博多の柳町遊廓とは?歴史・場所・新柳町への移転と今の姿

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。

福岡市の博多には、江戸時代から続いた藩公認の遊里「柳町」があり、明治末に現在の中央区清川へ丸ごと移って「新柳町」になった。この記事では営業や利用には触れず、柳町がいつ、どこに生まれ、なぜ移され、いまどんな街になっているのかを、論文や地域史の記録で確認できた範囲だけ整理する。個人サイトの記述を使った箇所は、その旨を書いた。

博多・柳町遊廓の要点

江戸初期の1605年に遊女屋を移転して成立1617年の公娼制度の公認を受け福岡藩が官許福岡藩の取締で発展を抑えられた大学誘致をきっかけに明治末に清川へ移転戦災・赤線を経て1958年に終わる
目次

柳町遊廓とは|場所と名前

柳町は、博多の旧市街の東端、石堂川(いまの御笠川)の左岸にあった遊女町だ。『日本歴史地名大系』は、竪町浜・竪町下の東方にあたり、現在の福岡市博多区の大博町・石城町・下呉服町付近と説明する。南に折れた通りの先に表門が、川沿いに裏門があり、川べりとは石段で行き来できたという。論文は、柳町の跡を福岡市立特別支援学校博多高等学園(旧大浜小学校)付近とする。町名は、京都の柳町にならったものとされる。

明治末に移った先が新柳町だ。当時は筑紫郡住吉村高畑と呼ばれた郊外の土地で、現在の福岡市中央区清川にあたる。いまの地図に「柳町」の名は残っていない。つまり、柳町と新柳町は同じ名前を引き継いだ別の場所で、前者が博多区側の旧市街、後者が中央区清川だ。遊廓の種類や言葉の違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。

江戸期(1800年代)の博多の町割り想像図の一部。石堂川(御笠川)の左岸近くに「柳町」の表記がある。赤字が江戸期の町名と道
江戸期(1800年代)の博多の町割り想像図の一部(切り出し)。赤字が江戸期で、石堂川に沿った北端近くに「柳町」と記される。現代の地図に古図を重ねた後世の復元図で、正確な位置を示すものではない
撮影・作者: LLAAYY(『福岡城下町・博多・近隣古図』をもとに作成) / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons

江戸時代の柳町|1605年の移転と官許

柳町の起こりは、福岡藩の城下づくりと重なる。1600年に黒田長政が名島城に入り、翌年から福岡城の築城にかかった。博多の須崎浜には遊女屋が点々と散らばっていたが、藩は城門に近い場所に遊女屋があるのは体裁が悪いとして移転を命じた。1605年(慶長10年)に堅町浜へ移され、移転の費用はすべて遊女屋の側が工面したという。このころの遊女屋は6〜7軒ほどで、規模は大きくなかった。

1617年(元和3年)に幕府が公娼制度を公式に認めると、藩も柳町を官許の遊廓とした。藩は私娼を抑え、遊女屋の商売を守る代わりに掟を守らせる方針をとった。ただ掟破りが続いたため、1667年(寛文7年)には遊女を30人以上抱えることを禁じ、礼銀を20匁から150匁へ増やすなど、締めつけを強めている。翌1668年に妓楼3軒が焼ける火事があると、藩はこれを口実に夜間営業を禁止した。夕方6時には大門を閉じ、昼間も潜り戸から一人ずつ出入りさせたと伝わる。

この規制は、柳町の性格を決めた。長崎の丸山が異国人との交流で華やかさを誇ったのに対し、柳町は遊女の衣服が木綿に限られ、揚代も低く、研究は「福岡藩の執拗な取締により発展が阻害された」と整理している。1823年(文政6年)に絹物の着用が許されたが、1842年(天保13年)には再び禁止され、年2回の外出まで止められた。ちなみに、長崎の丸山遊郭の起こりには、16世紀末に博多の須崎浜から遊女屋が長崎へ移ったことが関わると、同じ論文は記している。

年遊女屋・貸座敷遊女・娼妓
1667年6(+1)軒30人
1690年19軒67人
1766年19軒83人
1880年18軒67人
1890年29軒252人
1899年37軒527人
1910年39軒500人

1667年と1880年以降の数字は井上聖隆・安武敦子の論文(2022年)の表、1690年と1766年は『日本歴史地名大系』が引く『続風土記』『石城志』による。調査の時点や数え方が資料ごとに違うため、目安として読んでほしい。

博多の柳町・新柳町の歩みを1605年から1962年までまとめた年表
柳町・新柳町の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

明治になって膨らんだ柳町

明治になると、遊女屋は貸座敷、遊女は娼妓と名を変えた(売春防止法の記事に至る制度の流れも参照)。柳町では1872年(明治5年)に貸座敷の営業が許可され、1879年に検梅(性病検査)が始まり、1882年には福岡県の貸座敷並娼妓規則が出された。娼妓のための学校「翠糸学校」が開かれたのもこのころだ。1890年(明治23年)には全盛期に入ったと年表にある。

江戸時代を通じて大きく広がらなかった廓は、明治24年(1891年)に柳町の北側を埋め立てて新しい区画をつくり、増える貸座敷と娼妓を受け入れた。上の表のとおり、娼妓の数は1880年の67人から1899年には527人へ、20年弱で8倍近くになっている。一方で、1895年には大火で14戸が焼け、1897年には天然痘が出るなど、過密な町には災難も重なった。同じ時期、1891年には芸者の営業区域の制限が外れ、博多芸者が大いに発展したとも記録されている。

なぜ移されたのか|大学誘致と新柳町の誕生

転機は大学の誘致だった。地域史サイト「このまちアーカイブス」によると、1900年(明治33年)に帝国議会で九州・東北帝国大学の設置建議が可決され、九州の医科大学の置き場所をめぐって長崎・熊本・福岡が争った。福岡県は福岡市や博多商業会議所と組んで誘致運動を行い、文部省の係員が候補地を視察した際、当時の県知事は候補地に近い柳町を移すことを約束したという。1903年(明治36年)に京都帝国大学福岡医科大学が創設され、のちの九州大学医学部につながった。

ところが開校後もしばらく柳町は残り、数年後に移転の可否が論争になる。論文の年表では、1907年(明治40年)に賛否の論争が盛んになり、1909年に地主側との話し合いがついて、一部の業者が新柳町で開業した。「このまちアーカイブス」は、県が柳町での営業を禁止し、福岡市の有力者で大学誘致にも尽力した渡辺與八郎の土地である住吉村高畑へ、町ごと移すことが決まったと説明する。新柳町は1910年(明治43年)1月に誕生し、1911年(明治44年)末までに移転が終わった。旧柳町の跡には、1910年に大浜小学校が建っている。

同じ1911年には、渡辺の尽力で博多電気軌道の路面電車が開通した。博多駅前、新柳町、天神町、取引所前を結ぶ路線で、郊外だった新柳町に人の流れをもたらしたとされる。移転の年は、1909年(一部開業)、1910年(新柳町誕生)、1911年(旧柳町での営業禁止・移転完了)と資料ごとに揺れる。長い移転の過程のどこを指すかの違いなので、この記事では「1910〜11年」とまとめる。

米軍が1945年6月に作った福岡地区の地図。市街地が黒く示され、同心円が重ねられている
米軍のXXI爆撃機集団が1945年6月に作成した福岡地区の地図(標的図)。福岡大空襲のあった時期にあたる
USAAF XXI Bomber Command / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

新柳町の時代|大正の繁栄から1958年まで

新柳町は大正期に好景気もあって西日本有数の歓楽街になった。Wikipediaは、長崎の丸山、熊本の二本木と並ぶ大規模な花街だったと紹介する。柳町から移ってきた料亭が店を構え、1918年(大正7年)創業の百貨店のそばには、町の「台所」として廉売市場が発達したと伝わる。規模の数字は資料でばらつく。1929年末の一覧は47軒・娼妓636人、個人サイトが引く1930年刊『全国遊廓案内』は貸座敷42軒・娼妓520人としている。数え方や調査の時点が違うと考えられ、ここでは幅のある数字として示す。

1945年(昭和20年)6月の福岡大空襲では、町の半分が焼けた。戦後は赤線として再び動き出す。個人サイトが引く『全国女性街ガイド』は76軒・648人という数字を挙げているが、これは二次的な引用なので参考値にとどめる。赤線の仕組みは赤線・青線の記事に詳しい。1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行で、公娼制度の流れを汲む営業は終わった。法の成立と施行の経緯は売春防止法(1956年)の記事を参照してほしい。

その後の新柳町は、昭和30年代以降、飲食店街・料亭街・旅館街として知られるようになる。近年はマンションが増えたと、「このまちアーカイブス」は伝える。

福岡市中央区清川一丁目から三丁目周辺を真上から写した航空写真。川沿いに小さな建物が密集している
2020年10月5日撮影の福岡市中央区清川一丁目〜三丁目周辺の航空写真(国土地理院の空中写真を加工)
撮影・作者: 国土交通省国土地理院 / CC BY 4.0 / Wikimedia Commons

今の姿|町名は消え、路地の形が残った

新柳町の名が地図から消えたのは1962年(昭和37年)だ。住居表示の実施で、新柳町一〜三丁目を含む旧町名が整理され、「清川一〜三丁目」が成立した。清川という名は、北東を流れる那珂川に由来すると考えられている。ほかにも桜町、西本町、六月田町、高畑新町、高砂町、住ノ江町、幸ノ町といった旧町名が、この再編で一つにまとまった。

町の形を考えるうえで見逃せないのは、戦災復興の土地区画整理の対象から外れた点だ。そのため古い市街地の骨格が残り、幅4メートル未満の狭い道が多い。散策記は、清川二丁目の「清川ロータリー」付近が、かつての遊里の中心だったとみる。ロータリーから延びる通りに「大門」と書かれた電柱があり、目抜き通りだったと推測する記述もあるが、門柱が実在したかは確認できていない。数年前まであった木造の建物が建て替えでなくなったという報告もあり、建物の状況は年々変わっている。

一方、旧柳町の側(博多区下呉服町周辺)は、跡地に学校が建ったこともあって、遊廓の面影がほとんど残っていないとされる。清川の人口は2001年の3,944人から2022年の6,460人まで増え、2023年5月末の人口は6,644人、面積は約27.7ヘクタールだ。暮らす人が増え、いまの清川は住宅地と商業地が混ざった都市の一角になっている。現在の個別の店や営業の状況は、この記事では確認していない。

柳町・新柳町の年表

年出来事
1600年黒田長政が名島城に入り、翌年に福岡城の築城を始める
1605年須崎浜に散らばっていた遊女屋を堅町浜へ移す。遊女屋は6〜7軒ほど
1617年幕府が公娼制度を公認。藩も柳町を官許の遊廓とする
1667年遊女を30人以上抱えることを禁じる
1668年妓楼3軒が焼け、以後夜間営業を禁止する
1872年柳町に貸座敷の営業が許可される
1891年柳町北側を埋め立てて新しい廓を築く
1900年九州・東北帝国大学の設置建議が可決。福岡県知事が柳町の移転を約束したとされる
1903年京都帝国大学福岡医科大学が創設される
1909年地主側との話し合いがつき、一部の業者が新柳町で開業
1910年1月新柳町が誕生。旧柳町跡に大浜小学校が建つ
1911年旧柳町での営業禁止。年末までに移転が完了し、路面電車が開通
1945年6月福岡大空襲で新柳町の半分が焼ける
1958年売春防止法の全面施行
1962年住居表示の実施で「清川」が成立し、新柳町の名が消える

この町を知るときの心がまえ

清川は、いまも多くの人が暮らす住宅地であり、事業を営む人のいる商業地でもある。建物の写真を撮るときは、住民や周囲の営業に配慮する必要がある。また、建物の用途を外観だけで「遊廓だった」と決めつけると誤りになりやすい。遊廓、旅館、商店は造りが似ていて区別が難しいことが多く、散策記の推測にも幅がある。史料で確かめられる事実と、現地での印象は分けて読むのが安全だ。

まとめ

博多の柳町は、1605年に福岡藩が遊女屋を堅町浜へ移して成立し、1617年に官許となった。藩の厳しい取締で江戸時代の発展は抑えられたが、明治に入ると娼妓の数が急増し、20世紀初めには500人規模になった。九州に医科大学を誘致する流れの中で営業を禁じられ、1910〜11年に清川の新柳町へ移った。新柳町は大正期に西日本有数の歓楽街となり、福岡大空襲と戦後の赤線を経て、1958年に終わる。1962年の住居表示で町名は消えたが、狭い道や区画の形に、その歴史の層が残っている。全国の流れの中での位置づけは、九州・沖縄の遊郭跡一覧や日本の遊廓の成り立ちと一覧から確かめられる。

よくある質問

Q. 柳町遊廓はいつからあったのですか?
A. 福岡藩が1605年(慶長10年)に、須崎浜に散らばっていた遊女屋を堅町浜へ移したのが起こりとされる。1617年に公娼制度が公認されると、藩も官許の遊廓とした。

Q. 柳町と新柳町はどう違うのですか?
A. 柳町は江戸時代から博多の旧市街(現在の博多区側)にあった遊女町、新柳町は明治末に移転した先で、現在の中央区清川にあたる。1910〜11年に町ごと移された。

Q. なぜ新柳町へ移されたのですか?
A. 九州に医科大学を誘致する際、福岡県知事が候補地に近い柳町の移転を約束したとされる。1903年に福岡医科大学が創設され、その後に県が営業を禁じて、渡辺與八郎の所有地だった住吉村高畑へ移すことになった。

Q. 江戸時代の柳町は大きな遊廓だったのですか?
A. 遊女屋は1605年の移転当時6〜7軒、1766年の記録でも遊女83人と、規模は大きくなかった。福岡藩が夜間営業や衣服を厳しく取り締まり、研究は発展が阻害されたと整理している。

Q. 新柳町はいつ終わったのですか?
A. 1945年6月の福岡大空襲で町の半分が焼けたあと、戦後は赤線として再興した。1958年の売春防止法の全面施行で終わっている。

Q. 新柳町は今どうなっていますか?
A. 1962年の住居表示で町名は「清川」に変わった。戦災復興の区画整理の対象外だったため、4メートル未満の狭い道が多く残る。建て替えが進み、マンションも増えている。現在の個別の営業については確認していない。

Q. 旧柳町の跡地には何がありますか?
A. 論文は、福岡市立特別支援学校博多高等学園(旧大浜小学校)付近と説明している。1910年に大浜小学校が建っており、遊廓の遺構はほとんど残っていないとされる。

参考にした資料

  • 井上聖隆・安武敦子「近世〜近代における丸山遊郭と柳町遊郭の建築的考察」『長崎大学大学院工学研究科研究報告』52巻99号、2022年(長崎大学学術リポジトリ)
  • 地域史サイト「このまちアーカイブス」(新柳町・渡辺與八郎・路面電車・戦災の記述)
  • Wikipedia「清川 (福岡市)」(清川 (福岡市))
  • 個人サイト「Nostalgic Landscape」新柳町遊郭跡の散策記(全国遊廓案内・全国女性街ガイドの数字の引用と現地の様子の参考。該当ページ)
  • 平凡社『日本歴史地名大系』「柳町(博多)」の項(コトバンク掲載。該当ページ)
  • 井上氏『博多風俗史』、日本遊覧社『全国遊廓案内』(1930年)は、上記の論文・散策記などでの引用による

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: LLAAYY(『福岡城下町・博多・近隣古図』をもとに作成) 撮影(CC BY 4.0)/Wikimedia Commons
  • 写真: 国土交通省国土地理院 撮影(CC BY 4.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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