群馬の遊廓とは?廃娼県の歴史と前橋・高崎の色街の跡と今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

全国の旧遊廓を並べると、群馬県の名前はほとんど出てこない。理由は、群馬が明治のうちに公娼制度を廃止した「廃娼県」として知られるからだ。ただし、制度上の廃止と、実際に売春がなくなったことは別の話だった。県内には料理店の形をとった「乙種料理店」が広がり、前橋と高崎は、その中心だったとされる。この記事では特定の店舗や営業には触れず、群馬の廃娼の経緯と、前橋・高崎の色街の跡について、公的な資料や研究論文で確かめられた範囲だけ整理する。個人の調査サイトに頼る数字は、本文でそのつど断る。

群馬の遊廓・色街のポイント

1882年に県会が娼妓廃絶を建議廃娼の実施は1893年末とされる(1894年初めとする資料も)実態は「乙種料理店」の私娼前橋は榎町・紺屋町・萱町高崎は軍都の柳川町1958年に赤線が終わる
目次

この記事の読み方|廃娼県・乙種料理店とは

「廃娼」とは公娼制度、つまり国や府県が営業を認めて管理した売春を、制度として廃止することだ。群馬県は全国に先駆けてこれを決めたため、廃娼県と呼ばれる。一方「乙種料理店」は、芸妓や酌婦を置いて客をもてなす料理店のうち、実質的に性売買の場になっていたものを指す。歴史民俗博物館の研究報告は、廃娼を実行した後の群馬県で、実質的な性売買の場になっていたのが乙種料理店だったと整理している。用語の整理は遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いに、戦後の制度は赤線・青線の戦後史にまとめてある。

群馬の廃娼と色街の年表

年出来事
1879年6月貸座敷の営業のあり方を改める建議が出される(最初の廃娼建議とみられている)
1880年12月廃娼の請願書が出される
1882年2〜3月伊香保温泉場の廃娼を求める建議(2月)、県会が「娼妓廃絶ノ建議」を決議(3月)
1888年6月県令が、この月かぎりで廃止するという布達を出す
その後後任の知事が廃止を延期。県会が再び廃止を決議し、知事は免官となる
1893年末廃娼が実現する(1894年1月1日とする資料もある)
1907年4月高崎に遊廓を設ける噂が出るが、廃娼県は維持される
1925年県技師の高木乙熊が『花柳病予防ニ関スル報告』をまとめる
1945年8月5〜6日前橋空襲。市内2万871戸のうち1万1460戸が全焼
1958年4月1日売春防止法の全面施行。前橋・高崎の赤線が終わる
1966年10月1日前橋の榎町・紺屋町・萱町などが千代田町や三河町に再編される
群馬の廃娼と前橋・高崎の色街の年表(1879年の建議から1958年の赤線終了まで)
群馬の廃娼と前橋・高崎の色街を、本文の年号だけで整理した年表。

なぜ群馬は廃娼県になったのか

群馬の廃娼運動は、自由民権運動が盛んな時期に、県会を舞台に進んだ。大阪大学の林葉子の博士論文によれば、先行研究は最初の廃娼建議を1879年6月の貸座敷に関する建議とし、1880年12月の請願書、1882年2月の伊香保温泉場に関する建議、同年3月の「娼妓廃絶ノ建議」を、県会と民間の動きを示す史料として重視してきた。同じ論文は、これらの建議に、売買春そのものを人権の侵害とみる考えはまだ見られず、男性を遊びに誘う存在として芸妓や娼妓を排除する発想が強かった、と先行研究が指摘していることも紹介している。つまり、現代の感覚の廃娼運動とは動機が違っていた。

伊香保温泉の建議は、時代の空気をよく示す。論文によれば、伊香保村の木暮篤太郎は、温泉場に妓楼が雑居し、娼婦と浴客が同じ湯に入る状態を問題にして、温泉の地は衛生を守り、病院のように静かであるべきだと訴えた。外国人にこの状態を笑われることも理由に挙げている。廃娼は、人権の問題というより、風紀と衛生、体面の問題として語られていた。医師の斎藤寿雄も、はじめは検黴制度を支持する立場だったが、のちに廃娼を支持するようになった。

建議を受けて、県令は1888年6月かぎりで廃止するという布達を出した。しかし後任の知事が廃止を当分延期したため、県会は再び廃止を決議し、知事は県会の解散を経て免官となった。最終的に廃娼が実現したのは1893年末とされ、1894年1月1日から断行されたとする資料もある。この間、県会議員の湯浅治郎らのほか、医師の斎藤寿雄らが運動を進めた。廃娼が決まった後も、遊廓の復活を求める動きは続いていた。

1907年4月、高崎市下和田町に遊廓を設ける県令が出るという噂が広がると、高崎の歩兵第15連隊の連隊長が、公娼を置くにしても兵営から離すべきだと表明した。日露戦争後には、兵営のある土地に遊廓を求める動きが各地で起こっており、高崎だけでなく前橋でも公娼の設置運動が起きたが、各方面からの批判によって群馬は廃娼県のまま保たれた。論文は、前橋婦人矯風会が活動し、同年5月21日の矯風大演説会に1,000人が集まったことも記す。

乙種料理店の実態

制度の上では公娼がなくなっても、売春そのものはなくならなかった。歴史民俗博物館の研究報告は、県技師の高木乙熊が1925年にまとめた『花柳病予防ニ関スル報告』をもとに、乙種料理店が性売買の場になっていたこと、梅毒の広がりが中山道と宿場町の位置、乙種料理店の配置に左右されたと指摘する研究を紹介している。個人の調査サイトによれば、昭和初期の県内には52か所に乙種料理店348軒、酌婦855人があり、酌婦の43%が高崎と前橋に集まっていたという。この数字の出典は確認できていない。

前橋の色街|榎町・紺屋町・萱町

前橋の乙種料理店は、城下町以来の町人町だった榎町、紺屋町、萱町に集まっていたとされる。個人の調査サイトは、昭和初期の『前橋観光案内』に「榎町・紺屋町の所謂下の町に五十軒から、酌婦約百二十名」とあることを紹介する一方、1939年の『前橋商工人名録』には乙種料理店が17軒しか載らないとも書く。非公認に近い営業の数字は、資料ごとにここまで食い違う。

1945年(昭和20年)8月5日の夜から6日未明にかけて、前橋はB29による空襲を受けた。Wikipediaの「前橋空襲」によれば、市内2万871戸のうち1万1460戸が全焼し、535人が亡くなった。榎町・紺屋町・萱町を含む中心部も被災したとみられる。戦後、終戦直後の警察資料では前橋の乙種料理店は24軒・酌婦26人で、昭和20年代後半には「特殊喫茶」31軒がほとんど紺屋町に固まっていたと個人サイトは伝える。1958年の売春防止法で赤線は消えた。制度の背景は売春防止法の成立と全面施行の記事で扱っている。

跡地の今を知る手がかりは、町名だ。榎町・紺屋町・萱町は、1966年(昭和41年)10月1日の住居表示で、千代田町四丁目・五丁目や三河町一丁目の一部になって姿を消した。千代田町は、前橋の中心商店街や美術館のある一帯で、色街の面影を示す碑や案内板は確認できなかった。

空襲後の前橋の市街を高所から写した白黒写真
空襲後の前橋の市街地。Wikimedia Commonsでは1945年11月の写真とされる(毎日新聞社『一億人の昭和史 日本占領2』より)。
パブリックドメイン / Wikimedia Commons
前橋市の比刀根橋防空壕跡地に設けられた前橋空襲追悼碑
比刀根橋の防空壕跡地に設けられた前橋空襲追悼碑(2023年6月撮影)。
撮影・作者: こやまひろ / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

高崎の色街|軍都の柳川町

高崎は、1884年(明治17年)に歩兵第15連隊の編成が始まった軍都で、連隊は高崎城の跡地に置かれた。軍隊のある町には色街ができやすく、柳川町は、花街と私娼街が集まる遊興地だったとされる。柳川町は旧高崎城の北郭に位置し、1873年(明治6年)に町名がつき、地内の用水の岸にあった柳の大木が名の由来だという。個人の調査サイトによれば、終戦直後の警察資料に柳川町の乙種料理店は10軒・酌婦18人とあり、これも前橋より小さい数字だ。

いまの柳川町は、2017年8月末の時点で231世帯・409人の小さな町で、飲食店の並ぶ一帯として知られる。個人の踏査記録は、映画館の跡の裏手や古い建物の連なる路地に往時の雰囲気が残ると書くが、現在の建物の大半は普通の飲食店や住宅だ。公的な碑や案内板は確認できなかった。

大正から昭和初期の陸軍歩兵第15連隊本部の門前を写した白黒写真
大正〜昭和初期の陸軍歩兵第15連隊本部(国書刊行会『写真集 明治大正昭和 高崎』より)。連隊は高崎城の跡地に置かれた。
パブリックドメイン / Wikimedia Commons
高崎城の乾櫓(いぬいやぐら)
高崎城の乾櫓(2007年12月撮影)。城の跡地には歩兵第15連隊が置かれた。
撮影・作者: kamoseiro / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

跡を歩くときの注意

前橋の千代田町も高崎の柳川町も、いまは人が暮らし、商売をしている町だ。色街の跡を探す目的で住宅や店先を撮影したり、中をのぞいたりするのは避けたい。確かめられるのは、旧町名の変遷や、町の成り立ちといった公的な記録が中心になる。

まとめ

群馬は、1882年に県会が廃娼を建議し、1893年末に実施へ至った、全国でも早い廃娼県だった。しかし実態は、乙種料理店という形で私娼が続き、前橋では榎町・紺屋町・萱町、高崎では軍都の柳川町が中心になったとされる。1907年には遊廓の設置運動を退け、廃娼県のまま戦後を迎え、赤線は1958年に終わった。乙種料理店の軒数や酌婦の数は個人サイトの引用に頼る部分が大きく、確かな数字は『前橋市史』『新編高崎市史』『群馬県史』などの原典で確かめる必要がある。

よくある質問

Q. 群馬県に遊廓はなかったのですか?
A. 廃娼県になる前は貸座敷の営業が認められていたが、1893年末に廃娼が実現し、公認の遊廓はなくなった。ただし、実態として乙種料理店で売春が続いたとされる。

Q. 群馬の廃娼はいつ決まったのですか?
A. 県会が「娼妓廃絶ノ建議」を決議したのは1882年3月で、廃止の布達を経て、実現したのは1893年末とされる。1894年1月1日とする資料もある。

Q. 乙種料理店とは何ですか?
A. 料理店の名目で芸妓や酌婦を置き、実質的に性売買の場になっていた店を指す。群馬県では廃娼の後も、前橋や高崎などに広がっていたとされる。

Q. 前橋の色街はどこにありましたか?
A. 榎町・紺屋町・萱町の一帯とされる。1966年の住居表示で、千代田町四丁目・五丁目や三河町一丁目の一部になった。

Q. 高崎の柳川町とは?
A. 旧高崎城の北郭にあった町で、戦前から花街や私娼街が集まった遊興地だったとされる。現在は飲食店の並ぶ小さな町になっている。

参考にした資料

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: こやまひろ 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: kamoseiro 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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