※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。
松山の道後温泉は、日本でも指折りの古い温泉地として知られる。その本館の裏手、宝厳寺へ上がる坂道は、かつて「松ヶ枝町」の遊廓があった場所で、「ネオン坂」の通称で呼ばれてきた。いまは「上人坂」の名で整備が進む。この記事では特定の店舗や営業には触れず、道後の湯治客の宿場に生まれた歓楽がどのように公認され、どう終わり、いまどんな姿になっているかを、愛媛県史の記述を軸に、確認できた資料の範囲で整理する。公開資料の少ない部分は、そのことを明記した。
道後・松ヶ枝遊廓の要点
松ヶ枝遊廓とは|場所と呼び名
愛媛県史は、松ケ枝町の遊郭があったのは、道後温泉本館の後方、坂道を登った所だと記す。坂の上にあるのは宝厳寺だ。時宗の寺で、一遍上人の誕生地として境内は1949年に愛媛県の史跡に指定されている。寺伝では、かつて松ヶ枝町一帯に12の支院があったという。呼び名は一定せず、資料によって「松ヶ枝町」「松ケ枝遊廓」「ネオン坂」「上人坂」と書かれる。1930年(昭和5年)の『全国遊廓案内』は「道後湯之町松ヶ枝遊廓」と載せ、現在の行政上の町名としては、道後湯月町とする記事がある。旧町名と今の住所の対応を、公開資料で確かめることはできなかった。遊廓、新地、花街という言葉の違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いで整理している。

江戸時代の道後|十軒茶屋と松山藩の公認
道後の歓楽のルーツは、湯治客の相手をする茶屋にある。愛媛県史によれば、1840年ごろ(天保11年ごろ)、松山藩は道後温泉場に「十軒茶屋」と呼ばれる飲食業者の株仲間を認めた。各店には5〜6人の女性がいて、湯治客の相手をしていたという。ところが1853年(嘉永6年)、藩は「風儀を乱す営業」として売春営業を禁止する。3年後の1856年(安政3年)、業者の陳情を受けて今度は公認に転じ、線香1本につき六分の賦金(税)を納めさせた。これが松山藩の公娼制の始まりとされる。同じ時期、三津浜・北条・中島・今治・長浜・川之江などの港にも同様の宿があり、藩に上納して営業していた。
明治の公娼制度|解放令から仮規則、道後・三津・今治へ
廃藩置県のあと、道後と三津の十軒茶屋の株仲間は廃止されたが、茶屋での売春は続いた。神山県と石鉄県も売春を公認して賦金を取ったため、私娼が増えたと県史は書く。1872年(明治5年)にはマリア・ルーズ号事件をきっかけに、太政官布告などで人身売買の禁止と芸娼妓の解放が宣言された(経緯は日本の遊廓の成り立ちと全国一覧も参照)。しかし、解放されても生活の手立てがなく、元の仕事に戻る人が多かった。
そこで1873年(明治6年)8月、愛媛県は「芸娼妓営業仮規則」を布達する。芸娼妓は「独立自由営業者」、楼主は「貸し席業者」とされ、遊郭は貸座敷業として復活した。営業が許された場所は、道後、三津、今治の3か所に限られた。県権令の岩村高俊は、遊郭を道後湯月町・三津・今治に限る改革を進め、性病の検査制度を導入した。1876年には、道後祝谷に梅毒専門の病院「駆梅院」ができ、感染した芸娼妓は休業させて、その間の賦金は免除された。ただし、生活のため病気を隠して客を取る者が多かったという。同じ1876年6月10日には、芸娼妓に読み書きや裁縫を教える湯月女紅場が道後につくられたが、収益は上がらず、約5年で実質的に消滅した。
遊廓の成立|1877年説と1878年説
では、いつ松ヶ枝町の遊廓が成立したのか。資料は割れている。1930年の『全国遊廓案内』を引く個人の調査サイトは、もとは温泉旅館の女中が湯女として客を取っていたが、風紀の取締りのため、1878年(明治11年)に現在の遊廓が許可されたと紹介する。一方、1877年(明治10年)に、散在していた貸座敷を宝厳寺へ至る坂の両側に24軒集めたとする説明もある。愛媛県史は、道後で茶屋営業が続いたことは詳しく記すが、遊郭の開設年は明記していない。ここでは、成立は明治10〜11年ごろとするのが、確認できる範囲の結論になる。

撮影・作者: Suicasmo / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
日露戦争後の賑わいと『坊っちゃん』
愛媛県史は、日露戦争期(1904〜05年)に、松ケ枝町遊郭が戦後の好景気と、捕虜となったロシア将兵によって活気づいたと記す。このころの道後は、すでに全国に知られる温泉地だった。道後温泉本館は1894年(明治27年)に改築された木造3階建てで、松山市の資料は国の重要文化財と位置づけている。1895年には夏目漱石が松山に赴任し、正岡子規もこの年に松山へ戻って、漱石と同じ家で暮らした。
漱石は、そのときの体験をもとに、1906年に小説『坊っちゃん』を発表した。作中では、「住田」という温泉町が登場し、城下から汽車で10分ほどの距離にあって、料理屋や温泉宿のほかに遊廓があると書かれる。主人公が団子を食べた店は、遊廓の入口にあった。さらに、山門の中に遊廓があるのは前代未聞だ、と驚く場面もある。住田は道後がモデルと考えられており、松山市の「道後温泉活性化計画」も、『坊っちゃん』で描かれた上人坂やかつての遊郭跡を、地域の歴史資源として挙げている。ただし、作中の描写と実在の場所の細かな対応は、読み手の解釈による部分も大きい。
昭和初期の規模|資料ごとの数字
松ヶ枝町の規模を示す数字は、確認できた範囲では、いずれも個人サイトが引用する2次的な情報で、原典は確認できていない。1930年の『全国遊廓案内』を引く記事は、貸座敷29軒(居稼ぎ制4軒、送り込み制25軒)、娼妓63人で、娼妓の過半数が芸妓の鑑札も持つ「二枚鑑札」だったと紹介する。また、芸娼妓は検番で管理されていた。戦後の『全国女性街ガイド』(発行年は不明)を引く記事は、赤線にあたる松ヶ枝町の坂道に、昔ながらの遊廓が23軒、娼妓が約180名と書いている。時期も数え方も違うため、数字を単純に並べて比べることはできない。
| 時期 | 数字 | 出典(いずれも個人サイトの引用で原典未確認) |
|---|---|---|
| 1930年 | 貸座敷29軒(居稼ぎ4・送り込み25)、娼妓63人 | 『全国遊廓案内』を引く記事 |
| 戦後(年不明) | 遊廓23軒、娼妓約180名 | 『全国女性街ガイド』を引く記事 |
戦後のネオン坂歓楽街と1958年の終わり
戦後、松ヶ枝町は赤線となった(赤線・青線とは?戦後の歴史)。坂の入り口には、「ネオン坂歓楽街」と書かれたアーチ状のネオンの看板があり、これが通称の由来になった。写真家の渡部章正氏が昭和20〜30年代に撮影した写真には、袖看板のネオンが多く写っていると紹介されている。「ネオン坂」の呼び名がいつ定着したかは、戦争景気のころとする紹介もあるが、確かな記録は確認できなかった。
終わりは、1958年(昭和33年)の売春防止法の全面施行だ。法は1956年に公布され、1958年4月に完全に施行された(売春防止法(1956年)の歴史)。個人サイトには、遊郭が1956年や1957年に消えたと書くものもあるが、全面施行の年とは合わない。法の公布や一部施行の年を指すとみられる。なお、1945年7月26日には松山市が空襲を受けたが、道後地区の被害や、遊廓の建物への影響は、確認できた資料では分からなかった。
もう一つの遊所|三津浜の稲荷新地
松山には、道後のほかにもう一つ、港町の三津浜にも遊所があった。愛媛県史が、道後・三津・今治の3か所に営業地を限ったと書く「三津」にあたり、個人の調査記事は「稲荷新地」として紹介している。跡地は現在、住宅地や工場用地になっているという。道後が湯治客の温泉町に結びついていたのに対し、三津浜は港の遊所だった点が違う。同じ県内の旧遊廓は中国・四国の遊郭跡にまとめた。

撮影・作者: Dokudami / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

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今の姿|ネオン坂から上人坂へ
坂の入り口にあった「ネオン坂歓楽街」のアーチは撤去され、2011年ごろの取材記事では脚の部分だけが残っていた。かわりに、宝厳寺の大きな石碑が坂の入り口に立つ。転機になったのは、2013年(平成25年)8月10日の宝厳寺の火災だ。本堂と庫裏が全焼し、国の重要文化財だった木造一遍上人立像も焼失した。その後、檀家を中心に「道後上人坂再生整備協議会」が発足し、宝厳寺の再建と上人坂の再生が動き出して、2016年5月に本堂などの落慶法要が営まれた。松山市の「道後温泉活性化計画」は、上人坂を門前町の風景として再生する方針を示し、坂を4つのゾーンに分けて整備を検討している。市の道後文京地区の都市再生整備計画(平成25〜29年度)の事業一覧にも、「上人坂町家再生整備事業」と「上人坂道路景観整備」が含まれる。
建物は、年々減っている。2010年の個人ブログは「古い建物が残り少なくなった」と書き、2011年と2013年のコメントでは、解体が進んで更地や駐車場が増えたという報告が続く。それでも、妓楼の造りを残す建物や、二連のアーチ窓のカフェー建築風の建物が数軒あるとする散策記は多い。ただし、現状は年ごとに変わるため、ここでは詳細を断定しない。付近は旅館や寺、住まいのある暮らしの場所であり、外から静かに眺めるのが前提になる。
松ヶ枝遊廓の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1840年ごろ | 松山藩が道後の「十軒茶屋」の株仲間を認める |
| 1853年 | 藩が売春営業を禁止する |
| 1856年 | 業者の陳情を受けて公認に転じ、賦金を取る |
| 1872年 | 芸娼妓解放令 |
| 1873年8月 | 愛媛県「芸娼妓営業仮規則」。営業地は道後・三津・今治に限定 |
| 1876年 | 道後祝谷に「駆梅院」、道後に湯月女紅場が設けられる |
| 1877〜78年 | 松ヶ枝町の遊廓が成立したとされる(1877年説・1878年説) |
| 1894年 | 道後温泉本館が改築される |
| 1904〜05年ごろ | 日露戦争。戦後、松ケ枝町遊郭が最もにぎわったとされる |
| 1906年 | 夏目漱石『坊っちゃん』が発表される |
| 1930年 | 『全国遊廓案内』が松ヶ枝遊廓を載せる |
| 1958年4月 | 売春防止法の全面施行。遊廓・赤線が終わる |
| 2013年8月10日 | 宝厳寺で火災。のち「道後上人坂再生整備協議会」が発足する |
| 2016年5月 | 宝厳寺の本堂などが再建され、落慶法要が営まれる |
| 平成25〜29年度 | 市の都市再生整備計画で上人坂の町家再生や道路整備が行われる |
資料で食い違う点
松ヶ枝遊廓は、確かな公的資料が少なく、情報の多くは愛媛県史と、個人の調査サイト・散策記による。成立年は1877年と1878年、規模は貸座敷が29軒(1930年)や23軒(戦後)などと割れている。1929年末の一覧に基づくとされる別の軒数も見かけるが、原典を確認できていないため、この記事では使っていない。町名の変遷や、戦災の影響、戦後の転業の経緯も、公開資料からは確認できなかった。確認できたことと、できなかったことを分けて読んでほしい。
まとめ
道後の松ヶ枝遊廓は、1840年ごろの十軒茶屋に始まる温泉町の歓楽が、明治に入って、道後・三津・今治の3か所に限られた公認の営業へとまとまったものだ。成立は1877〜78年ごろとされ、日露戦争後に最もにぎわった。戦後は「ネオン坂歓楽街」の名で知られ、1958年の売春防止法の全面施行で終わった。いまは、坂は「上人坂」と呼ばれ、宝厳寺への道として整備が進み、建物は減っている。確かな数字は少なく、資料の食い違いも多い。他の四国の旧遊廓は中国・四国の遊郭跡、温泉地や花街の成り立ちは花街と遊郭の違いも参考になる。
よくある質問
Q. 松ヶ枝遊廓はどこにありましたか?
A. 松山市の道後温泉本館の後方、宝厳寺へ上がる坂道にあった。愛媛県史は、本館の後ろの坂を登った所と記す。通称はネオン坂、現在は上人坂と呼ばれる。
Q. いつから遊廓だったのですか?
A. 1840年ごろに松山藩が認めた「十軒茶屋」が源流とされる。遊廓としての公認は、1878年(明治11年)とする資料と、1877年(明治10年)とする資料がある。愛媛県史は開設年を明記していない。
Q. なぜ道後・三津・今治だけだったのですか?
A. 1873年(明治6年)8月、愛媛県が「芸娼妓営業仮規則」で営業地を道後・三津・今治の3か所に限ったため。解放令のあと、貸座敷業として遊郭が復活した。
Q. 夏目漱石の『坊っちゃん』との関係は?
A. 作中に温泉町「住田」の遊廓が出てくる。住田は道後がモデルと考えられ、山門の中に遊廓があるという描写もあるが、実在の場所との対応は読み手の解釈による。
Q. 遊廓はいつ終わったのですか?
A. 1958年(昭和33年)4月の売春防止法の全面施行による。個人サイトの一部は1956年や1957年とするが、法の公布や一部施行の年とみられる。
Q. いまも建物は残っていますか?
A. 妓楼の造りを残す建物やカフェー建築風の建物が数軒あるとする散策記があるが、解体が進んで更地や駐車場も増えている。現状は年ごとに変わる。
参考にした資料
- データベース『えひめの記憶』(愛媛県生涯学習センター)掲載『愛媛県史 社会経済6 社会』(1987年)「明治期の芸娼妓」(十軒茶屋、仮規則、駆梅院、女紅場、日露戦争後のにぎわい)
- 夏目漱石『坊っちゃん』(青空文庫。住田の描写)
- 松山市「道後温泉事業経営戦略」(道後温泉本館は明治27年改築の国の重要文化財)
- 松山市「道後温泉活性化計画」(宝厳寺の火災と再建、上人坂の再生方針、「坊っちゃん」で描かれた上人坂とかつての遊郭跡)
- Wikipedia「宝厳寺 (松山市)」(愛媛県指定史跡、再建の経緯)
- 松山市「道後文京地区都市再生整備計画」事後評価資料(上人坂町家再生整備事業、上人坂道路景観整備)
- 全国遊廓赤線マップ「道後湯之町 松ケ枝遊廓」(『全国遊廓案内』の引用。個人サイト)
- 寄る辺ない旅のブログ「松ヶ枝遊郭跡に行ってきました【愛媛県松山市】」(2022年。『全国女性街ガイド』の引用、建物の様子)
- Nostalgic Landscape「道後温泉ネオン坂(旧松ヶ枝遊郭)」(アーチ看板、建物の様子)
- 新日本DEEP案内「道後温泉「ネオン坂歓楽街」を歩く」(2011年取材)
- ブログ「消えていく町「ネオン坂」」(2010年。解体の進行についての読者コメント)
- 『全国遊廓案内』(1930年)などの原典は、上記の個人サイトでの引用による。原典は確認していない
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
遊廓と花街の違い・全国概説・東海から九州沖縄の旧遊廓跡。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 写真: Suicasmo 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
- 写真: Dokudami 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
- 地図: © OpenStreetMap contributors
- 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成

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