になり、空襲で北半分を失い、戦後は一部が赤線となった。1958年の売春防止法の完全施行後は花街としての営業に戻ったが、廃業が相次ぎ、1960年代以降は土地の所有や使われ方が変わって、商業と飲食の街へ姿を変えている。開設年の揺れや、制度上の区別と実態の関係など、資料によって見方が分かれる点もある。
よくある質問
Q. 今里新地はいつできたのですか?
A. 1927年末に芸妓居住地に指定され、1929年(昭和4年)に一部が営業を始めたとする研究がある。Wikipediaなどは1930年12月の開設としており、資料により年が異なる。
Q. 今里新地は遊廓だったのですか?
A. 制度の上では、娼妓のいる遊廓ではなく、芸妓が住む「芸妓居住指定地」の花街だった。ただし戦後は一部が赤線となり、遊廓としての機能ももったとされる。
Q. 今里新地はどこにありますか?
A. 大阪市生野区の新今里地区で、近鉄今里駅の南方にあたる。花街の範囲は主に新今里の3丁目・5丁目付近だ。
Q. 松島との関係は?
A. 過密が問題になっていた松島遊郭の移転先として、今里一帯が芸妓居住地に指定されたのが始まりと整理されている。
Q. 1958年のあとはどうなりましたか?
A. 遊廓としての側面は失われ、芸妓の接待を中心とする花街の営業に戻った。廃業が増え、1960年代以降は土地の売買が進んで、飲食や住宅の街に変わっていった。
Q. いまも花街として残っていますか?
A. 2015年の研究では、わずかに待合が残り、看板や灯籠から往時の景観がうかがえると述べられている。現在の営業状況は、この記事では確認していない。
参考にした資料
- 福本拓「土地売買の観点からみたエスニック空間の形成過程-大阪市生野区新今里地区における花街から韓国クラブ街への変貌-」『地理空間』8巻2号、2015年(筑波大学リポジトリ)
- 加藤政洋『花街 遊興空間の近代』講談社学術文庫、2024年(第四章「近代大阪における新地開発」)
- 今里新地組合『今里新地十年史』1940年(上記論文などでの引用による)
- Wikipedia「今里 (花街)」「大阪の花街」「売春防止法」(今里 (花街))
- 「芸妓の街」としての今里新地の歴史(個人サイト。今里土地株式会社や1938年以前の動きの説明を参考に、論文と照らして使用。該当ページ)
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
遊廓と花街の違い・全国概説・東海から九州沖縄の旧遊廓跡。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 写真: W236 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
- 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成

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