函館の遊廓とは?山ノ上・蓬莱町・大森遊廓の歴史と大門の今

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

函館の遊廓は、幕末の開港とともに函館山の麓にできた山ノ上の遊廓から始まり、大火のたびに蓬莱町、さらに大森町へと場所を移した。移転先の入口に構えられた門が、いまの函館駅前の繁華街「大門」という呼び名の由来だとされる。この記事では特定の店舗や営業には触れず、港町函館の遊里がいつ、どこにあり、何度の大火を経てどう変わり、跡地と大門がいまどんな姿なのかを、公開資料で確認できた範囲だけ整理する。資料によって年や数字が食い違う点は、その旨を書いた。

函館の遊廓のポイント

幕末の山ノ上町の遊廓が始まり1871年の大火で蓬莱町へ1907年の大火で大森町に集約入口の門が「大門」の地名に1958年4月に大森遊郭が廃止
目次

この記事の読み方|函館の遊廓は「三か所」を移った

函館の遊廓は、場所ごとに名前が違い、年も資料によってずれるため、まず全体像をつかんでおきたい。大きく分けると、幕末から1871年までの山ノ上町、1872年から1907年までの蓬莱町(と台町、豊川町)、1907年以降の大森町の三段階だ。呼び名として「函館遊廓」「大森遊廓」「辰巳の里」などが使われるのは、最後の大森町のものだ。遊廓という言葉の意味や、新地・色街との違いは日本の遊廓とは?成り立ちと全国の主な遊廓一覧や花街と遊郭の違いに整理してある。

なお、函館市の町名のなかには「花園町」など、遊廓との関係を語られることのある地名もある。ただし、公的な資料や研究者の整理で、遊廓の所在地として確認できたのは、山ノ上町、蓬莱町、台町、豊川町、大森町だった。この記事では、確認できた場所だけを扱う。

函館の遊廓の年表

年出来事
1803年(享和3年)茶屋仲間19軒が、山之上町での営業と酌取女を置くことを公認される
1858〜59年(安政5〜6年)奉行所が茶屋渡世に売女渡世を認め、板塀で囲った廓内に外国人の休息所を設けた吉原風の遊廓ができる(公認の年は1857年とする説もある)
1859年(安政6年)箱館港が横浜・長崎とともに国際貿易港として開港する
1865年(元治2年)遊女屋25軒、遊女329人(「箱館新廓遊女屋細見一覧」)
1871年(明治4年)9月12日「切見世火事」で山ノ上遊廓が焼け、蓬莱町などへの移転が始まる
1873年(明治6年)2月蓬莱町・豊川町・台町の3か所が貸座敷の営業許可地に指定される
1900年(明治33年)大審院が娼妓の廃業をめぐる訴訟で原告側の勝訴を言い渡す
1907年(明治40年)8月25日函館の大火。蓬莱町と台町の遊廓が焼け、大森町へ集約される
1934年(昭和9年)3月21日函館大火。大森町の遊廓の入口にあった門が焼け、再建されなかった
1945〜46年米軍の進駐、GHQによる公娼制度の廃止。大森町は赤線地帯として続く
1958年(昭和33年)4月売春防止法の完全施行で大森遊郭が廃止される
開港後間もない箱館港を描いた絵図「奥州箱館之図」。函館山の麓に町が広がり、湾内に多くの船が浮かぶ
「奥州箱館之図」(市立函館博物館所蔵)。開港後まもない1863年(文久3年)ごろの箱館港を描いた絵図
パブリックドメイン / Wikimedia Commons

山ノ上町の遊廓|開港前後から1871年まで

函館の遊里の始まりは、幕府が箱館を直轄地にした19世紀初めにさかのぼる。1803年(享和3年)に、茶屋仲間19軒が山之上町(函館山の麓)で営業し、酌取女を置くことを認められた。それ以前から、「洗濯女」と呼ばれる私娼がいて、茶屋の看板を掲げながら実際には遊女屋として営業する店があったという。1818年(文政元年)には、地蔵町の築島でも茶屋の営業が許された。

大きな転機は開港だ。1858年(安政5年)に奉行所が茶屋渡世の者に売女渡世を申し渡し、翌1859年(安政6年)2月には、板塀で囲った廓内に外国人の休息所が設けられ、江戸の吉原にならった遊廓が成立した。資料によって公認の年は1857年から1859年までずれるが、箱館が日米の条約で開港された幕末のことだ。1863年には、新築島(のちの豊川町)にも営業が認められ、箱館には実質的に二つの遊所があった。1865年(元治2年)の記録では、遊女屋25軒、遊女329人、引手茶屋21軒で、芸者は110人余りだった。

函館山の麓の坂には「姿見坂」という名が残る。坂の上にあった遊廓の遊女たちの姿が見えたことに由来するとされ、坂の説明標柱にも、1871年の大火で焼失して蓬莱町に移ったと書かれている。遊廓のあった場所は、いまの弥生小学校の西隣あたりと紹介されるが、火事で跡形もなく、手がかりは乏しい。

1897年ごろの函館港の古写真。岸に荷を積んだ船が並び、背後に函館山がそびえる
1897年8〜9月ごろの函館港(小川一真の写真帖『Souvenirs de Yézo』より)
小川一真 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

蓬莱町の遊廓|「吉原以北最大」と呼ばれた時代

1871年(明治4年)9月12日、函館で「切見世火事」と呼ばれる大火が起き、市の記録では1,123戸が焼けた。山ノ上の遊廓も全焼し、開拓使が移転費用を支援して、大森浜に近い蓬莱町の約2万坪に移る。翌1872年の春に蓬莱町遊廓が生まれ、1873年2月には、蓬莱町・豊川町・台町の3か所が貸座敷の営業許可地に指定された。それまでの散らばった営業から、場所を限って集める方針に変わったのだ。このとき、娼妓は蓬莱町が199人、台町が36人、その他の町が129人の計364人だった。1876年には貸座敷営業の規則が定められ、営業は蓬莱町と台町に限られ、1878年には蓬莱町に女紅場が開設された。

規模は、明治の中頃にかけて大きくなる。『函館市史』を引いた記述によると、1882年(明治15年)が64軒・263人、1897年(明治30年)が96軒・666人と、15年ほどで娼妓は約2.5倍になった。蓬莱町の遊廓は、「吉原以北で最大」と呼ばれたと言われるが、これは伝聞の形で書かれたもので、出典となる史料までは確認できなかった。8年後の統計では74軒・522人に減っており、減った理由は資料からは分からない。出身地を調べた明治26年の統計では、函館近辺が約37%、それ以外の地域が約4割で、青森県出身者が多かった。北前船が結んだ人の流れがうかがえる。

娼妓の暮らしの転機になったのが、1900年(明治33年)の裁判だ。丸山楼の娼妓が廃業をめぐって起こした訴訟で、大審院は2月に原告側の勝訴を言い渡し、内務省は同年10月に娼妓取締規則を改正して、廃業に楼主の印を不要にした。北海道の娼妓は、2,374人から翌年には1,866人に減っている。ただし1902年の大審院判決で、廃業後も借金の返済は残るとされ、自由廃業は急速に勢いを失った。こうした制度の流れは売春防止法(1956年)とは?成立から施行までの歴史の前史として押さえておきたい。

函館の遊廓の歩みを1803年から1958年までまとめた年表
函館の遊廓の歩み(年号は資料により前後する場合があります)

1907年の大火と大森遊廓の誕生

1907年(明治40年)8月25日、東川町の工場から出た火が函館の町を襲った。函館市の記録では焼失は8,977戸、区役所の調べでは12,390戸とされ、死者は8人にのぼる。蓬莱町と台町の遊廓は、この火で焼けた。遊廓は移転を命じられ、1908年に移転が公示され、1909年(明治42年)に大森町で仮店舗による営業が始まった。大森町9〜22番地を中心に、二つに分かれていた遊里を一つに集めたもので、「函館遊廓」「大森遊廓」「辰巳の里」と呼ばれた。大正初期の書物は「宇賀の浦遊廓」とも記す。

入口には、吉原にならった大きな門が建てられた。この門から「大門」の名が広まったとされる。門は、1934年(昭和9年)3月21日の函館大火(焼失11,105戸、死者2,166人)で焼け、その後は再建されなかった。いま、門そのものを見ることはできない。

1934年の函館大火の説明図。市街地の地図に赤く塗られた区域が広がっている
1934年の函館大火の説明図(1937年刊『函館大火災害誌』所収)
財団法人北海道社会事業協会 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

大森遊廓の規模と衰え

大森遊廓の規模を示す数字は、時期によってかなり違う。移転当時は貸座敷124軒、娼妓760人と『函館市史』は記録するが、1908年の統計では68軒・439人だった。大正8年(1919年)は116軒・648人、芸妓392人で、東京以北では最大の規模とされ、札幌の約2倍だった。1929年(昭和4年)には83軒・360人に減る一方、芸妓は615人に増えた。昭和5年ごろの内務省の統計は80〜90軒・359〜430人で、『全国遊廓案内』にある160軒・570人は多すぎると、調べた研究者はみている。

年貸座敷娼妓芸妓
1908年(明治41年)68軒439人156人
1919年(大正8年)116軒648人392人
1929年(昭和4年)83軒360人615人

娼妓が減り、芸妓が増えた背景には、廃娼運動の高まりと、カフェーの台頭があるとみられる。カフェーに営業を変える妓楼も多かった。1940年(昭和15年)4月には、北海道全体で歓楽街の営業時間が短縮され、一斉休業に入っている。戦時体制のなかで、遊里は急速に勢いを失っていった。

戦後から1958年の終わりまで

1945年(昭和20年)10月、函館にアメリカ軍が進駐すると、大森町は一時活気を取り戻した。翌1946年1月にGHQが公娼制度の廃止を命じたが、その後も旧公娼地域が「赤線」として指定され、大森町は事実上、従来の営業が続いた。経緯は赤線・青線とは?戦後の特殊飲食店街の歴史を解説に詳しい。1956年に売春防止法が成立し、1958年(昭和33年)4月の完全施行で、大森遊郭は廃止された。1970年には、売春を余儀なくされた女性の就業を斡旋する「婦人相談函館職親会」が設けられている。

雪に覆われた函館・姿見坂。坂の両側に住宅が並ぶ
函館山の麓の姿見坂(2023年12月撮影)。名は、坂の上にあった遊廓の遊女たちの姿が見えたことに由来するとされる
撮影・作者: 掬茶 / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

跡地の今|蓬莱町、山ノ上、そして大門

蓬莱町の遊廓の跡は、いまは路面電車が通る街だ。遊廓を示すものは残っておらず、周辺に戦前の看板建築が点在して盛り場の面影をわずかに残す程度だという。山ノ上の遊廓にかかわるものとしては、船見町の地蔵寺に、「廓内遊女屋」と刻まれた遊女の供養塚と、万延元年(1860年)の刻字がある遊女の墓があり、数少ない遺構とされる。

大門は、いまは函館駅前の繁華街の通称で、行政上の町名とは一致しない。かつては百貨店の棒二森屋が1937年に開業し、戦後は別のデパートも加わって、駅前の中心になった。1977〜78年に設けられたアーケードは2015年に撤去され、1988年の青函トンネル開業で青函連絡船が廃止されると、人の流れは大きく減った。市の2013年の資料では、休日の歩行者通行量が1991年から2012年の間に72.5%減った。2016年に複合施設のキラリス函館が開業し、2019年には新しい商業施設ができたが、同じ年に棒二森屋は閉店した。2023年の市長選後、市長は駅前大門を「函館の顔」と位置づけ、再開発への関与を表明している。大正期に東京以北で最大とされた遊廓が置かれた場所が、ほぼ姿を変え、再開発が課題となる駅前になっているのが、いまの大門だ。

函館は、1871年、1907年、1934年と、何度も大火に見舞われた町だ。そのたびに町の姿が大きく変わった。跡地を歩く場合は、地図と年表を手元に置いて歴史の層を重ねてみるとよい。住宅地の部分が多いので、住民の生活への配慮も忘れたくない。

まとめ

函館の遊廓は、幕末の開港前後に函館山の麓の山ノ上町で吉原風の遊廓としてできた。1871年の大火で蓬莱町へ移り、1873年に貸座敷の営業地として蓬莱町・台町・豊川町が指定された。1907年の大火のあとは大森町に集約され、入口の門が「大門」の地名になった。大正8年には貸座敷116軒、娼妓648人、芸妓392人と、東京以北で最大の規模とされた。戦後は赤線として続き、1958年4月に廃止された。いま遊廓の建物は残っておらず、地蔵寺の供養塚や姿見坂の名、駅前の「大門」という呼び名に、その歴史が残る。ほかの地域は北海道・東北の遊郭跡で比べられる。

よくある質問

Q. 函館の遊廓はどこにあったのですか?
A. 幕末から1871年までは函館山の麓の山ノ上町、1872年からは蓬莱町(現在の宝来町付近)と台町、豊川町、1907年の大火後は大森町(現在の函館駅前、大門付近)にあった。

Q. 「大門」の名はどこから来たのですか?
A. 大森町の遊廓の入口に、吉原にならった大きな門が建てられたことに由来するとされる。門は1934年の函館大火で焼け、再建されていない。今の大門は函館駅前の繁華街の通称だ。

Q. 函館の遊廓はいつ終わったのですか?
A. 1946年のGHQによる公娼制度の廃止後も、大森町は赤線地帯として事実上続いた。1958年4月の売春防止法の完全施行で廃止された。

Q. 函館の遊廓は何度も移転したのですか?
A. 大火のたびに移っている。1871年の大火で山ノ上から蓬莱町、1907年の大火で蓬莱町と台町から大森町へ移った。

Q. 遊廓の建物は今も残っていますか?
A. 残っていない。山ノ上町の遊廓は1871年の火事で跡形もなく、蓬莱町の跡も路面電車の通る街になっている。船見町の地蔵寺に、遊女の供養塚と墓がある。

Q. 函館の遊廓はどのくらいの規模でしたか?
A. 1919年(大正8年)の統計で貸座敷116軒、娼妓648人、芸妓392人だった。札幌の約2倍の規模で、東京以北では最大とされる。

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画像の出典

  • 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
  • 写真: 掬茶 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
  • 地図: © OpenStreetMap contributors
  • 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成
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