三国の遊郭とは?出村遊里・小女郎と北前船の湊町の歴史・場所・今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や人数は資料によって異なる場合があります。現地は住民が暮らす生活の場です。

三国湊は、福井県坂井市三国町にある九頭竜川河口の港町だ。江戸時代には日本海を行き来する北前船が寄港し、豪商の屋敷や蔵が並んだ。その湊町には、江戸にまで名が伝わったとされる遊里があった。三国の遊里の中心は、丸岡藩領だった滝谷出村にあり、最高位の遊女は「小女郎(こじょろう)」と呼ばれて、京の島原の太夫にたとえられた。この記事では営業の案内ではなく、三国の遊里がなぜ生まれ、どのように栄えて衰えたのか、そして現在の町並みに何が残っているのかを、確認できた範囲で整理する。

三国の遊里の要点

北前船が寄港した九頭竜川河口の湊町遊里の中心は丸岡藩領の滝谷出村最高位の遊女は「小女郎」遊女俳人の哥川(かせん)藩境の思案橋が今も残る旧市街に国登録文化財が集中
目次

三国湊とは|場所と北前船

三国湊は、九頭竜川が日本海に注ぐ河口に開けた港だ。坂井市の資料によれば、中世・戦国時代には「三津七湊」と呼ばれた全国10か所の重要な湊のひとつに数えられていた。江戸時代に北前船の航路が整うと、日本海沿岸の寄港地のひとつとして栄えた。北前船の寄港地・船主集落は日本遺産に認定されており(2017年度に認定、2018年度に追加認定)、福井県内では坂井市もその認定自治体に含まれる。

近世の三国湊は、17世紀中ごろの正保期(1640年代)までに形成された初期の町「三国」と、それ以後に開発された「新町」に大きく分かれていた。湊の自治は問丸(といまる)と呼ばれる有力商人が担い、戦国期から続く森田家などの豪商が回船業で力を持った。上流で作られた石材や越前の産物が九頭竜川の水運で集まり、ここから日本海沿岸各地へ運ばれた。人とお金と情報が集まる港に遊びの場ができるのは全国の湊町に共通することで、三国もその例のひとつだった。

丸岡藩領の茶屋町|出村遊里の成り立ち

三国湊の大部分は福井藩(越前藩)の領地で、その一部が丸岡藩の領地だった。坂井市の資料は、この丸岡藩領の部分を「茶屋町・三国遊郭」と記している。滝谷(たきだに)出村は、滝谷寺の門前の農村から分かれた出村(枝村)で、福井藩の湊と丸岡藩の領地が接する藩境にあたる。藩境に架かる小さな橋が「思案橋(しあんばし)」で、橋のそばには福井藩の川口番所があった。遊里へ行くか引き返すかで迷う人が多かったことが橋の名の由来と伝えられる。

遊里は出村だけでなく、松ヶ下や上新町などにもあったとされる。資料によって「出村・松ヶ下・新地」「松ヶ下・上新町・出村」と書き方に揺れがあり、各地区の範囲や成立年は今回の調査では確かめられなかった。いずれにしても、城下町の遊廓のように堀や塀で囲まれた一画ではなく、町の中に点在する茶屋街に近い景観だったと紹介されている。廻船問屋や俳諧を楽しむ町衆が集まる、サロンのような気風があったとも言われる。遊廓と遊里という言葉の違いは、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。

最高位は「小女郎」|島原の太夫にたとえられた遊女

三国の遊女のうち最高位の者は「小女郎」と呼ばれた。坂井市の資料は、これを京都島原の太夫にあたる格として説明している。三国の民謡「三国節」には「江戸の花魁、三國の小女郎」という一節があり、吉原の花魁と並べて三国の名が歌い込まれている。遊女たちは歌や俳諧、書などの教養を備えていると評判で、回船業で財を成した船主や商人、文人をもてなしたとされる。

この遊里は、芝居の題材にもなった。坂井市の資料は、元禄12年(1699年)に近松門左衛門が書いた「けいせい仏の原」を、三国遊郭の小女郎をめぐる物語として挙げる。同じ資料は、玉屋新兵衛と三国小女郎の物語も、よく知られた題材だと記す。三国の遊里が日本海側でも規模が大きく、文化作品や歌舞伎の舞台になったという説明だ。同じ資料に引かれた江戸中期の記録には「家数三百七十、傾城八十五人」とある。ただし、これが遊里全体の数なのか、年はいつなのかは、今回の資料からは読み取れなかった。

遊女俳人・哥川|俳諧に親しんだ町人文化

三国では、江戸前期から俳諧が盛んだった。江戸中期には松尾芭蕉の高弟の去来が三国を訪れて句を残し、商人たちの教養は遊び相手の遊女にも広がって、優れた俳人が現れた。その代表が哥川(かせん)だ。通称を豊田屋ぎんといい、出村の抱え遊女として暮らしながら、永正寺の住職だった永言(俳名は杉原巴浪)に俳諧と書を学んだ。「奥底のしれぬ寒さや海の音」という句がよく知られ、加賀の千代女ら各地の俳人とも交流したと伝わる。

哥川について、Wikipediaは次のような経歴を伝える。遊女の年季が明ける約3年前に、ある客の誘いで江戸へ出て、約100日滞在し、江戸の俳人たちと交わった。年季の途中で長く遊里を離れるのは異例のことで、背景には、店主との関係や、三国の遊里の自由な気風があったのではないかという見方が示されている。のちには豊田屋という遊女屋の主になり、店を二代目の長谷川に譲って出家した。瀧谷寺の境内に庵を結んで暮らし、安永5年(1776年)に亡くなって、墓は永正寺にある。句碑は妙海寺にある。遊女としての境遇は厳しいものだったが、湊町の文化の厚みを今に伝える存在として知られている。

三国の遊里の歩みを、中世から1958年までまとめた年表
三国の遊里の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

近代の衰退|築港、鉄道、漁港への転換

三国湊は明治に入ると、少しずつ商港としての力を失った。九頭竜川の土砂で港が浅くなったことから、豪商たちが県や政府に改修を求め、1876年(明治9年)にオランダ人技師エッセルが派遣された。エッセルが設計した突堤は1882年(明治15年)に完成した。日本初の近代的な港湾修築工事の跡とされ、国の重要文化財になっている。

しかし、道路や鉄道の整備が進むと、船に頼る湊の商いは減っていった。1897年(明治30年)に北陸線の福井―小松間が開通し、1911年(明治44年)には三国支線が開業する。大正に入ると動力船による底曳網漁が始まり、三国港は商港から漁港へと姿を変えた。森田家のような豪商は、回船業から倉庫業や銀行業へ転じた。湊の繁栄を支えにした遊里も、これと歩調を合わせて小さくなったとみられる。

昭和初期の『全国遊廓案内』によると、三国の貸座敷は17軒、娼妓は約60人とされる(個人の調査記事による紹介で、原典は未確認)。この制度は戦後の赤線を経て、1958年(昭和33年)の売春防止法の完全施行で終わった。制度の流れは赤線・青線の戦後史と売春防止法(1956年)の歴史で整理している。

海に向かって細長く延びる三国湊の堰堤。曇り空の下の砂浜から撮影
三国湊の堰堤(2011年9月撮影)。Wikimedia Commonsの説明では明治期の建設とされる
撮影・作者: 紫煙 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
三国港(福井港)の岸壁に並ぶ漁船
三国港(福井港)の漁船(2009年8月撮影)。大正時代に三国港は商港から漁港へ転換した
撮影・作者: 藤谷良秀 / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

今の三国|思案橋と国登録文化財の町並み

現在の三国町の旧市街には、湊町の町並みが残る。坂井市の資料によれば、市内の国登録文化財は13件(有形文化財12件、記念物1件)で、有形文化財のほとんどが三国町の旧市街に集まっている。この地区には、三国で独特とされる「かぐら建て」の町家が連なる。主なものは次のとおりだ。

名称内容
旧岸名家住宅木材商だった岸名家の住宅で、北前船の歴史を伝える建物として紹介される。国登録有形文化財
旧森田銀行本店回船業から銀行業へ転じた森田家の銀行。福井県内で最古の鉄筋コンクリート造とされる。国登録有形文化財
魚志楼(松崎家住宅)主屋ほか明治期の建築とされる料理茶屋の建物。かつて芸妓の置屋として使われたと紹介される。主屋・奥座敷・東蔵・西蔵が国登録有形文化財
三国港突堤(エッセル堤)1882年に完成した突堤。国の重要文化財
思案橋(三国町神明)丸岡藩(滝谷出村)と福井藩(三国湊)の藩境にかかる小さな橋。遊里の入口にあたった

思案橋は小さな橋で、知らないと橋とは気づきにくい。かつての遊里の建物がそのまま残っている例は多くなく、現地の様子を伝える個人の記録でも、遊郭らしい建築はほとんど残っていないと書かれている。ただ、旧芸妓置屋を使った料理茶屋の建物や、哥川ゆかりの永正寺・妙海寺など、遊里と湊町文化を結ぶ場所はいくつか確かめられる。空き町家を保存・活用する「三國湊町家PROJECT」も紹介されている。住民が暮らす町なので、見学するときは静かに歩き、私有地や建物には立ち入らないようにしたい。

三国の遊里の歴史年表

年出来事
中世・戦国期三国湊が「三津七湊」のひとつとして知られる
17世紀中ごろ(正保期まで)初期の町「三国」が形成される。以後、新町が開発される
1699年(元禄12年)近松門左衛門作「けいせい仏の原」。三国遊郭の小女郎を題材にした作品とされる
江戸中期遊女俳人の哥川が活躍。「家数三百七十、傾城八十五人」の記録が伝わる
1776年(安永5年)哥川が亡くなる
1876年(明治9年)エッセルが三国港の改修のため派遣される
1882年(明治15年)三国港の突堤が完成する
1897年(明治30年)北陸線の福井―小松間が開通する
1911年(明治44年)三国支線が開業する
大正時代底曳網漁が始まり、三国港が商港から漁港へ転換する
昭和初期『全国遊廓案内』に貸座敷17軒、娼妓約60人と記されるとされる
1958年(昭和33年)売春防止法の完全施行で、三国の遊里も終わる
2017年度「北前船寄港地・船主集落」が日本遺産に認定される(坂井市は構成自治体)

まとめ

三国の遊里は、九頭竜川河口の湊町に、北前船で集まった富と文化が生んだものだ。福井藩の湊と丸岡藩の領地の境にある出村を中心に、小女郎と呼ばれる最高位の遊女が島原の太夫にたとえられ、近松の芝居や「三国節」にも名が出た。遊女から俳人となった哥川は、遊里が俳諧文化と結びついていたことを示す。明治以降は築港と鉄道の整備で湊が衰え、遊里も1958年に終わった。いま残るのは、思案橋や登録文化財の町家、永正寺や妙海寺といった静かな場所だ。三国は、遊里の跡というより、北前船の湊町の歴史を歩いて確かめられる町と見るのがよい。全国の主な遊廓は日本の遊廓の一覧でまとめている。

よくある質問

Q. 三国の遊郭はどこにありましたか?
A. 九頭竜川河口の三国町(福井県坂井市)にあり、中心は丸岡藩領の滝谷出村だった。ほかに松ヶ下や上新町(資料により「新地」)などにもあったとされる。出村の入口にあたる思案橋は、三国町神明にある。

Q. 小女郎とは何ですか?
A. 三国の遊女のうち最高位の者の呼び名で、京都島原の太夫にあたる格とされる。民謡「三国節」に「江戸の花魁、三國の小女郎」という一節がある。

Q. 哥川とはどんな人ですか?
A. 江戸中期の三国の遊女で、俳人でもあった。通称は豊田屋ぎん。永正寺の永言(巴浪)に俳諧と書を学び、「奥底のしれぬ寒さや海の音」の句で知られる。遊女を退いたのちは遊女屋の主となり、出家して瀧谷寺の境内で暮らした。

Q. 三国の遊里はいつ終わりましたか?
A. 明治以降に港の力が衰え、遊里も小さくなった。昭和初期は貸座敷17軒、娼妓約60人とされる。1958年(昭和33年)の売春防止法の完全施行で終わったと紹介される。

Q. 今も遊郭の建物は残っていますか?
A. 遊郭らしい建物はほとんど残っていないと、現地を訪れた記録にある。一方、旧芸妓置屋の料理茶屋(魚志楼)など、国登録有形文化財になっている明治期の建物や、哥川ゆかりの寺は残っている。

参考にした資料

  • 坂井市「歴史的風致維持向上計画」第1章「歴史的風致形成の背景」(三国湊の発展、三国の文化・文芸、近代、国登録文化財、三国湊と北前船。坂井市公式サイト(PDF))
  • Wikipedia「哥川」(該当ページ)
  • マイナビニュース「三国湊」の紹介記事(2014年。三国節、思案橋、町並みなど。該当ページ)
  • 旅行情報サイト「思案橋」の紹介(藩境と川口番所、出村遊里の特徴。該当ページ)
  • 文化遺産オンライン(文化庁)の登録有形文化財「魚志楼(松崎家住宅)」の各件(文化遺産オンライン)
  • 個人の調査記事(昭和初期の貸座敷数・娼妓数、現地の様子。公的資料ではなく、数字は参考情報として扱った。三国(福井県)の遊郭跡の訪問記)

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画像の出典

  • 写真: 紫煙 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: 藤谷良秀 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
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