※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
明治5年(1872年)、日本で「芸娼妓解放令」が出された。そのきっかけは、遠いペルーの船で起きた事件だった。ここじゃ店名や料金には触れず、事件の流れと、法令が出た経緯を歴史の順に教える。
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きっかけは、横浜港に停泊した一隻の船
1872年、横浜港にペルー船「マリア・ルス号」が停泊していた。この船には、中国人の労働者が大勢乗せられていて、ひどい扱いを受けていたとされる。
そのなかの一人が船から逃げ出し、イギリス船に助けを求めた。この訴えが日本の官憲に伝わり、日本政府は、事件の取り調べに乗り出した。
裁判のなかで、日本の遊女の問題が持ち出された
日本側の裁判で、中国人労働者の解放が認められた。ところが、ペルー側は、「日本にも遊女の人身売買があるじゃないか」と反論した、と伝わっている。
当時の日本には、年季奉公の名のもとに、親の借金などで身を売られる遊女が多くいた。外国から指摘されたことで、日本政府も、この問題を無視できなくなった。
同じ年に、芸娼妓解放令が出された
1872年10月、日本政府は「芸娼妓解放令」を出した。人身売買を禁じて、遊女や芸妓を年季奉公から解放する、という内容だ。
これで、遊女の身の上が、制度の上では自由になった。ただし、この法令の中身がそのまま実行されたわけじゃない。
それでも、実際の暮らしは簡単には変わらなかった
解放令のあとも、遊女の営業そのものは続いた。名目は「自由営業」へと変わり、借金で縛られる仕組みは、形を変えて残ったとされる。
この問題は、のちの赤線・青線や、売春防止法につながる、長い議論の出発点になった。
近代化の入口で起きた、大きな見直し
1872年は、明治政府が、国の仕組みを次々と近代的なものに変えていた時期だ。学制の公布や、鉄道の開業なども、同じころの出来事にあたる。
芸娼妓解放令も、そうした近代化の流れのなかで、外国の目を意識して出された法令のひとつだ。国際社会のなかで、日本がどう見られるかが、国内の制度を動かした例として、よく取り上げられる。
マリア・ルス号事件と芸娼妓解放令の流れ
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1872年 | ペルー船マリア・ルス号が横浜に停泊。中国人労働者が助けを求める |
| 1872年 | 日本側の裁判で、労働者の解放が認められる |
| 1872年10月 | 芸娼妓解放令が出される |
| その後 | 形を変えながら営業は続く |
| 1958年 | 売春防止法の完全施行 |
知っておくと自慢できる豆知識
- マリア・ルス号事件は、日本が国際的な裁判を行った、初期の例のひとつと言われる。
- 芸娼妓解放令が出された1872年は、明治5年にあたる。
- 解放令のあとも、遊女の営業は「自由営業」の名目で続いた。
まとめ
芸娼妓解放令は、外国船の事件がきっかけで、日本の遊女制度を見直すことになった出来事だ。法令が出ても、現実はすぐには変わらなかった。この長い流れは、売春防止法の記事につながっていく。
よくある質問
Q. マリア・ルス号事件とは何か?
A. 1872年に、横浜港に停泊したペルー船の中国人労働者が助けを求めた事件だ。日本政府が取り調べと裁判を行った。
Q. 芸娼妓解放令はいつ出されたのか?
A. 1872年(明治5年)10月に出された。
Q. 解放令で、遊女の営業はなくなったのか?
A. なくならなかった。営業は、名目を変えながら続いた。

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