飯坂温泉の若葉遊廓と花柳界とは?歴史・場所・跡地の今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

福島市北部の飯坂温泉は、松尾芭蕉が立ち寄ったことで知られる奥州三名湯の一つだ。古くから温泉場に花柳界があったとされ、昭和初期の案内書には「若葉新地」の遊廓も載っている。この記事では特定の旅館や店舗には触れず、飯坂温泉の歓楽の歴史を、湯女が出入りした湯治場の時代、明治の大火と若葉町への集約、昭和初期の姿、戦後の終わりと温泉街の変化という順に、公開資料で確かめられた範囲で整理する。

飯坂温泉の遊廓・花柳界のポイント

奥州三名湯の湯治場かつては湯女が浴場に出入り明治の大火のあと若葉町に集約摺上川沿いの7楼戦後に廃止され温泉街は観光へ跡地には痕跡がほぼ残らない
目次

この記事の読み方|温泉場の花柳界と遊廓

温泉地には、旅館の座敷に芸妓を呼ぶ「花柳界」と、貸座敷の営業が公認された「遊廓」が併存していることがある。飯坂では、昭和初期の資料が貸座敷7軒と、娼妓に劣らない数の芸妓がいたと記す。この記事では、芸妓が座敷に出る文化を花街、貸座敷の営業が公認された若葉町の区画を遊廓と呼び分ける。両者の違いは花街と遊郭の違いに詳しい。なお、東北地方の旧遊廓全体は北海道・東北の遊郭跡で一覧にしている。

飯坂温泉の概観と年表

飯坂温泉は、福島市の郊外、摺上川の両岸に旅館が並ぶ温泉街で、「福島の奥座敷」と呼ばれる。伝説では日本武尊の東征にさかのぼる古湯で、地名は1300年ごろに伊達家の分家である伊達政信が飯坂姓を名乗り、一帯を開墾したことに由来するとされる。江戸時代に街道が整備されると、庶民や旅人が訪れる湯治場として知られるようになった。

年出来事
1689年5月松尾芭蕉と曽良が飯坂に宿泊する。当時は温泉宿が4軒、戸数74戸ほどの小さな温泉場だったとされる
1873年ごろ福島に県庁が置かれ、飯坂は役人の保養地となる。温泉旅館が次々に建つ
1888年湯町から出火した大火で、湯沢と十綱町の178戸が焼ける(1887年とする資料もある)
大火のあと散在していた遊所が、摺上川沿いの若葉町に集約され、遊廓の区画となる
1924年福島・飯坂電気軌道が開通し、のちに現在の飯坂温泉駅まで延びる
1927年『飯坂湯野温泉遊覧案内』が若葉の里の7楼・遊女47人と記す
1928年12月福島県議会が公娼廃止決議を可決
1930年『全国遊廓案内』に飯坂若葉遊廓の貸座敷7軒、娼妓約50人、芸妓も同程度と載る
戦後福島や瀬上の新町の遊廓とともに廃止される
1973年観光客数が約177万人でピークに達する
飯坂温泉と若葉遊廓の歩みを1689年の芭蕉の宿泊から戦後の遊廓廃止、1958年の売春防止法全面施行まで並べた年表
飯坂温泉と若葉遊廓の歩みを、本文の年号だけで整理した年表。

湯治場の時代|湯女と芭蕉の飯坂

江戸時代の飯坂温泉は、内湯のある宿が少なく、旅人が宿を選んで、点在する外湯で湯治をするのが基本だった。『おくのほそ道』で芭蕉は、雨漏りや蚤、蚊、持病に悩まされたと書き、好意的な感想を残していない。1689年の飯坂は、宿が4軒しかない質素な温泉場だったことが、旅行記の描写から分かる。

1924年(大正13年)の『飯坂湯野温泉史』は、遊里の由来について、町になる前の時代にあちこちの浴場に「湯女(ゆな)」と呼ばれる女性が出入りし、風俗を乱すことがあったと記す。湯女は、温泉場や湯屋で客の世話をした女性を指し、江戸時代の各地の温泉地や湯屋に見られた存在だ。飯坂でも、湯治場として栄えるにつれて、浴場の周りに遊興の場ができたのだろう。

明治の大火と若葉町への集約

1888年(明治21年)、湯町から出火した大火で、湯沢と十綱町の178戸が全焼した。『飯坂湯野温泉史』は、この火災を機に、散在していた遊所を一つの区画にまとめたと記す。昭和54年刊の写真集は、湯町や湯沢などの旅館街にあった遊廓を、明治20年の大火の後に移転させて、若葉町の遊廓にしたと説明している。大火の年は明治20年とも21年とも資料で揺れているが、火災を契機に移されたという点は、どの資料も共通する。

移転先の若葉町は、摺上川の西岸、名湯・波来湯の近くから十綱橋の方へ向かう一帯で、当時は町外れの断崖だったという。1927年(昭和2年)の『飯坂湯野温泉遊覧案内』は、「30年前までは狐狸さえ自由に行き来できない場末だった」と記す。のちに電車が通じ、温泉街の中心が移るにつれて、この区画は温泉街の目抜きの位置に変わっていった。

鉄道省編『景観を尋ねて』に載る飯坂温泉の写真。川に橋が架かり、岸に建物が並ぶ
鉄道省編『景観を尋ねて』所収の「飯坂温泉」(昭和8年頃)。川沿いに建物が並ぶ当時の温泉街の風景。写っている場所の特定や、遊廓の位置を示すものではない。
鉄道省 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

若葉の里|摺上川沿いの7楼

『飯坂湯野温泉史』と『飯坂湯野温泉遊覧案内』は、若葉の里に七つの楼があったと伝える。各楼は摺上川の崖に面して専属の内湯を持ち、温泉場らしい特色になっていた。1927年の案内書は、遊女の数を締切日の時点で47人としている。同書は温泉の宣伝を兼ねた案内書なので、表現には誇張があるかもしれないが、規模感は他の資料とも近い。

1930年(昭和5年)の『全国遊廓案内』は「飯坂若葉遊廓」の項を立て、福島県信夫郡飯坂町若葉新地にあり、東北本線の伊達駅から私鉄に乗り替え、飯坂駅で下車するか、福島市から自動車で約30分と案内する。貸座敷は7軒、娼妓は約50人、芸妓もこれに劣らない数がいるとある。同書は、会津の東山温泉、松本の浅間温泉と同様に、福島へ遊びに来れば必ずここへ案内されるほど、周辺一帯の歓楽地になっていたと紹介した。飯坂が、福島市の奥座敷として、周辺の人々の遊興の場を兼ねていた様子がうかがえる。

芸妓のいた温泉街

飯坂温泉については、「古くから歓楽街温泉として花柳界が存在した」と、地誌的な解説で述べられている。昭和初期の案内書も、芸妓が娼妓に劣らないほどいたと記している。飯坂の花柳界の具体的な組織や人数の推移を詳しく示す資料は、今回確認できなかったため、この記事では深入りしない。置屋の建物については、1913年(大正2年)に銀行として建てられ、のちに芸者置屋として長く使われたと紹介する店のブログがあるが、公的な資料では確認できていない。温泉街の花柳界は、全国どこでも旅館と座敷の文化の一部であり、飯坂もその例だったとみられる。

戦時と戦後|遊廓の廃止

飯坂の温泉宿は、昭和7年(1932年)から昭和20年まで、国策に不要だとされ、細々と営業を続けたという。1944年(昭和19年)9月からは、東京からの疎開児童1,697人を受け入れた。戦後の1947年(昭和22年)には、昭和天皇の戦後巡幸で花水館が宿泊所になった。

若葉町の遊廓は、戦後に、福島や瀬上の新町の遊廓とともに廃止されたと、昭和54年刊の写真集は記す。1956年に公布された売春防止法は1958年(昭和33年)4月に全面施行された。戦前から、福島県議会は1928年(昭和3年)12月に公娼廃止決議を可決しているが、決議があっても1930年の案内書に載っているように、制度は戦後まで続いた。この間の動きは売春防止法の成立と全面施行や赤線・青線の戦後史で詳しく扱っている。

飯坂温泉駅のそばを流れる摺上川と、そこに架かる十綱橋
飯坂温泉駅のそばを流れる摺上川と十綱橋(2005年9月撮影)。若葉町の遊廓は、この摺上川の西岸にあったとされる。写真は現在の温泉街で、遊廓の跡そのものではない。
撮影・作者: Sphl / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

跡地の今|痕跡の少ない若葉町

若葉町の遊廓の位置は、国立国会図書館デジタルコレクションの古い地図や法務局の地図データを突き合わせた調査記事で特定されている。それによると、波来湯公園の前から新十綱橋の間に当たる区画で、現在は旅館の駐車場、医院、旧銀行の建物、空き地などになっているとされる。調査記事の筆者は、遊廓の痕跡と呼べるものはほぼ見当たらず、旅館やホテルの跡とみられる空き地が目立つ、さびれた温泉街の一角だと述べている。

温泉街全体は、1973年の観光客約177万人をピークに減り、2005年に初めて100万人を下回り、2009年には約81万人、2021年には約39.3万人になった。旅館数も、全盛期の約120軒から30軒ほどに減ったとされる。公式の碑や案内板など、遊廓を伝える見学施設は確認できなかった。一方、共同浴場や鯖湖湯の建物、十綱橋、摺上川沿いの景観など、湯治場の歴史を伝える場所は残っている。鯖湖湯は平成初期に建て替えられた。

まとめ

飯坂温泉の歓楽の歴史は、湯女が出入りした湯治場、明治の大火、若葉町への集約、昭和初期の7楼、戦後の廃止という流れで整理できる。『飯坂湯野温泉史』『飯坂湯野温泉遊覧案内』『全国遊廓案内』という三つの古い資料が、場所や楼の数、娼妓や芸妓の数についてほぼ一致していることが、この記事の裏付けになっている。一方で、芸妓の組織や置屋の具体的な数は確認できなかった。現在の若葉町に遊廓の痕跡はほとんど残らず、温泉街は観光地としての変化の中にある。詳しく調べる場合は、福島市史などの地方史と、国立国会図書館デジタルコレクションの原典を確認するのが確実だ。

よくある質問

Q. 飯坂温泉の遊廓はどこにあったのですか?
A. 摺上川の西岸の若葉町で、波来湯公園と新十綱橋の間あたりとされる。『全国遊廓案内』では「飯坂町若葉新地」と記されている。

Q. いつ、なぜ若葉町に集められたのですか?
A. 明治20年代初めの大火を機に、湯町や湯沢などの旅館街に散在していた遊所が、若葉町に集められたと、『飯坂湯野温泉史』などが記す。大火の年は1887年とも1888年とも資料で異なる。

Q. 昭和初期の規模はどのくらいでしたか?
A. 『全国遊廓案内』(1930年)で貸座敷7軒、娼妓約50人、芸妓も同程度。1927年の案内書は7楼・遊女47人としている。

Q. 今も遊廓の建物は残っていますか?
A. 調査記事では、遊廓の痕跡と呼べるものは見当たらないとされる。跡地は駐車場や医院、空き地などになっている。

Q. 飯坂温泉の芸妓文化は今も続いていますか?
A. 古くから花柳界があったとされるが、現在の状況を示す公的な資料は今回の調査では確認できなかった。観光協会や旅館協同組合の案内を確認してほしい。

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Sphl 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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