飯盛女と宿場町の歴史とは?品川・内藤新宿など江戸四宿を解説

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

江戸の街道の入口、宿場町。ここにも、遊女のいない公認外の色町ができた歴史がある。ここじゃ店名や料金には触れず、飯盛女と江戸四宿の成り立ちだけを、歴史から教える。

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目次

飯盛女は、旅籠の「給仕の女」という建前だった

宿場の旅籠(はたご)には、食事の給仕などを務める「飯盛女(めしもりおんな)」がいた。建前は旅の客の世話係だったが、実際には客の相手をする女性も多く、宿場が色町の性格を帯びていった。

幕府は、人数に上限を設けるなど、規制を試みた。けれど、旅の需要は大きく、黙認される形で広がっていった。

江戸の四つの入口を「四宿」と呼んだ

江戸には、日本橋を起点とする五街道があり、その最初の宿場が「江戸四宿」と呼ばれた。東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋、日光・奥州街道の千住の四つだ。

江戸の近くにある、手軽に行ける街として、四宿は庶民の遊びの場にもなった。吉原より気軽で、旅人以外の江戸の人々にも人気があった。

内藤新宿は、一度廃止されて復活した

内藤新宿は、元禄時代の1698年に開かれた宿場だ。ところが、1718年に一度廃止され、1772年になって再び宿場として復活した。

廃止されたのは、風紀の問題などがあったためと言われる。その後に復活した新宿は、のちの繁華街、新宿の原型になった。新宿の歴史は新宿二丁目の歴史でも触れている。

宿場の色町は、明治以降も形を変えて続いた

明治になって宿場の制度がなくなったあとも、品川や新宿には、遊郭や貸座敷として営業する街が残った。江戸の入口という立地が、その後の発展を支えたわけだ。

戦後の売春防止法で、多くが姿を消した。今の新宿や品川の繁華街の下には、江戸から続く歴史が積み重なっている。江戸の色町の全体像は岡場所の記事もあわせてどうぞ。

四宿の名前に込められた由来

内藤新宿の「内藤」は、信濃高遠藩の内藤家の屋敷があったことに由来する。屋敷の跡地は、のちに新宿御苑になった。

板橋宿には、縁切りの言い伝えで知られる「縁切榎」が今も残り、千住宿は、松尾芭蕉が『奥の細道』の旅に出発した地としても知られる。宿場ごとに、個性のある歴史が刻まれている。

今の街の賑わいに続く道筋

品川は、旧東海道の宿場町の面影が商店街に残り、新宿は日本最大級の繁華街へと成長した。街道の入口という立地が、人と物を集める力になったことが分かる。

江戸の入口だった宿場の歴史は、そのまま東京の発展の歴史でもある。街歩きの際には、旧街道の道筋をたどってみると、宿場の面影が見つかる。

江戸四宿一覧

宿場街道現在の目安
品川宿東海道東京都品川区
内藤新宿甲州街道東京都新宿区
板橋宿中山道東京都板橋区
千住宿日光街道・奥州街道東京都足立区

知っておくと自慢できる豆知識

  • 四宿は、江戸の人が気軽に出かけられる「遊びの街」としても人気だった。
  • 内藤新宿は、1698年に開かれ、1718年に廃止、1772年に再開された。
  • 飯盛女の規制は何度も出されたが、完全になくすことはできなかった。

まとめ

飯盛女は、旅籠の給仕という建前で存在した、宿場の女性たちだ。江戸四宿は、旅の入口であると同時に、庶民の遊びの街でもあった。いまの新宿や品川の賑わいの源流は、この宿場の歴史にある。

よくある質問

Q. 飯盛女は公認だったのか?

A. 公認ではなく、旅籠の給仕という建前のもとで黙認された。幕府は人数の規制を何度か出している。

Q. 江戸四宿の「四」は何を指す?

A. 品川、内藤新宿、板橋、千住の四つの宿場だ。

Q. 内藤新宿はなぜ一度廃止されたのか?

A. 風紀などの問題があったためとされるが、詳しい経緯には諸説ある。

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