神楽坂の花街とは?歴史・場所・芸者と石畳の路地の今の姿を解説

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

神楽坂は、東京都新宿区にある坂とその周辺の町で、石畳の路地や黒塀が残る街並みで知られる。ここは江戸時代の寺町から繁華街になり、明治末から花街としても栄えた。この記事では特定の店には触れず、神楽坂の花街がどう生まれ、どれほどの規模になり、戦後にどう変わり、いまどんな姿でいるのかを、新宿区の公式情報、論文、百科事典の記述など、資料で確認できた範囲で整理する。

神楽坂の花街とは

寺町の門前の岡場所が起源明治末から花街として発展昭和4年の芸者は552人石畳と黒塀の路地が残る2023年は料亭4軒・芸妓16名区が路地景観を守るルールを定める
目次

神楽坂の花街とは|場所と基本

神楽坂は、早稲田通りと大久保通りが交わる「神楽坂上」交差点から、外堀通りの「神楽坂下」交差点まで続く坂である。起点は江戸城の牛込門(牛込見附)で、坂の名は一帯の地名にもなり、神楽坂一丁目から六丁目がある。名の由来には諸説がある。『江戸名所図会』は、坂の右側にあった高田穴八幡の旅所で神輿が通るときに神楽を奏したから、あるいは若宮八幡の神楽の音がこの坂まで聞こえたから、と記している。坂そのものは、1637年に江戸城の外堀や牛込門と同じ時期に整備されたと伝えられる。

花街の中心は、坂を上がって右手に入り組む路地の一帯だ。新宿区の地区計画では、神楽坂三・四・五丁目地区に兵庫横丁、見返り横丁、かくれんぼ横丁などの路地が含まれる。花街は、芸妓が宴席に出て踊りや三味線で場を盛り上げる町をいい、公認の遊女屋を集めた遊廓とは成り立ちが違う。くわしくは花街と遊郭の違いや遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いの記事を参照してほしい。

寺町の門前から花街へ|江戸から明治

江戸時代の神楽坂は、牛込見附と小浜藩酒井家の屋敷を結ぶ坂で、坂沿いは武家地と寺町になった。1595年(文禄4年)に徳川家康が日本橋馬喰町で開基した毘沙門天善國寺は、1792年(寛政4年)に神楽坂の寺町へ移り、その縁日には多くの参詣客が訪れたという。寺町の縁日は、にぎわいを生む土台になった。

花街のはじまりは、寺社の門前に生まれた岡場所(幕府が公認しない遊所)にさかのぼる。近代東京の花街の成立を調べた土木工学の論文は、湯島天神、芝神明、牛込神楽坂などの社寺門前に非公許の遊女屋が集まる岡場所ができ、天保の改革で風紀が取り締まられた際に、遊女から芸妓への転身が進んだと整理している。このため、花街は寺町の岡場所から生まれたと説明されることが多い。一方で、明治以降に人目につく場所へ貸座敷(待合)を設けることが禁じられ、この一帯が花街になったとする説明もあり、成立の経緯は一つに定まっていない。

明治に入ると、坂沿いの武家屋敷は町人の街に変わり、明治10年代には急だった坂が緩やかに直された。1895年(明治28年)には甲武鉄道(のちのJR中央線)の牛込駅が開業し、神楽坂は東京有数の繁華街として急速に発展した(開業を1894年とする記述もあり、資料間でずれがある)。尾崎紅葉や坪内逍遥など多くの文人が住んだ土地でもある。新宿区は神楽坂を、明治末から花街・繁華街として栄えてきた地区と説明している。

江戸時代の浮世絵。牛込見附の石垣と櫓門を正面に、神楽坂の広い坂道を大勢の人々が行き交っている
歌川広重『廣重東都坂盡 牛込神楽坂之図』(国立国会図書館蔵)。江戸時代の神楽坂と牛込見附の様子を描いた画帖の一図
Utagawa Hiroshige / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
神楽坂にある毘沙門天善國寺の朱塗りの山門。提灯が並んでいる
毘沙門天善國寺(新宿区神楽坂、2009年8月撮影)。1595年に日本橋馬喰町で開基され、1792年に神楽坂へ移ったと伝わる寺
撮影・作者: Kabacchi / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons

東京有数の規模へ|大正から昭和戦前

花街は大正の初めから東京有数の規模で、1923年(大正12年)の関東大震災のあとには最大規模を誇るようになったとされる。震災では神楽坂は大きな被害を受けず、下町の花街が打撃を受けたこともあって、日本橋や銀座方面の商人が流れ込み、カフェや夜店がにぎわった。「山の手銀座」と呼ばれたのはこのころだ。田山花袋は『東京の三十年』で、電車がなかった時代に山の手の人々が買い物に神楽坂へ出かけたと書いている。

規模を示す数字もある。ある論文が引く調査によれば、1929年(昭和4年)の東京には33か所の花街があり、芸者は合計約7,500人だった。内訳は浅草750人、新橋633人、芳町629人、神楽坂552人、柳橋336人などで、神楽坂は論文が挙げる上位では4番目の多さだった。別の論文は、関東大震災で銀座の商店が神楽坂へ移ったことなどもあり、昭和10年代の初めが最盛期だったと伝えられる、と書いている。

なお、百科事典Wikipediaは「最盛期には料亭が約120軒、芸者が700人以上」としている。ただし出典と年次が示されておらず、今回の調査では裏づけられなかった。上の昭和4年の552人は、論文で確認できた数字である。戦前の花街は、料理屋、待合茶屋、芸妓屋の三業で成り立っていたとされ、戦後に料理屋と待合茶屋の役割が一つになって、いまの料亭が生まれたと紹介されている。

年出来事
1595年徳川家康が日本橋馬喰町に毘沙門天善國寺を開基する
1637年ごろ坂が外堀・牛込門と同じ時期に整備されたと伝わる
1792年善國寺が神楽坂の寺町へ移る
1895年甲武鉄道の牛込駅が開業する(1894年とする記述もある)
明治末花街・繁華街として栄える
1923年関東大震災。神楽坂は被害が小さく、震災後に最大規模となる
1929年東京の芸者約7,500人のうち神楽坂は552人
昭和10年代初め最盛期だったと伝えられる
1952年戦後、「ゲイシャワルツ」が流行するなどで再びにぎわう
1956〜58年一方通行になり、1958年に現在の逆転式となる
1970年ごろ花柳界が不振になったとされる
1999〜2003年高層マンション計画をきっかけに、街並みを守るNPOが2003年に認証される
2020年・2023年区が兵庫横丁沿道、見返り横丁・かくれんぼ横丁の路地景観を守る地区計画を変更する
神楽坂の花街の歩みを1595年から2023年までまとめた年表
神楽坂の花街の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

戦争と戦後のにぎわい、そして停滞

昭和に入ると、花街は大きな波にさらされた。論文によれば、東京の都市部でターミナル駅が発達して人の流れが変わり、戦時体制もあって勢いを失い、第二次世界大戦の空襲で被災した。戦後は、1952年(昭和27年)に「ゲイシャワルツ」が流行するなどして再びにぎわいを見せたが、1970年ごろから花柳界は左前になったという。神楽坂の坂も、戦後の高度成長期に自動車が急増し、1956年に一方通行となり、1958年に午前と午後で向きが変わる全国でも珍しい逆転式一方通行になった。

花街の衰えは、芸者の数にも表れた。同じ論文が引く2007年の数字では、神楽坂は料亭8軒、芸者30人だった。さらに別の論文は、2000年時点で神楽坂には置屋に住み込む芸者はおらず、すべて通いだったと記している。養成途中の若手が育ちにくい状況を示す記述である。2023年の芸妓16名は、単純な比較はできないものの、昭和4年の芸者552人の約3%にあたる。

石畳と黒塀の路地|花街の面影をたどる

神楽坂の花街らしさをいまに伝えるのは、坂を上がって右手に残る路地である。新宿区は、石畳や黒塀が残る路地景観が神楽坂のシンボルになっていると説明している。観光案内などで紹介される主な路地は次のとおりだ。

路地場所特徴
兵庫横丁神楽坂四丁目石畳の路地。名は戦国時代に牛込城の武器庫があった場所という伝承に由来し、神楽坂で最も古い道ともいわれる。石畳の景観から、新宿区まちなみ景観賞を受けたと紹介される
かくれんぼ横丁神楽坂三丁目折れ曲がった路地。お忍びの客が後をつけられても隠れられたことが名の由来といわれる。黒塀と石畳が続く
見番横丁神楽坂三丁目全長約100m。芸者の手配や稽古を行う見番が沿道にあることから名付けられた。いまも稽古場から三味線の音が聞こえることがあるという
芸者小道神楽坂三丁目見番横丁から銭湯の脇の階段を下る小道。芸者衆が上り下りした道が名の由来とされる
本多横丁神楽坂三丁目全長約100m。江戸中期から明治初期に旗本の本多家の屋敷があったことが名の由来とされる

こうした路地の景観を守る動きは、行政も進めている。新宿区は神楽坂三・四・五丁目地区で2007年(平成19年)に地区計画を定め、2011年に本多横丁沿道、2020年(令和2年)7月に兵庫横丁沿道、2023年(令和5年)8月に見返り横丁とかくれんぼ横丁について、「路地景観の保全と防災性の向上」を目的にルールを加える変更をしている。2023年の変更案の資料は、風情ある路地景観を守りながら建て替えを進めて防災性を高めるため、容積率などの制限緩和と、3項道路を使った新たなまちづくりルールを検討してきたと説明している。

石畳が敷かれた神楽坂の細い路地。両側に塀が続いている
神楽坂の石畳の路地(2006年4月撮影。個別の路地名までは確認できていない)
撮影・作者: Kazuhiko Maeda from Tokyo, Japan / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons

神楽坂の花街の今|料亭4軒、芸妓16名

神楽坂の花柳界は、いまも続いている。地域の歴史を紹介する資料によれば、2023年(令和5年)12月現在、組合には料亭4軒と芸妓16名が所属している。東京の花街は新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、向島の六花街とされるが、どこも規模は小さくなった。東京の花街の全体像は、新橋・柳橋と東京六花街の記事も参照してほしい。

町の姿も変わった。1999年の秋、神楽坂五丁目に高さ95メートル、31階建て全290戸の高層マンションを建てる計画が明らかになり、花街の雰囲気を壊すとして住民の一部が反対運動を起こした。計画は高さ84メートル、26階建てに縮小して着工された。この出来事をきっかけに、街並みの保全を考える建築家や商店主らが集まり、2003年4月にNPO法人が東京都の認証を受けている。2003年以降はチェーン店やコンビニの進出が目立ち、老舗が姿を消す例もあった。2010年代以降は、ショッピングやカフェの街としての性格が強まったと百科事典は整理している。

夏には、1972年に神楽坂商店会が中心になって始めた神楽坂まつりで、阿波踊り大会が開かれる。路地の多くは住宅や飲食店と隣り合う生活の場なので、歩くときは私有地に立ち入らず、静かに通ることが求められる。

まとめ

神楽坂の花街は、寺町の門前の岡場所から育ち、明治末から花街・繁華街として栄え、関東大震災のあとには東京有数の規模になった。昭和4年には芸者552人を数え、戦後は一時にぎわったものの、1970年ごろから衰え、2023年には料亭4軒、芸妓16名になった。ただ、石畳と黒塀の路地、見番横丁、兵庫横丁といった景観は、区の地区計画によって守られている。ほかの地域の花街や旧遊廓は、関東の遊郭跡や日本の遊廓の成り立ちと全国一覧の記事で比べられる。

よくある質問

Q. 神楽坂の花街は遊廓だったのですか?
A. 遊廓とは別の花街である。花街は芸妓が宴席に出る町で、遊廓は公認の貸座敷を集めた区画をいう。ただし神楽坂は、江戸時代に寺町の門前の岡場所があった土地でもあり、そこから花街に変わったと説明される。

Q. 神楽坂の花街はいつ栄えたのですか?
A. 新宿区は明治末から花街・繁華街として栄えたと説明している。大正初めから東京有数で、関東大震災後に最大規模となり、昭和10年代の初めが最盛期だったと伝えられる。

Q. 最盛期の芸者は何人ですか?
A. 論文が引く調査では、1929年(昭和4年)に552人で、東京の花街では浅草、新橋、芳町に次ぐ4番目だった。Wikipediaは「700人以上」とするが、出典は確認できなかった。

Q. いまも芸妓はいますか?
A. いる。2023年12月現在、組合には料亭4軒と芸妓16名が所属している。昭和初期と比べると大きく減っている。

Q. 兵庫横丁の名前の由来は?
A. 戦国時代に牛込城の武器庫があった場所という伝承によるとされる。あくまで言い伝えで、史料での裏づけは今回確認できなかった。

Q. どこから歩くと路地をたどりやすいですか?
A. 三丁目の見番横丁、芸者小道、かくれんぼ横丁、四丁目の兵庫横丁などが、坂の右手に点在している。現地は住民の生活の場でもあるため、案内表示や地元のルールに従ってほしい。

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Kabacchi 撮影(CC BY 2.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: Kazuhiko Maeda from Tokyo, Japan 撮影(CC BY 2.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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