※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
千住宿は、江戸から日光・奥州へ向かう街道の最初の宿場で、品川・内藤新宿・板橋とあわせて「江戸四宿」と呼ばれた。いまの北千住駅から千住大橋を経て南千住までの一帯にあたり、荷を運ぶ人馬、舟で集まる青物、そして旅籠の飯盛女と、江戸の北の玄関口らしい複数の顔を持っていた。この記事では特定の店舗や営業には触れず、千住宿がいつ、どんな仕組みで栄え、飯盛女や遊廓がどう位置づけられ、隣の小塚原刑場と回向院にどんな歴史があり、いまの街に何が残っているのかを、足立区・荒川区の公式情報や百科事典の記述など、確認できた範囲だけで整理する。
千住宿のポイント
千住宿とは|日光道中の最初の宿場
足立区の公式情報によれば、千住宿は寛永2年(1625年)に建設された。幕府は1624年に日光山造営法度を出して江戸と日光を結ぶ日光道中の整備を始めており、千住から鉢石までに23の宿場が置かれた。千住宿は街道沿いに短冊形の地割りを行い、隅田宿など周辺の家々を集めて形づくられた。足立区立郷土博物館は2025年に開宿400年の特別展を開いている。
宿場の範囲は時代とともに広がった。当初は千住一丁目から五丁目だったが、1658年(万治元年)に掃部宿・河原町・橋戸町が、1660年(万治3年)に千住大橋の南側の小塚原町・中村町が加わった。千住大橋はそれ以前の1594年(文禄3年)に隅田川へ架けられた橋で、足立区は隅田川に架かった最初の橋と紹介している。日光道中だけでなく、奥州街道と水戸街道もここから分かれていた。
規模は大きかった。1843年(天保14年)の『日光道中宿村大概帳』に基づく記述では、本陣1、脇本陣1、旅籠55軒、家数2,370軒、人口9,456人とされる。足立区の特集ページは、同じ1843年に千住宿の人口が江戸四宿で最大で、2位の品川宿の約1.4倍だったと説明している。品川や内藤新宿の宿場と飯盛女については飯盛女と宿場町の記事に整理してあるので、この記事では千住に絞って見ていく。

葛飾北斎 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons

歌川広重 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
宿場のしくみ|問屋場・貫目改所・本陣
宿場の役目は、大名や日光門主などの公用の通行に応じ、次の宿までの荷物を運び、書状を伝え、泊まる場所を用意することだった。人馬の手配をしたのが問屋場で、足立区の説明では千住宿の問屋場は1695年(元禄8年)に設けられ、人足50人・馬50疋を扱った。1743年(寛保3年)には荷物の重さを量る貫目改所が置かれ、馬に積める荷は40貫目(約150キログラム)の「本馬」、20貫目の「軽尻」などと決められていた。次の草加宿までの運賃もこの区分で定まっていたという。2000年の発掘調査では、現在より約1メートル低い江戸時代の遺構面から、問屋場と貫目改所と推定される2棟の建物の跡が見つかっている。
人や馬が足りないときは、周辺の村から人馬を出させる助郷制が1696年(元禄9年)に定められた。大名行列が通れば宿場だけでは手が回らず、近郷の農村にも負担がかかった。参勤交代で往来する大名は、1821年(文政4年)の記録で日光街道4家・奥州街道37家・水戸街道23家の計64家にのぼる。
本陣は、一万石以上の大名や公卿、高僧などが泊まる最も格式の高い宿だった。千住宿の本陣は初期には2軒あり、1734年の宿内の図には三丁目の市郎兵衛と四丁目の嘉左衛門の名が見える。のち記録に残るのは市郎兵衛の1軒だけになった。屋敷は間口9間半(約17メートル)、奥行38間(約69メートル)で、玄関付きの門構えの建物があった。市郎兵衛は千住・草加・越谷・粕壁・杉戸の五宿の本陣の総代を務めたと伝わる。

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荷と人が集まる町|橋戸河岸とやっちゃ場
千住が栄えたのは、街道と水運が交わる場所だったからだ。橋戸河岸には荒川や綾瀬川を使う舟が発着し、米、野菜、陶器などが行き交った。千住の青物市場は「やっちゃ場」と呼ばれ、1735年(享保20年)に幕府の御用市場になり、神田・駒込と並ぶ江戸の三大青物市場の一つに数えられた。足立区の特集ページは、こうした町人の経済力が美術や文化の発展を支えたと説明している。
文化の面でも名が残る。1689年(元禄2年)、松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅に出て、千住で門人たちと別れたとされる。1815年(文化12年)には酒の大量飲みを競う「千住酒合戦」が催された。こうした行楽と文化の町だったことが、遊所としての千住を考える前提になる。
飯盛女と千住宿|幕府が人数を決めた半公認の存在
江戸時代、売春を認められた区画は吉原などに限られていた。ただし宿場の旅籠には、給仕を名目にした「飯盛女」が置かれ、半ば黙認されていた。幕府の触書では1718年以降「食売女」と書かれる。宿場は公用の負担や競争で苦しく、客を集める手段として黙認を求めたとされ、幕府は人数に上限を設けて拡大を抑えようとした。上限は千住・板橋が150人、品川が500人とされ、定めた年を1764年とする説明と1772年とする説明がある。千住宿については、足立区立郷土博物館の資料を引く解説が、飯盛旅籠を36軒としている。数字は二次的な資料によるため、大まかな目安として受け取りたい。
千住宿の飯盛女は、いまも供養塔にその痕跡を残している。足立区の史跡一覧には、千住二丁目の金蔵寺にある遊女供養塔と、千住一丁目の不動院にある食売旅籠遊女供養塔が載っている。金蔵寺は、岡場所で亡くなった遊女が葬られたと伝わる「投げ込み寺」で、天保の飢饉の死者を弔う無縁塔もある。身寄りのないまま亡くなった人々を弔う場所が、いまも町の寺に残っているのだ。
明治になると制度は変わった。1871年(明治4年)に伝馬所が廃止されて宿場の役割が終わり、同年7月には宿の娼妓に梅毒の検査をする千住黴毒院が開設された。1883年(明治16年)の記録では売娼妓374人・買客43,000人、1888年(明治21年)は466人・65,000人で、いずれも内藤新宿と板橋宿を上回ったとされる。1872年の芸娼妓解放令のあと、遊女屋は貸座敷と名を変えていく。
千住柳町の遊廓|宿場から集娼地へ
宿場の旅籠が貸座敷へ変わったあと、千住では営業地の集約が進んだ。成立の時期は資料によって説明が分かれる。Wikipediaは、明治中ごろに内務省が散らばった貸座敷を1か所にまとめる計画を立て、1886年ごろ現在の千住柳町の湿地を埋め立てて「新柳町」の遊廓ができたとする。一方、地域史のアーカイブサイトは、1919年(大正8年)に千住の遊廓が「柳新地」、現在の千住柳町へ移ったと説明し、関東大震災のとき被害が少なかったため吉原や洲崎から客が流れてきたとも記す。移転か新設か、いつかという点は、確認できた資料の間で食い違いがあり、本記事では断定しない。
終わりは共通している。戦後は赤線として続き、売春防止法の施行で営業地としての歴史を終えた。同法は1956年に公布され、1958年(昭和33年)4月1日に全面施行された。地域史の資料には1957年の施行と書くものもある。くわしい経緯は売春防止法の記事と赤線・青線の記事にある。
花街の側面もあった。明治期に「千住芸妓組合」が結成され、見番が置かれたとされ、1962年の写真には「見番横丁」が写っている。いまの千住柳町は町名が一つだけで丁目の区分がなく、主に住宅地だ。遊廓時代の面影について、資料で確認できたのは、遊廓の大門の名を残す「千住大門商店街」の名前までで、商店街の入口にあったアーチは2020年に撤去された。建物が残るかどうかは、公開資料では確認できなかった。生活の場なので、歩く際は静かに通りたい。
小塚原刑場と回向院|千住大橋の南にあった刑場
千住宿の南端、千住大橋を渡った先の小塚原には、江戸の刑場があった。慶安4年(1651年)に設置され、間口60間(約108メートル)、奥行30間余(約54メートル)の規模で、品川の鈴ヶ森刑場とともに江戸の二大刑場とされた。磔や斬罪、獄門などが行われ、明治6年(1873年)に廃止された。処刑された人数は20万人を超えるとする説明もあるが、根拠となる確かな記録かどうかは確認できていない。
刑場の脇には、1667年(寛文7年)に本所回向院が刑死者や無縁の死者を弔うために別院を開いた。これが小塚原の回向院だ。荒川区の説明では、墓所には安政の大獄で刑死した吉田松陰や橋本左内などの墓碑があるが、多くは赦免や明治以降の改葬で菩提寺などに移され、現在は記念墓になっている。刑場跡は荒川区指定の記念物(史跡)、観臓記念碑や吉田松陰の墓は区登録の記念物(史跡)とされる。
医学の歴史でも知られる。1771年(明和8年)、杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らが小塚原で刑死者の腑分け(解剖)を見学し、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に進んで、1774年に『解体新書』が刊行された。回向院の境内にある観臓記念碑は1922年(大正11年)に建てられ、戦災で壊れたため、『解体新書』の扉絵をかたどった青銅板を移して再建されている。
延命寺は、もとは回向院の一部だった。1895年(明治28年)に鉄道の敷設で敷地が線路に分断され、線路の南側が1982年(昭和57年)に延命寺として開かれた。境内の首切地蔵は1741年(寛保元年)の建立で、刑死者の供養のために造られた高さ4メートル近い石像だ。もとは刑場の入口にあり、鉄道工事の際に現在地へ移された。荒川区の文化財に指定されている。延命寺は南千住二丁目、回向院は南千住五丁目にある。

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小田野直武 / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
千住宿・小塚原の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1594年 | 千住大橋が隅田川に架けられる |
| 1625年 | 日光・奥州街道の初宿として千住宿が成立する |
| 1651年 | 小塚原刑場が設置される |
| 1658年 | 掃部宿・河原町・橋戸町が宿場に加わる(1660年に小塚原町・中村町) |
| 1667年 | 本所回向院が小塚原に別院を開く |
| 1695年 | 千住宿に問屋場が設けられる |
| 1735年 | 千住の青物市場が幕府の御用市場になる |
| 1741年 | 首切地蔵が建立される |
| 1743年 | 貫目改所が設けられる |
| 1771年 | 杉田玄白らが小塚原で腑分けを見学する(1774年に『解体新書』刊行) |
| 1843年 | 宿の人口9,456人、旅籠55軒(『日光道中宿村大概帳』) |
| 1871年 | 宿駅制が廃止される。千住黴毒院が開設される |
| 1873年 | 小塚原刑場が廃止される |
| 1919年 | 千住の遊廓が柳新地へ移ったとする説明がある(資料により異なる) |
| 1958年 | 売春防止法の全面施行で遊廓・赤線が終わる |
| 2025年 | 千住宿が開宿400年を迎える |

いまの千住を歩く|旧日光街道から小塚原まで
千住宿の道筋は、旧日光街道としていまも通っている。足立区の特集ページは、街道沿いに「うなぎの寝床」と呼ばれる細長い敷地が並び、道幅や地形は江戸時代からほとんど変わっていないと紹介する。北千住駅から歩くなら、次の順が分かりやすい。
- 千住宿本陣跡(千住三丁目)|路地の角に標柱が立つ。1984年に足立区登録記念物(史跡)となった。
- 問屋場及び貫目改所跡(千住一丁目)|東京芸術センター前の広場にあたる。同じく1984年に区の登録記念物となっている。
- 千住大橋|千住宿の南の入口。1594年に隅田川へ最初に架けられた橋の流れを引く。
- 千住宿歴史プチテラス(千住河原町)|千住宿の面影を伝える横山家の土蔵を復元したギャラリー。展示のあるときのみ開館する。
- やっちゃ場の跡(千住河原町)|稲荷神社の境内に「千住青物市場創設三百三十年祭紀年碑」がある。
- 小塚原の延命寺・回向院(南千住)|南千住駅から徒歩数分。寺の境内なので静かに参拝する。
横山家住宅(千住四丁目)は、間口約23メートル、奥行約102メートルの商家で、足立区の登録有形民俗文化財だが、内部は通常は非公開だ。史跡や寺院の見学は、案内に従い、周りの住民や参拝者に配慮してほしい。足立区は2025年に開宿400年を記念した特設サイトも設けた。
まとめ
千住宿は1625年に開かれた日光道中の初宿で、江戸四宿のうち人口が最大だった。問屋場や貫目改所、本陣が置かれ、水運とやっちゃ場が町の経済を支えた。旅籠の飯盛女は幕府が人数の上限を定めた半公認の存在で、明治以降は千住柳町へと集約され、1958年の売春防止法の全面施行で終わった。隣の小塚原には1651年から1873年まで刑場があり、いまは回向院と延命寺に、供養と医学史の記憶が残る。千住には、宿場町・流通の町・遊所・刑場という、江戸の北の玄関口の影が一続きで残っている。ほかの地域の旧遊廓は関東の遊郭跡、全体像は歴史・知識の記事一覧から読める。
よくある質問
Q. 千住宿はどこにありましたか?
A. いまの足立区千住一〜五丁目、千住仲町、千住橋戸町、荒川区南千住にまたがる一帯だ。北千住駅の周辺から千住大橋、南千住の小塚原までが宿場の範囲に含まれた。
Q. 江戸四宿とは何ですか?
A. 江戸の出入口にあたる品川宿・内藤新宿・板橋宿・千住宿の総称だ。千住宿は日光道中と奥州街道の最初の宿場で、水戸街道もここから分かれた。
Q. 千住宿に飯盛女は何人いたのですか?
A. 幕府が定めた上限は150人とされる。実際の人数は確認できた資料がなく、断定はできない。明治の1883年は売娼妓374人、1888年は466人という記録がある。
Q. 千住の遊廓はいつ終わりましたか?
A. 戦後は赤線として続き、売春防止法の施行で終わった。同法は1956年公布、1958年4月1日に全面施行された。地域史の資料には1957年の施行と書くものもある。
Q. 小塚原刑場はどんな場所でしたか?
A. 1651年に設置され、1873年に廃止された江戸の二大刑場の一つだ。間口約108メートル、奥行約54メートルの広さで、現在は回向院と延命寺の境内にその跡が残る。
Q. 小塚原の首切地蔵は誰が建てたのですか?
A. 1741年(寛保元年)に刑死者の供養のために建てられた。建立した主体を示す資料は今回の調査では確認できなかった。荒川区の指定文化財になっている。
Q. 千住宿の見どころは今も残っていますか?
A. 本陣跡と問屋場・貫目改所跡の標柱や広場、千住大橋、復元された土蔵のギャラリー、やっちゃ場の碑などが残る。建物としては横山家住宅が区の登録文化財だが、内部は非公開だ。
参考にした資料
- Wikipedia「千住宿」、「小塚原刑場」、「飯盛女」、「千住柳町」、「金蔵寺(足立区)」
- 足立区「日光道中と千住宿」(足立区立郷土博物館)
- 足立区「千住宿開宿四百年記念特集」、文化遺産調査特別展「千住宿400年」
- 足立区「千住宿本陣跡」、「千住宿問屋場及び貫目改所跡」
- 足立区「千住地区」史跡一覧
- このまちアーカイブス「千住」(千住遊郭・千住大門商店街)
- 荒川区「回向院」、「延命寺」、荒川区立図書館「回向院(小塚原回向院)」
あわせて読みたい
- 飯盛女とは?品川・内藤新宿の宿場町の歴史
- 東京の旧赤線・旧遊廓跡とは?吉原・洲崎・玉の井を歩く歴史と今の姿
- 関東の遊郭跡|吉原・洲崎・玉の井ほか旧遊廓の場所と今の姿
- 売春防止法(1956年)とは?成立から施行までの歴史
- 風俗の歴史・知識の記事一覧
このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(東日本編)
北海道・東北・関東・甲信越・北陸・静岡の旧遊廓と花街の歴史。前後に読むならこのあたり。
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