川崎・堀之内とは?南町の遊廓から続く色街の歴史・場所・今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

川崎駅の東側、旧東海道の宿場町だった一帯には、江戸時代から昭和にかけて色街が連なっていた。いま「堀之内」の名で知られる町と、そのやや北にある「南町」は、よく同じ土地のように語られるが、成り立ちは別だ。この記事は歴史に限って、江戸時代の川崎宿から、明治の遊廓、戦災、戦後の色街、現在の町の姿までを整理する。特定の店舗や営業については触れない。資料によって食い違う点は、その旨を明記した。

川崎の色街の歴史

東海道川崎宿の飯盛旅籠が起源遊廓は南町、堀之内は別の盛り場1945年4月の川崎大空襲で大きな被害戦後は赤線・青線の色街に1958年の売春防止法の後は別の業態へ
目次

川崎・堀之内と南町|2つの町を分けて考える

川崎の色街は、南町と堀之内の2つに分けると整理しやすい。南町は、宿場の飯盛旅籠を集めて明治に設けられた貸座敷の区画、つまり遊廓だ。堀之内は、これとは別に宿場の周辺で育った盛り場で、戦前は料理屋やカフェーが集まる花街・繁華街だったとされ、戦後に特殊飲食店が集まる町になった。堀之内について「赤線」と書く資料と、非公認の「青線」と書く資料があり、説明は一致していない。両者の言葉の違いは赤線・青線の記事を参照してほしい。

江戸時代|東海道川崎宿と飯盛旅籠

川崎宿は、東海道五十三次の2番目の宿場だ。品川宿と神奈川宿の間が約10里と長く、往来が増えて宿泊の需要が出たことから、1623年(元和9年)に幕府が設置を命じた。宿場は砂子、久根崎、新宿、小土呂の4つの町で構成され、新宿と小土呂は1627年(寛永4年)に加わっている。

江戸時代の旅籠には、普通の客を泊める「平旅籠」と、給仕や接待に飯盛女を置く「飯盛旅籠」があった。川崎市の資料は、飯盛女を「年季奉公で近郷から売られてきた女性たち」と説明している。幕府は旅籠1軒につき2人までと定めたが、これはほとんど守られなかった。文久3年(1863年)の記録では、川崎宿に本陣2軒、平旅籠39軒、飯売旅籠33軒があり、飯売旅籠は新宿に集中していた。翌1864年の記録では飯盛女は66人とされるが、規則上の数字であり、実際はもっと多かったとみられる。こうした宿場の仕組みは、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いにも通じる。

渡し舟で川を渡る旅人や荷を負った馬。対岸に木々と富士山が見える浮世絵
歌川広重『東海道五拾三次』より「川崎 六郷渡舟」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の画帖)
歌川広重 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
茅葺き屋根の家が並ぶ岸辺と、人を乗せた渡し舟の古い彩色写真
1860年代に撮影された六郷の渡し(フェリーチェ・ベアト撮影)
フェリーチェ・ベアト / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

宗三寺に残る供養塔

川崎区砂子の宗三寺は、川崎宿で最も古い寺とされる曹洞宗の寺院だ。境内には、宿場の賑わいを支えた飯盛女たちの供養塔がある。川崎市の「かわさき区の宝物シート」によれば、多くは体を壊し、墓にも入れず打ち捨てられた女性たちの冥福を祈って、大正の初めに川崎貸座敷組合が建てたものだ。台座には当時の遊廓の楼名が刻まれ、江戸時代の川崎宿の人口として男1,080人、女1,353人も記されている。昭和63年(1988年)には川崎今昔会が建てた供養塔も、その隣に並んだ。宿場の遊所の歴史が、いまも寺の境内に目に見える形で残っている。

川崎区砂子の宗三寺の境内。石灯籠と階段の奥に瓦屋根の建物が見える
川崎区砂子の宗三寺(2024年4月撮影)。境内に飯盛女たちの供養塔がある
撮影・作者: Beryllium Transistor / CC0 / Wikimedia Commons

明治|宿場の終わりと南町遊廓の成立

1871年(明治4年)に伝馬と飛脚が廃止され、翌1872年に鉄道の川崎駅が開業すると、川崎宿は交通の要としての役割を失った。飯盛旅籠は「貸座敷」の名で営業を続け、のちに南町へ集められる。

南町への移転の年は、資料によって異なる。Wikipediaは1902年(明治35年)とし、明治36年(1903年)に14軒が営業を始めたとする記述や、明治37年(1904年)とする記述もある。いずれも「1900年代の初め」という点では一致する。この区画は、「小土呂新地」や「川崎遊郭」とも呼ばれた。小土呂は宿場を構成した4町のひとつの名前だ。

規模をみると、川崎の遊廓の娼妓数が最大になったのは1912年(明治45年)で、324人にのぼったとされる。昭和初期の案内書『全国遊廓案内』を引く紹介では、貸座敷19軒、娼妓約190人とされており、大きな遊廓というより、工業地帯の労働者が気軽に立ち寄る安価な遊廓だった。この数字は個人サイトでの引用を通じて確認したもので、原本は未確認だ。

川崎の色街の年表

年出来事
1623年幕府が川崎宿の設置を命じる
1627年新宿・小土呂が宿場に加わり、4町になる
1863年川崎宿に平旅籠39軒、飯売旅籠33軒(文久3年)
1871〜72年伝馬・飛脚が廃止、鉄道の川崎駅が開業。宿場の役割が終わる
1902年ごろ貸座敷が南町へ移される(1903・1904年とする記述もある)
1912年川崎遊郭の娼妓数が最大の324人(明治45年)
大正初期川崎貸座敷組合が宗三寺に供養塔を建てる
1924年川崎市が発足する
1945年4月15日川崎大空襲。市街が大きな被害を受ける
1958年4月売春防止法の完全施行。南町・堀之内の色街が法の上で終わる
1960年堀之内で最初のトルコ風呂が開業したとされる
1964年11月区画整理により堀之内町が新設される
1966年堀之内が特殊浴場の許可地域となる

大正〜昭和戦前|工業都市とともに

1924年(大正13年)に川崎市が発足したころ、市内には京浜工業地帯の工場が増えていた。南町の遊廓は、そうした労働者が通う庶民向けの街として栄える。昭和初期の南町については、庶民が気晴らしに訪れる、安価な店が軒を連ねていた街だったと回想する文章も紹介されている。

一方の堀之内は、飯盛旅籠が多かった宿場周辺の流れをくむ。古くは「六郷堤の色里」と呼ばれたとする記述もある。昭和初期にはバーや映画館、カフェーが集まる新興の繁華街として賑わったとされる。ただし、この時期の店数や名称、芸妓の人数などは、公開資料では確認できなかった。堀之内が遊廓の指定地ではなく、花街・繁華街として語られるのは、こうした成り立ちの違いによる。

川崎の色街の歩みを1623年から1964年までまとめた年表
川崎の色街の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

川崎大空襲|1945年4月15日

川崎は工業都市だったため、空襲を繰り返し受けた。なかでも被害が大きかったのが、1945年(昭和20年)4月15日の夜の空襲だ。約200機のB-29が飛来した。夜10時ごろに始まり、鎮火は翌朝5時ごろだったという。市内の全半焼家屋は3万戸を超え、罹災者は死者を含めて10万人を超えたとされる。死者数は資料により異なり、確定した数字は示しにくい。南町も堀之内もこの戦災を受け、戦前の姿は大きく失われた。1943年に39万人余りだった川崎市の人口は、敗戦時に20万人余りまで減っている。

戦後|赤線・青線から売春防止法へ

戦後、南町は赤線、堀之内は青線の町として語られることが多い。赤線は公認された特殊飲食店街、青線は黙認された非公認の店で、赤線・青線の記事に詳しい。一方、堀之内を赤線とする資料もあり、行政の区域指定の一次資料を確認していない以上、この点は断定できない。工場の3交代制で働く労働者や、給料日の客を目当てにしていた、という地元の語りも残る。

1958年(昭和33年)4月、売春防止法の完全施行で、赤線・青線の営業は法の上で終わった。売春防止法の記事のとおり、全国の色街が転機を迎えた年だ。堀之内では、法の施行後に多くの店が廃業を迫られたが、一部は形を変えて営業を続けた。

1960年代以降|トルコ風呂からソープランドへ

堀之内では1960年に最初のトルコ風呂が開業した。1966年の風俗営業関連法の改正で、堀之内と南町は特殊浴場(トルコ風呂)の許可地域となる。その後、名称は1980年代にソープランドへ改められた。この流れはトルコ風呂からソープランドへの歴史に詳しい。町名の面では、1964年(昭和39年)11月の区画整理で「堀之内町」が新設され、現在の町域が形づくられた。旧来の宿場の町並みは、戦災と開発で姿を変えている。

今の姿|町名・人口・文化財

堀之内町は、丁目のない単独の町名で、面積は約0.065平方キロメートル、人口は2025年12月末時点で1,444人、1,312世帯だ。京急川崎駅やJR川崎駅から徒歩15分ほどの距離にある。一方、南町は面積約0.115平方キロメートル、人口3,942人(2025年9月末)で、駅はない。南町には笠間稲荷社があり、芸妓の信仰を集めたと伝わる。2022年には、神奈川県が南町を暴力団排除特別強化地域に指定している。

歴史を実際にたどるなら、旧東海道沿いの宗三寺の供養塔や、東海道かわさき宿交流館(2013年開館)で、宿場の暮らしと飯盛女の歴史を知ることができる。繁華街の町並みは、新しい建物に建て替わった部分が多く、戦前から続く遺構は少ない。

東海道かわさき宿交流館の外観。格子状の縦線のある建物
東海道かわさき宿交流館の外観(2016年1月撮影)。2013年に開館した、宿場の歴史を伝える施設
撮影・作者: Kkairri / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons

資料で分かれる点|読むときの注意

  • 南町への移転年は、1902年・1903年・1904年と資料により分かれる。
  • 堀之内を「赤線」とする資料と「青線」とする資料がある。
  • 戦前の堀之内の店数や芸妓の人数など、具体的な数字を示す公的資料は確認できなかった。
  • 川崎大空襲の死者数は資料ごとに異なる(768人、1,001人、1,520人などの記載がある)。

まとめ

川崎の色街は、1623年に置かれた川崎宿の飯盛旅籠に始まり、明治に貸座敷が南町へ集められて遊廓になった。堀之内は遊廓とは別の盛り場として育ち、昭和初期には繁華街になる。1945年4月の川崎大空襲で多くを失い、戦後は赤線・青線を経て、1958年の売春防止法の完全施行を迎えた。その後は特殊浴場の町に変わり、1964年に堀之内町が新設されて現在に至る。宿場の歴史を伝える宗三寺の供養塔が、いまも当時を知る数少ない手がかりだ。全国の遊廓との比較には関東の遊郭跡の記事が役立つ。

よくある質問

Q. 川崎の遊廓はどこにあったのですか?
A. 川崎区の南町にあった。東海道川崎宿の飯盛旅籠を集めて1900年代初めに設けられた貸座敷の区画で、「小土呂新地」「川崎遊郭」とも呼ばれた。移転年は1902〜1904年と資料により分かれる。

Q. 堀之内と南町は同じものですか?
A. 別の町だ。南町が遊廓で、堀之内は宿場周辺で育った盛り場にあたる。堀之内町は1964年11月の区画整理で新設された町名で、丁目はない。

Q. 川崎宿に飯盛女は何人いたのですか?
A. 文久3年(1863年)の記録では、飯売旅籠が33軒あった。翌年の記録の66人は、1軒2人までとする規則上の数字で、実際はもっと多かったとみられる。

Q. 川崎大空襲はいつですか?
A. 最も被害が大きかったのは1945年4月15日の夜で、約200機のB-29が飛来した。全半焼家屋は3万戸を超えたとされる。

Q. 川崎の色街はいつ終わったのですか?
A. 1958年4月の売春防止法の完全施行で、赤線・青線の営業は法の上で終わった。その後、堀之内ではトルコ風呂(のちのソープランド)が広がったと記録されている。

Q. 宿場時代の遊女の記録は残っていますか?
A. 宗三寺(川崎区砂子)に供養塔がある。大正初期に川崎貸座敷組合が建てたもので、台座に当時の楼名と、江戸時代の川崎宿の人口が刻まれている。

参考にした資料

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: Beryllium Transistor 撮影(CC0)/Wikimedia Commons
  • 写真: Kkairri 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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