※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
江戸の色町は吉原だけじゃなかった。公認されていない街が、江戸の各地に数多くあった。それが「岡場所」だ。ここじゃ店名や料金には触れず、岡場所と吉原の違いと、その盛衰だけを歴史から教える。
📖 岡場所にまつわるキーワード
#岡場所 #深川 #天保の改革 #公認と非公認 #辰巳芸者
岡場所は、吉原以外の「非公認」の色町だった
幕府が公認したのは、江戸では吉原だけだった。それ以外の、公認を受けていない色町が「岡場所(おかばしょ)」だ。「岡」は「脇・外」という意味で、「吉原の外の場所」という呼び方だ。
深川、湯島、谷中、本所など、江戸の各地に岡場所があった。気軽に行ける距離と、吉原より手頃な遊びができる点が、庶民に歓迎された。
深川には、独自の文化が育った
岡場所のなかでも有名なのが深川だ。ここの芸者は「辰巳芸者」と呼ばれ、江戸の東南(辰巳)の方角にあったことから、その名が付いた。
羽織を着て男のような粋を売りにした辰巳芸者は、気風のよさで人気を集めた。吉原とは違う、深川らしい色気と粋が評判になった。
取り締まりは何度も繰り返された
岡場所は、幕府にとって「公認外の営業」であり、取り締まりの対象だった。田沼時代に栄えたあと、寛政の改革で取り締まりが強まり、天保の改革の頃には、多くの岡場所が取り払われた。
取り払われた街で働いていた女性の一部は、吉原などへ移されたとされる。取り締まっても、需要がある限り、形を変えて営業が続いたのが実態だった。
吉原と岡場所の違いを整理する
大きな違いは「公認の有無」だ。吉原は、幕府の許可のもと、区画が決められ、堀と塀で囲まれた。一方の岡場所は、公認を受けないまま、江戸の各地で営業した。
吉原の成り立ちは吉原の歴史に詳しく書いてある。宿場の事情は飯盛女と宿場の記事へ。
深川という街の気風
深川は、材木を扱う木場の街で、材木商の旦那衆が集まる景気のいい土地だった。気風のいい深川の男たちと、粋を売りにする辰巳芸者は、相性がよかった。
「羽織芸者」と呼ばれる辰巳芸者の装いは、男物の羽織を着るなど、型破りなものだった。吉原とは違う、深川独自の文化が、岡場所のなかで育ったわけだ。
岡場所のあとに生まれた色町
岡場所が取り払われた後も、色町を求める需要が消えたわけじゃなかった。明治になると、東京では根津の遊郭が移転して、洲崎という街が生まれた。
洲崎の歴史は洲崎の歴史の記事に詳しく書いている。江戸の岡場所から、明治の遊郭、戦後の赤線へと、街の姿は形を変えながら続いていった。
吉原と岡場所の違い
| 吉原 | 岡場所 | |
|---|---|---|
| 公認 | 幕府が公認 | 公認されていない |
| 場所 | 浅草の日本堤(新吉原) | 深川・湯島・谷中など江戸の各地 |
| 特徴 | 堀と塀に囲まれた区画 | 気軽な立地。庶民に人気 |
| 取り締まり | 公認のもとで営業 | 寛政・天保の改革などで取り締まりの対象 |
知っておくと自慢できる豆知識
- 「岡」は「岡目八目」の「岡」と同じく、「脇・外」の意味だと言われる。
- 辰巳芸者は、江戸の東南(辰巳)にあった深川の芸者を指す。
- 岡場所の数や場所は、時代によって大きく変わった。
まとめ
岡場所は、公認の吉原に対する、非公認の色町だった。何度も取り締まりを受けながら、庶民の需要に支えられて続いたのが、岡場所の歴史だ。江戸の色町の全体像は、公認と非公認の両方を押さえると見えてくる。
よくある質問
Q. 岡場所はどれくらいあったのか?
A. 時代によって違うが、江戸の各地に数多くあったとされる。正確な数は資料によって異なる。
Q. 岡場所は違法だったのか?
A. 幕府の公認がない営業のため、取り締まりの対象にはなったが、実際には長く黙認される時期もあった。
Q. 岡場所の跡は今も残っているのか?
A. 多くは町並みが変わっていて、地名や碑、記録として名残があるにとどまる。

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