鹿児島の遊廓・沖之村(常盤遊廓)とは?歴史・場所・今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。

鹿児島市で「遊廓」と言えば、天文館や山之口の繁華街ではなく、市の南寄り、甲突川の河口に近い甲突町(こうつきちょう)の一帯を指す。かつて「沖之村(おきのむら)」と呼ばれ、「常盤(ときわ)遊廓」の名で営業した、鹿児島県内で唯一の公許の遊廓だ。この記事では、営業や利用には触れず、成立の経緯、『全国遊廓案内』の数字、戦災、終わり、いまの街の姿を整理する。鹿児島の遊廓は公的な資料が少なく、百科事典的な記述と個人の探訪記に頼る部分が多いため、出典の食い違いや確認できなかった点は明記した。

鹿児島の遊廓(沖之村・常盤遊廓)の要点

鹿児島県内で唯一の公許の集娼地1889年に免許を得て市内に散在、1899年に現在地へ1930年の『全国遊廓案内』は23軒・娼妓353人鹿児島市は1945年の8回の空襲で市街地の約93パーセントが焼失1958年の売春防止法で終わり、地名は甲突町に
目次

沖之村・常盤遊廓とは|場所と名前

遊廓があったのは、現在の鹿児島市甲突町。JR鹿児島駅と鹿児島中央駅のほぼ中間にあたる、市街地の南寄りだ。1930年(昭和5年)の『全国遊廓案内』は「鹿兒島常盤遊廓」と呼び、所在地を塩屋町と記す。この一帯は江戸時代の1627年(寛永5年)に武村から分かれた塩屋村で、地名は塩田に由来する。1889年(明治22年)の市制施行で大字「塩屋」となり、1911年(明治44年)に塩屋町と改まり、谷山市に同名の町があったため1967年(昭和42年)に甲突町と改称された。

「沖之村」は、地元の呼び名だ。個人ブログの記録では、遊廓の入口にあたる交差点の角、昭和初期からある派出所のわきに「沖之村跡」の碑があるとされ、「おっのむら」と読むようだと紹介されている。南は甲突川、北は清滝川が境で、清滝川には「思案橋」が架かる。遊びに行くか帰るかを思案した橋という由来で、全国の遊里の入口にも同じ名の橋がある。

成立|市内に散在から現在地へ

『全国遊廓案内』は、鹿児島の遊廓を次のように説明している。1889年(明治22年)4月に初めて貸座敷業の許可を得た業者が、市内の春日町、浜町、向江町などに散在して営業を始めた。その後、1899年(明治32年)9月30日に鹿児島停車場が設置されることになり、現在の場所へ移って一つの廓をなした。Wikipediaの「甲突町」の項は、1899年10月の開業とし、県内唯一の公許の集娼地だったと記す。

移転前の場所は、資料によって違う。Wikipediaは、前身の築地遊廓が鹿児島駅の候補地になったため移転したとする。低湿地だった塩田を4〜5尺(約1.2〜1.5メートル)ほど埋め立てて造成したともいう。一方、『全国遊廓案内』は市内に散在していたと書く。築地遊廓説にはWikipediaに個別の出典が示されておらず、どちらが正確かはこの記事では確かめられなかった。鹿児島駅は1901年(明治34年)6月10日、国有鉄道の駅として開業し、当時は市街地の最も北に置かれた。

「江戸時代から沖之村と呼ばれる遊郭があった」と書く探訪記もあるが、年代の根拠が示されておらず、この記事では確認していない。公許の遊廓としての常盤遊廓は、少なくとも1899年に現在地で始まったと整理しておくのが安全だ。制度の背景は、中国・四国の遊郭跡一覧や、九州各県を扱う九州・沖縄の遊郭跡一覧も参照してほしい。

川瀬巴水の木版画「鹿児島甲突川」
川瀬巴水「日本風景選集 鹿児島甲突川」(大正11年=1922年出版)。遊廓の南を流れる甲突川を描いた作品で、遊廓そのものを描いたものではない。
川瀬巴水 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

『全国遊廓案内』が伝える規模

1930年の『全国遊廓案内』が載せる数字では、開業当時は13楼だったものが23軒に増え、娼妓は353人となっている。多くは鹿児島県内の出身者だったという。営業方式は、娼妓がそこに住み込んで営業する居稼ぎ制で、他の遊廓に多い送り込み制ではなかった。最盛期には23軒の妓楼が並び、300〜400人の娼妓がいたと、Wikipediaは記す。案内書は、肥薩線の鹿児島駅から南へ約三十丁(約3.3キロ)の場所にあり、乗合自動車は思案橋、市電は新屋敷で降りると便利だと書いている。

項目内容
所在地鹿児島市塩屋町(現在の甲突町)
名称常盤遊廓(通称・沖之村)
移転1889年に市内で許可、1899年に現在地へ
規模(1930年)23軒、娼妓353人
営業方式居稼ぎ制
終わり1958年(売春防止法の全面施行)
1945年6月17日、B-29の空襲で燃える鹿児島市の樽見座地区の航空写真
1945年6月17日、B-29の空襲で燃える鹿児島市(米陸軍航空軍撮影。Commonsの説明は「Tarumiza district」)。遊廓のあった甲突町の写真ではない。
USAAF Photographer / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

鹿児島の空襲と、その後の赤線

総務省の戦災記録によると、鹿児島市が直接の攻撃目標になったのは、1945年(昭和20年)3月18日から8月6日までの計8回の空襲だ。6月17日の空襲だけで死者は2,316人、被災戸数は11,649戸にのぼり、7月27日には鹿児島駅が1トン爆弾の被害を受けた。8回の空襲で死者は3,329人、全焼の建物は2万497戸、市街地の約93パーセントが焼けた。沖之村の一帯が空襲でどれだけ被害を受けたかは、この記事では確認できなかった。

戦後、この遊廓は赤線として営業を続けたとされる。1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で公娼の歴史は終わった。法の流れは売春防止法(1956年)の記事に、赤線の仕組みは赤線・青線とは?戦後の歴史にまとめてある。

「山之口」の遊廓だったのか?

鹿児島の遊廓を「山之口遊廓」と呼ぶ話を目にすることがあるが、資料で確認できる遊廓は、前述のとおり沖之村・常盤遊廓だ。山之口町は、江戸時代は鹿児島城下の士屋敷が並ぶ「山之口馬場町」で、1899年(明治32年)に山之口町と改称された。Wikipediaの「山之口町」の項には、大正期に映画館が次々に開館し、千日・天文館・山之口の各市場が開かれて発展した経緯が書かれているが、遊廓についての記述はない。繁華街のイメージと遊廓の跡地が混同されている可能性があるので、注意したい。

今の姿|甲突町に残る面影

Wikipediaの「甲突町」の項は、遊廓の遺構は残っていないと書く。一方、個人の探訪記は、赤線時代の建物がわずかに残る様子を伝えている。2014年の記録は、美容室として使われるカフェー建築や、車庫の上に波打つ外壁とタイル模様が残る建物、2階に六角形の窓をもつ空き家などを紹介した。2018年の記録は、幾何学模様の見事なモザイクタイルが残る一方、カフェー建築の跡地が更地になっていたと伝える。2024年の記録でも、探していたカフェー建築が数件取り壊されていたという。

現在、県内で性風俗営業が許される区域は甲突町8番街区とされるが、遊廓の区域の外にあり、直接の後身ではないとWikipediaは注記している。遊廓の跡と現在の営業を同じものとして扱うことはできない。ここは住宅やマンションが並ぶ住宅地でもあり、暮らしている人がいる。外から静かに歩き、写真は近隣の迷惑にならない範囲にとどめたい。地区の営業の中身にはこの記事では触れない。

鹿児島の遊廓(沖之村・常盤遊廓)の年表。1889年の貸座敷許可から1967年の町名改称まで7項目
鹿児島の遊廓の年表(本文の年号をもとに作成。年号は資料により前後する場合があります)

鹿児島の遊廓の年表

年出来事
1627年塩屋村が武村から分かれて成立
1889年4月貸座敷業の許可。市内の春日町・浜町・向江町などに散在
1899年9月30日鹿児島停車場の設置が決まり、現在の場所へ移る(『全国遊廓案内』)
1899年10月常盤遊廓(沖之村)が開業(Wikipedia)
1901年6月10日鹿児島駅が開業
1930年『全国遊廓案内』が23軒・娼妓353人を載せる
1945年3〜8月鹿児島市が8回の空襲。死者3,329人
1958年売春防止法の全面施行。公娼の歴史が終わる
1967年塩屋町が甲突町に改称

まとめ

鹿児島の遊廓は、1889年の免許から始まり、1899年の鹿児島駅の計画にともなって現在の甲突町(旧塩屋町)へ移った常盤遊廓だった。鹿児島県内で唯一の公許の集娼地で、1930年の『全国遊廓案内』は23軒、娼妓353人を載せる。1945年の空襲で市街地の大半が焼けたあと、赤線を経て、1958年の売春防止法の全面施行で終わった。いまは思案橋や碑、わずかなタイル建築が面影を伝えるだけで、その数も減っている。移転前の場所や江戸時代の起源など、確認できなかった点も多い。全国の位置づけは日本の遊廓の成り立ちと一覧から読める。

よくある質問

Q. 鹿児島の遊廓はどこにありましたか?
A. 現在の鹿児島市甲突町(旧塩屋町)にあった。「沖之村」「常盤遊廓」と呼ばれ、南は甲突川、北は清滝川の間にあたる。入口の清滝川には思案橋が架かる。

Q. いつからありましたか?
A. 1889年(明治22年)4月に貸座敷業の許可が出て、市内に散在して営業を始めた。1899年(明治32年)に鹿児島駅の設置を受けて現在の場所へ移ったと『全国遊廓案内』は記す。

Q. どれくらいの規模でしたか?
A. 1930年の『全国遊廓案内』が23軒、娼妓353人を載せる。開業当時は13楼だったという。最盛期は300〜400人とも書かれている。

Q. 山之口に遊廓があったのですか?
A. 資料で確認できる遊廓は甲突町の沖之村・常盤遊廓で、山之口町に遊廓があったという記述は確認できなかった。山之口町は江戸時代の士屋敷が並ぶ町で、大正期に映画館や市場で栄えた。

Q. 当時の建物は残っていますか?
A. Wikipediaは遺構なしとするが、個人の探訪記は、わずかなカフェー建築やタイルの建物を伝えている。ただし取り壊しが進み、状況は変わっていく。

Q. いつ終わりましたか?
A. 1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で、公娼としての歴史が終わった。

参考にした資料

  • Wikipedia「甲突町」(沖之村遊廓、町名の変遷。該当ページ)
  • 総務省「鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県)」(1945年の8回の空襲、死者3,329人。該当ページ)
  • Wikipedia「鹿児島駅」(1901年の開業と当時の位置。該当ページ)
  • Wikipedia「山之口町 (鹿児島市)」(山之口馬場町、1899年の改称。該当ページ)
  • 全国遊廓赤線マップ「常盤遊廓(沖之村遊郭)」(『全国遊廓案内』の記述の引用を含む個人サイト。該当ページ)
  • 古今東西舎「鹿児島(沖之村遊廓跡地)現在の甲突町。思案橋。」(碑・橋の様子。該当ページ)
  • 個人ブログの探訪記(街並みの現状の参考。Nostalgic Landscape、KURUWA.PHOTO、寄る辺ない旅のブログ)
  • 日本遊覧社『全国遊廓案内』(1930年)、芳即正『かごしま・くるわ物語』などは、上記の記事などでの引用による

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