彦根・袋町と長浜・南片町とは?滋賀の遊廓の歴史・場所・今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や人数は資料によって異なる場合があります。現地は住民が暮らす生活の場です。

滋賀県の湖東・湖北には、江戸時代の城下町を土台にした遊廓が二つあった。井伊家の城下町・彦根にあった袋町と、豊臣秀吉が築いた城下町で大通寺の門前町でもある長浜の南片町だ。どちらも明治に公認され、昭和33年(1958年)に終わった。彦根の袋町は、いまも市内有数の飲食街として夜の街の姿を残し、長浜の南片町は静かな住宅や飲食店の並ぶ一画になっている。この記事では営業の案内ではなく、二つの街がどのように生まれ、なぜ違う姿になったのかを、確認できた範囲で整理する。滋賀県の遊廓は、近畿の一覧記事では資料不足で扱えなかったため、あらためて独立の記事としてまとめた。

滋賀の二つの遊廓の要点

彦根・袋町は井伊家の城下町の東南隅長浜・南片町は秀吉ゆかりの城下町明治初期に公認、成立年は諸説昭和初期の袋町は貸座敷69軒前後1958年に終わり、袋町は飲食街へ
目次

彦根の城下町と袋町の位置

彦根の城下町は、慶長9年(1604年)7月1日に始まった彦根城の築城とともに、計画的につくられた。彦根市の資料によれば、築城はおよそ20年かかり、城下の水はけを良くするため、芹川の流れを約2キロメートルにわたって付け替えたという。完成した城下町は三重の堀で四つに区画され、いちばん外側の第4郭には、町人の住まいと足軽の組屋敷が並んだ。足軽の組屋敷は、城下町のもっとも外側を取り囲むように置かれていた。

袋町は、現在の彦根市河原2丁目にあたる。芹川と、商店街の花しょうぶ通りに挟まれた一角で、城下町の東南の外れだ。町名は、細い路地が行き止まりになる袋小路が多いことに由来するとも言われる。街道の面では、約2キロ山手に中山道が通り、城下には朝鮮人街道も通っていた。城下町の外縁にある袋町は、人や物が行き来する街道筋から少し離れた場所だった。

彦根城の天守。白壁と黒い屋根の三重の天守が、石垣の上に立つ
彦根城の天守(2022年11月撮影)。築城は1604年に始まった。彦根の城下町の中心(原写真の下端をトリミング)
撮影・作者: 先従隗始 / CC0 / Wikimedia Commons

袋町遊廓の成立|年号は資料によって異なる

袋町に遊廓ができた時期は、資料によって異なる。大きく三つの説がある。

説内容出典の種類
明治4年(1871年)営業許可を受け、八千代楼など4軒の茶屋で始まった。許可の条件に、決められた区域内でのみ営業すること、遊女は一般の人と髪型で見分けがつくようにすることなどが書かれていたと紹介される個人の調査記事(許可書の内容を紹介)
明治9年(1876年)昭和初期の『全国遊廓案内』で、袋町(彦根町遊廓)の創立は明治9年とされる『全国遊廓案内』を引く個人の調査記事
嘉永年間(1848〜52年)1958年の滋賀日日新聞の特集では、城下に散らばっていた遊女屋を、元足軽屋敷の袋町に集めたとされる新聞記事を引く個人の調査記事

これらは互いに食い違うが、「藩が倒れる前後に、城下に散らばっていた遊女屋が袋町に集められた」という大きな流れは共通する。1871年は廃藩置県の年で、彦根藩が廃されて彦根県が置かれた年にあたる。滋賀県内の遊廓は、1873年(明治6年)の等級で、大津の四ノ宮町・真町が上等、彦根の袋町と長浜の南片町、八幡の池田町が中等、大津の甚七町や八日市が下等に分けられたとも紹介されている。この点は一次史料を確認できていないので、参考情報にとどめる。

最盛期の規模|芸妓と娼妓が共にいた街

袋町が最も賑わったのは昭和初期だ。滋賀県社交飲食業生活衛生同業組合の案内は、昭和初期(1929年ごろ)には貸座敷(茶屋)が69か所ほどに及んだと紹介する。一方、昭和5年の『全国遊廓案内』では、貸座敷が65軒、娼妓が約85人とされる。これらに近い時期の数字として、娼妓が約80人、芸妓が約100人、舞妓が約20人いたという紹介もある。芸妓の人数が娼妓より多いことから、袋町は遊廓であると同時に、芸妓が座敷に出る花街の性格も強かったことがうかがえる。遊廓と花街の違いは、花街と遊郭の違いで整理している。

袋町の盛衰には、彦根の近代化が関係している。1879年(明治12年)に第百三十三国立銀行が営業を始め、1889年(明治22年)に東海道線の彦根駅が開業した。のちに近江鉄道が敷かれ、彦根は湖東地方有数の商業都市になった。人とお金が集まる商都の隣に、花街と遊廓が育ったと言える。ただし、昭和30年(1955年)の遊興ガイドは、袋町の貸座敷がおよそ15〜16軒に減り、駅前の青線に客を奪われて活気がないと書いていると紹介される。この数字も個人の調査記事の紹介で、原典は確認できていない。

彦根市袋町(河原2丁目)の一角。黒い格子の木造の建物が通りに面して並ぶ
彦根市袋町(河原2丁目)の一角(2016年6月撮影)。現在は飲食街で、木造の建物に昔の面影が残る
撮影・作者: Kyoww / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
彦根市の花しょうぶ通りにある旧川原町郵便局の建物。国の登録有形文化財
花しょうぶ通り商店街の旧川原町郵便局(2016年6月撮影、国の登録有形文化財)。袋町のある河原の一帯にある近代建築
撮影・作者: Kyoww / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

袋町のその後|1958年から飲食街へ

袋町の遊廓は、売春防止法の完全施行にあわせて昭和33年(1958年)に解散した。法の流れは売春防止法(1956年)の歴史で整理している。解散後、茶屋の多くはバーやクラブ、スナック、居酒屋などに転業し、飲食街として続いた。同業組合の案内によると、いまは河原2丁目あたりに約100店の飲食店が並び、「湖東随一の歓楽街」と紹介される。花街の面影を残す木造の建物もあり、遊廓で使われた弁柄(べんがら)色の格子や細い路地が見られる。

袋町は、駅から離れ、城下町の外縁にあったため、大きな再開発を免れたのではないかという見方がある。これは個人の推測で、確かな裏づけは確認できていない。ここでは、遊廓の跡というより、彦根の城下町の外れに残った古い路地と、夜の飲食街としての顔を併せ持つ街だと捉えておくのが無難だ。現在は住民と事業者が営む生活の場なので、見学するときは静かに歩き、建物には立ち入らないようにしたい。

長浜の城下町と大通寺の門前町

長浜は、今からおよそ450年前に羽柴(豊臣)秀吉が城下町の基礎を築いたところから歴史が始まる。長浜市の資料は、旧長浜町が大通寺の門前町として、また北国街道の宿場町・琵琶湖の湊町として発展したと記す。大通寺は真宗大谷派の長浜別院で、1649年(慶安2年)に彦根藩主の井伊直孝から寺地の寄進を受けて境内が整えられた。湖北一帯の人びとにとって、長浜を訪れることは「浜行き」と呼ばれ、お参りのついでに買い物や食事を楽しむのが大きな楽しみだったという。

1871年(明治4年)の廃藩置県では、北近江が「長浜県」に編成された。翌年に犬上県と改称され、同年のうちに滋賀県へ統合されている。1882年(明治15年)には長浜を起点とする鉄道が開通し、駅舎も同年に建てられた。琵琶湖の船と鉄道を結ぶ港町として、近代化を先取りした町と位置づけられている。こうした人と物の往来が、長浜の遊廓の背景にある。

長浜別院大通寺の山門。二層の大きな楼門
長浜別院大通寺の山門(2009年10月撮影)。長浜の門前町の中心となった寺
撮影・作者: KENPEI / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
長浜鉄道スクエアに保存されている旧長浜駅舎。洋風の2階建ての建物
長浜鉄道スクエアにある旧長浜駅舎(2021年4月撮影)。長浜を起点とする鉄道は1882年に開通した
撮影・作者: 先従隗始 / CC0 / Wikimedia Commons

長浜・南片町の遊廓

長浜の遊廓は、幕末の19世紀に、妙法寺の世話で神明神社の前に遊女屋が5、6軒できたのが、記録上の始まりとされる。明治の初めには、「辰之藤」という店が県内で最初の遊女屋として公認されたと伝わる。のちに起きた大火で遊廓は焼けたが、翌年に南片町で復活し、以後はここが所在地になった。以上は『長浜案内』(大正6年)などを引いた個人の調査記事による紹介だ。

規模を示す数字は次のとおり紹介されている。1883年(明治16年)には貸座敷が14軒、娼妓が51人で、県内では大津・彦根・八日市に次ぐ規模だった。昭和初期の『全国遊廓案内』では、貸座敷が15軒、娼妓が55人と記される。長浜の遊廓は、開廓から昭和初期まで芸妓と娼妓が混在する形で、貸座敷にも芸妓を抱えるところ、娼妓を抱えるところ、両方を抱えるところがあったという。

戦後は赤線として続いた。滋賀県内の赤線は、昭和33年(1958年)2月28日に一斉に解散式を開いて閉じたとされ、『滋賀県警察史』に基づく業者数は6軒、接待婦は26人と紹介される(新聞では業者8人、接待婦20人強で、数字は一致しない)。赤線の背景は赤線・青線の戦後史で整理している。現在の南片町は、長浜駅から東へ徒歩5〜6分ほどの狭い区画で、飲み屋が並ぶ。ベンガラ格子の建物や洋風の看板建築など、当時の建物とみられるものが一部残ると、個人の調査記事は伝えている。

彦根・長浜の遊廓の歩みを、1604年から1958年までまとめた年表
彦根・長浜の遊廓の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

二つの街の比較

彦根・袋町長浜・南片町
都市の性格井伊家35万石の城下町。商都として発展秀吉ゆかりの城下町。大通寺の門前町、街道と湖の湊町
遊廓の成立明治4年・明治9年・嘉永年間の諸説幕末に神明神社前の遊女屋が起源とされ、大火後に南片町で復活
規模昭和初期に貸座敷65〜69軒前後、娼妓約80〜85人、芸妓約100人1883年に貸座敷14軒・娼妓51人、昭和初期に15軒・55人
性格遊廓と花街が重なる。芸妓が多い芸妓と娼妓が混在する廓
終わり1958年に解散1958年2月に解散式とされる
いま約100店の飲食街(スナック・クラブなど)狭い区画に飲み屋が並ぶ一画

滋賀の遊廓の歴史年表

年出来事
1604年(慶長9年)彦根城の築城が始まる(約20年かかる)
1649年(慶安2年)井伊直孝が長浜の大通寺に寺地を寄進する
嘉永年間(1848〜52年)城下の遊女屋を袋町に集めたという説がある
1871年(明治4年)廃藩置県。彦根県、長浜県が置かれる。袋町が営業許可を受けたという説がある
1876年(明治9年)『全国遊廓案内』が袋町の創立年とする
1882年(明治15年)長浜を起点とする鉄道が開通し、長浜駅の駅舎が建てられる
1883年(明治16年)長浜の遊廓は貸座敷14軒・娼妓51人
1889年(明治22年)東海道線の彦根駅が開業する
1929年(昭和4年)ごろ袋町の貸座敷が69軒前後に及ぶ
1958年(昭和33年)売春防止法の完全施行。袋町は解散し、長浜の赤線も閉じる

まとめ

滋賀の遊廓は、城下町と門前町という二つの町の成り立ちに結びついていた。彦根の袋町は、井伊家の城下町の外縁にあり、明治に入って遊女屋が集められた街だ。昭和初期には貸座敷が60軒を超え、芸妓も多い花街の顔を持っていた。長浜の南片町は、大通寺の門前町と湖の湊町を背景に、芸妓と娼妓が混ざる廓として続いた。どちらも1958年に終わり、袋町は飲食街として、南片町は小さな飲み屋の並ぶ一画として残っている。成立年や人数は資料によって差があるため、本記事では数字に幅を持たせた。他の地域は近畿の遊郭跡や日本の遊廓の一覧もあわせて読んでほしい。

よくある質問

Q. 彦根の袋町はどこにありますか?
A. 彦根市河原2丁目あたりで、芹川と花しょうぶ通りに挟まれた一角だ。彦根城下町の東南の外れにあたる。名前は袋小路が多いことに由来するとも言われる。

Q. 袋町の遊廓はいつからいつまでありましたか?
A. 始まりは、明治4年(1871年)説、明治9年(1876年)説、嘉永年間(1848〜52年)説があり、資料によって異なる。終わりは売春防止法の完全施行に伴う1958年(昭和33年)とされる。

Q. 袋町はいまも遊郭なのですか?
A. いいえ。遊廓は1958年に解散した。現在は、バーやクラブ、スナック、居酒屋などが並ぶ飲食街になっている。木造の建物や弁柄格子の一部に、かつての面影が残る。

Q. 長浜にも遊廓がありましたか?
A. あった。長浜駅の東、南片町にあった。幕末に神明神社前の遊女屋が記録上の始まりとされ、明治に公認され、1958年に赤線が解散した。

Q. 彦根と長浜で規模はどう違いましたか?
A. 昭和初期の『全国遊廓案内』では、彦根が貸座敷65軒・娼妓約85人、長浜が貸座敷15軒・娼妓55人とされ、彦根のほうが大きい。1883年の時点でも、長浜は県内で大津・彦根・八日市に次ぐ規模だった。

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画像の出典

  • 写真: 先従隗始 撮影(CC0)/Wikimedia Commons
  • 写真: Kyoww 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: KENPEI 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
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