伊勢・古市遊廓とは?精進落としの歴史・場所・跡地の今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

三重県伊勢市の古市(ふるいち)は、伊勢神宮の外宮と内宮のあいだにある丘に栄えた歓楽地で、お伊勢参りの旅の終わりに「精進落とし」をする場所として知られた。江戸時代には、遊女屋や芝居小屋が並び、参宮の旅人でにぎわった。この記事では特定の店や営業には触れず、古市がどう生まれ、どれほど栄え、どう衰え、いまは何が残っているのかを、辞典や伊勢市・三重県の観光情報、百科事典の記述など、資料で確認できた範囲で整理する。

伊勢・古市遊廓とは

外宮と内宮のあいだの丘お伊勢参りの精進落としの場天明期に妓楼70軒、遊女約1,000人1796年の油屋騒動と歌舞伎1945年の空襲で壊滅資料館と比翼塚が跡地に残る
目次

古市とは|場所と基本

古市は、伊勢神宮の参宮街道が通る台地の上にある。外宮と内宮の中ほどにあたる古市丘陵を指すことが多く、「間(あい)の山」と呼ばれる一帯の沿道だ。地名は、もとここに市が開かれていたことに由来するとされる。江戸時代以前は丘の上で水利が悪く、民家もほとんどなく、近くの楠部郷に含まれていた。この土地が歓楽街に変わったのは、お伊勢参りの参拝客が増えたことが大きい。

江戸時代の古市は、辞典によれば、外宮から内宮に至る間の山の旧道沿いの集落で、二見や朝熊方面に向かう道との分岐点にもあたり、旅籠や妓楼が軒を並べていた。「遊廓」と呼ばれることが多いが、幕府が公認した遊廓ではなく、茶屋町として営業を認められた遊里だった。公認の遊廓や、そのほかの色街との言葉の違いは、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いの記事に整理してある。

お伊勢参りと精進落とし

伊勢参りの参拝者は、江戸時代に大きく増えた。江戸の初めは年に2、3万人ほどと推定され、江戸中期には年に20万〜40万人に上ったという。さらに、およそ60年おきに数百万人規模の集団参詣「お蔭参り」が起こった。1705年(宝永2年)は2か月で330万〜370万人、1771年(明和8年)は200万人、1830年(文政13年)は約427万人と推定されている。街道沿いには宿や遊興施設が整い、伊勢参りは信仰の旅であると同時に、観光の旅にもなっていった。

「精進落とし」は、もともと寺社の巡礼や神事など、精進潔斎が必要な行事が終わったあと、肉や酒をとり、ふだんの暮らしに戻ることをいう。伊勢参りでは、道中で身を慎んでいた参拝者が外宮と内宮の参拝を終えたあとに、古市で宴を開き、遊んだ。古市が外宮と内宮のあいだに栄えたのは、この習わしが背景にある。三重県の観光情報は、古市のことを、京都の島原、江戸の吉原と並ぶ、お伊勢参りの精進落としの場だったと紹介している。

伊勢・古市の歩みを江戸前期から1945年までまとめた年表
伊勢・古市の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

茶屋から大遊里へ|江戸時代の繁栄

江戸時代の前期、古市には茶立女や茶汲女と呼ばれる女性を置く茶屋が現れた。元禄年間(1688〜1703年)のころには、高級な遊女を抱える大きな店もできはじめた。最盛期とされる天明年間(1781〜1789年)には、妓楼が70軒、遊女が約1,000人、浄瑠璃小屋が数軒という規模だったと、Wikipediaは記している。同じ記述は、1794年(寛政6年)の大火でも古市は被害を受けたが、かえって妓楼の数は増えたとも伝える。ただし、天明期と寛政期の前後関係までは、今回の調査で確認できなかった。

日本大百科全書は、遊廓、茶店、旅館が800軒もあったと説明する。当時は「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳が詠まれたほど、にぎやかだったという。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも古市が登場する。江戸時代末には、北は倭町から南は中之町まで、妓楼や酒楼が並んでいた。主な大きな妓楼には、備前屋、杉本屋、油屋、千束屋などがあった。観光案内などは、吉原や島原と並ぶ「三大遊廓」と呼び、さらに大坂の新町、長崎の丸山を加えて「五大遊廓」と呼ぶ場合もある。ただし、これは通称であり、幕府の公式の格付けではない。

江戸時代の木版画。広間に並んだ人々が踊る古市の様子が見開きで描かれ、右側に解説文が添えられている
『伊勢参宮名所図会』巻4「古市」(蔀関月画、1797年)。江戸時代の古市の座敷のにぎわいを描いた挿絵
蔀関月 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

伊勢音頭と伊勢歌舞伎

古市は、芸能の町でもあった。大きな妓楼の一つ、備前屋では、大広間で遊女が「伊勢音頭」を唄い踊る総踊りが名物だった。伊勢音頭は、本来は古市の遊廓で遊女が唄い踊るための音曲を指す言葉で、のちに全国に広まった民謡の名にもなった。『神境秘事談』によれば、享保17年(1732年)に古市の遊廓の数軒が名古屋の西小路に出店を開いたとき、客寄せに座敷で出した「川崎音頭」が、古市の伊勢音頭の元になったという。参拝者は、これを「荷物にならない伊勢土産」として各地へ持ち帰ったと伝わる。また、古市では伊勢歌舞伎が盛んで、役者の登竜門として知られ、七世市川團十郎や五世松本幸四郎、三世尾上菊五郎といった名優も舞台を踏んだとされる。江戸や上方へ出る前に、まず古市で名を挙げようとする役者も多かった。

古市の備前屋の座敷で、大勢の女性が並んで伊勢音頭を踊る浮世絵
歌川国兼『古市びぜん屋伊勢音頭おどり之図』(1820年代)。古市の大きな店、備前屋の伊勢音頭の踊りを描いた浮世絵(ボストン美術館蔵)
Utagawa Kunikane / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

油屋騒動|歌舞伎になった事件

古市の名を全国に広めた出来事が、1796年(寛政8年)の油屋騒動である。旧暦の5月4日(新暦では6月9日)の深夜、古市の油屋で客が刀を振るい、9人が斬られて3人が亡くなった。油屋は古市のなかでも大きな店で、部屋持ちの遊女だけで24人を数えたという。この事件は参拝客によって瞬く間に日本中に伝わり、わずか10日後には松阪の芝居で取り上げられ、7月には大坂で『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)として上演されて評判になった。この作品は、近代以降も上演回数の多い演目になっている。

古市の地元では、事件を美化した芝居をなかなか受け入れられなかったとされ、古市で初めて上演されたのは事件から33年後の1829年(文政12年)だった。このとき主役を演じた役者が、大林寺に、事件で名の知られた遊女のお紺の墓を建てて供養したと伝わる。大林寺には、その左隣に事件の加害者とされる医師の墓もあり、2つの墓は「比翼塚」と呼ばれる。

年出来事
江戸前期茶立女を置く茶屋が現れる
1688〜1703年元禄のころ、高級な遊女を抱える大店ができはじめる
1781〜1789年天明のころが最盛期。妓楼70軒、遊女約1,000人とされる
1794年大火。かえって妓楼が増えたという
1796年油屋騒動。大坂で『伊勢音頭恋寝刃』が上演される
1829年古市の芝居で、題を変えて『伊勢音頭恋寝刃』が初めて上演される
1872年貸座敷33軒、娼妓640人
明治期古市の丘を迂回する道路が整備され、繁華街の中心が新しい道に移る
1930年代貸座敷22軒、娼妓135人に減る
1945年空襲で、残っていた芝居小屋や遊廓が壊滅する
歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』の一場面を描いた浮世絵。左上に「油屋」の文字があり、3人の役者が描かれている
三代歌川豊国(国貞)による『伊勢音頭恋寝刃』の浮世絵(1859年、三重県総合博物館蔵)。油屋騒動を題材にした歌舞伎の場面
Utagawa Kunisada / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

明治以降の衰退と戦災

明治になると、古市の丘を迂回する道路が整備され、人の流れは新しい道に移った。Wikipediaによると、1872年(明治5年)に貸座敷33軒、娼妓640人だった規模は、昭和初期の1930年代には22軒、135人にまで減っている。1945年(昭和20年)の空襲で、残っていた芝居小屋や遊廓も壊滅した。油屋は明治に旅館として営業を続けていたが、戦火で失われ、跡地は近鉄鳥羽線の線路のために切り崩されたとされる。戦後は、自動車交通の発達で参宮の道筋から外れ、古市は住宅地になった。

伊勢市桜木町の古市街道。住宅が並ぶ静かな道が緩やかに続いている
古市街道(伊勢市桜木町、2018年2月撮影)。江戸時代まで伊勢神宮の参詣道として重要な役割を果たし、現在は地域住民の生活道路になっている
撮影・作者: Miyuki Meinaka / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
伊勢古市参宮街道資料館の外観。茶色い板張りの建物
伊勢古市参宮街道資料館(三重県伊勢市、2013年9月撮影)
撮影・作者: Miyuki Meinaka / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

跡地の今|資料館、比翼塚、街道

古市に、往時の繁栄を示すものは多くは残っていない。それでも、いくつかの場所で歴史に触れられる。

  • 伊勢古市参宮街道資料館:伊勢市中之町にある。古市の遊郭や、古市を中心に栄えた伊勢歌舞伎の資料、古市参宮街道ゆかりの資料を展示している。展示室は無料で、休館日や開館時間は三重県の観光情報などで確認できる。
  • 大林寺:伊勢市古市町にある浄土宗西山禅林寺派の寺で、1625年(寛永2年)の開創とされる。境内にお紺と孫福斎の「比翼塚」があり、供養が続いている。
  • 油屋跡の石碑:Wikipediaによると、油屋があった場所は鉄道の線路に変わり、伊勢街道の線路際に「油屋跡」の石碑が立っている。
  • 街道沿いの建築:斜面に建てられた江戸時代末期の懸造りの旅館建築が、本館や土蔵など5棟、国の登録有形文化財に登録されている。

伊勢市は、伊勢市駅から古市街道の大林寺、長峰神社、寂照寺、伊勢古市参宮街道資料館をめぐる約2〜3時間の散策コースを紹介している。市の案内は、古市街道を、参宮帰りの精進落としの遊里として賑わった街道と説明する。現在は住宅や寺院が中心の町で、高台にあるため徒歩での移動は多少きつい。見学の際は住民の生活に配慮してほしい。近畿の旧遊廓を全体でみるには、近畿の遊郭跡の記事も役立つ。

まとめ

古市は、外宮と内宮のあいだの丘に、お伊勢参りの精進落としの場として栄えた遊里だった。江戸前期の茶屋から始まり、天明期には妓楼70軒、遊女約1,000人とされる規模になり、油屋騒動は歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』として全国に知られた。明治に道が変わって衰え、1945年の空襲で壊滅し、戦後は住宅地になった。いま残るのは、資料館、大林寺の比翼塚、油屋跡の石碑、街道沿いの寺社や建築である。ほかの地域の遊廓と見比べたい場合は、日本の遊廓の成り立ちと全国一覧や、京都の旧遊郭・花街の記事、大阪の旧遊郭・新地の記事も参照してほしい。

よくある質問

Q. 古市遊廓とはどんな場所ですか?
A. 三重県伊勢市の外宮と内宮のあいだの丘にあった遊里。お伊勢参りの旅人が精進落としをする場所として栄え、江戸時代の最盛期とされる天明のころには妓楼70軒、遊女約1,000人という規模だったとされる。

Q. 古市は幕府公認の遊廓でしたか?
A. 公認の遊廓ではなく、茶屋町として営業を認められた遊里だった。それでも大規模で、観光案内などでは吉原や島原と並ぶ「三大遊廓」と呼ばれる。

Q. 精進落としとは何ですか?
A. 精進潔斎が必要な行事を終えたあとに、肉や酒をとり、ふだんの暮らしに戻ること。伊勢参りでは、外宮と内宮の参拝後に古市で宴を開くのが習わしになっていた。

Q. 油屋騒動とは何ですか?
A. 1796年に古市の油屋で客が刀を振るい、9人が斬られ3人が亡くなった事件。同じ年の7月に『伊勢音頭恋寝刃』として芝居になり、全国に知られた。

Q. 古市遊廓はいつ終わりましたか?
A. 明治以降に徐々に衰え、1945年の空襲で残っていた遊廓や芝居小屋が壊滅した。戦後は住宅地になった。

Q. いま何が残っていますか?
A. 伊勢古市参宮街道資料館、大林寺の比翼塚、油屋跡の石碑、街道沿いの寺社や懸造りの旅館建築などがある。繁栄を示すものは多くは残っていない。

参考にした資料

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Miyuki Meinaka 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: Miyuki Meinaka 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
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