日活ロマンポルノとは?1971年の誕生から1988年の終了までの歴史を解説

※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の作品・施設・営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。

日活ロマンポルノは、1971年11月に始まり1988年まで続いた、日活の成人映画路線だ。傾いた会社を立て直すための一手として生まれ、約1,100本が作られ、のちに日本映画を支える監督や脚本家を数多く送り出した。この記事では作品の中身ではなく、始まりの事情、製作の仕組み、裁判、終わり方までを歴史として整理する。

日活ロマンポルノの歴史

日活の経営危機から生まれた路線1971年11月に開始・1988年に終了約1,100本が製作された「芸術かわいせつか」を問う裁判若手映画人を育てた撮影所
目次

経営危機の中から生まれた路線

日活は1960年代、テレビの普及と映画界全体の斜陽に押され、苦しい経営が続いていた。配給収入は1965年に大きく落ち込んで業界3位に転落し、1967年に4位、1969年には松竹にも抜かれて最下位になったとされる。看板スターの引退や急逝、アクション映画のマンネリ化、社長のワンマン体制による過剰な不動産投資などが、原因として挙げられている。

会社は資産を手放して耐えた。1969年に撮影所を売却し、1970年には日比谷の日活国際会館を三菱地所に売った。同じ1970年には大映と配給部門を統合して「ダイニチ映配」を設立したが、事態は好転しなかった。1971年6月にワンマン社長だった堀久作が退陣し、翌7月には映画製作が中断され、再建委員会が置かれた。8月に『不良少女 魔子』『八月の濡れた砂』を最後にダイニチ映配から離脱し、日活は大映との共同配給の枠組みから離れた。

低予算の成人映画へ|1971年の決断

打開策を話し合ったのは、会社と労働組合が設けた「映像委員会」だ。1971年8月中旬の同委員会で、営業担当者からポルノ映画の製作・配給が提案され、約1か月の検討を経て、採算面から低予算の成人映画に踏み切ることが決まったとされる。この過程で、日活は306名の希望退職を募っている。同じ年の12月には大映が破産し、五社協定も崩れた。日活の決断は、映画会社の旧来の体制が崩れる時期と重なっていた。

成人向け映画そのものは、このとき初めて生まれたわけではない。1962年公開の『肉体の市場』は独立プロ製作の「ピンク映画」第1号とされ、1965年の映倫審査では成人映画233本のうち大手五社の作品は17本だった。1971年には東映も「ポルノ」という言葉を広める作品を出している。日活はそこへ、会社をあげて参入する道を選んだ。

名称の「ロマンポルノ」は、「ポルノロマン」という案を裏返し、ロマンを求めるポルノという意味を込めたと伝えられる。ただし由来には別の説もあり、はっきりしない。

第1作は『団地妻 昼下りの情事』

第1弾の公開は1971年11月で、『色暦大奥秘話』と『団地妻 昼下りの情事』が並んだ。後者は11月20日公開、西村昭五郎監督・白川和子主演の64分の作品だ。日活調布撮影所に近い神代団地で撮影され、製作費は750万円と、当時としても低予算だったとされる。公開時は連日立ち見が出て、興行収入は当時の金額で1億円に達したという。

この成功を受けて、「団地妻」を題名に掲げた作品が次々に作られ、事実上のシリーズになった。西村監督はその後もロマンポルノで活躍し、84作品を手がけたとされる。

製作の仕組み|撮影所を使った量産体制

上映は、3本立てを2週間かけて回す形が基本だった。3本のうち2本が自社製作、1本が買い付け作品とされる。単純に数えれば、2週間ごとに自社製作の新作が2本必要になり、撮影所は量産体制で動くことになった。作品は約70分、10分に1回は絡みの場面を入れる、といった約束事があったと伝えられている。こうした枠が、製作上の基本条件だった。

製作費は資料によって差がある。初期は4,000万〜5,000万円とする記述もあれば、1973年の業界誌に750万円と書かれたともされ、1980年代後半は約2,000万円、撮影期間は約2週間だった。限られた予算を補ったのが撮影所の資産で、1972年の『(秘)女郎市場』ではテレビ時代劇『大江戸捜査網』のセットを再利用した、と監督自身が語っている。助監督の採用試験には多数の応募があったとされ、ロマンポルノは若手が監督や脚本家として経験を積む場になった。

年表|1971年から1988年までの主な出来事

年 出来事
1971年8月 『不良少女 魔子』『八月の濡れた砂』を最後にダイニチ映配を離脱
1971年11月 ロマンポルノ第1弾公開(『団地妻 昼下りの情事』は11月20日)
1972年 4作品が警視庁に摘発される(のちの日活ロマンポルノ裁判)
1978年 6月、東京地裁が無罪判決。債務超過のなか社名を「にっかつ」に変更
1980年 7月、東京高裁も無罪。18年ぶりに復配
1982年 配給収入が39億895万円と最高に
1985年 新風営法の施行。ビデオ撮影の「ロマンX」が始まる
1988年4月14日 経営陣がロマンポルノ製作の終了を発表
1988年5月28日 最終作が公開される
1989年8月3日 成人映画路線は別会社に委託され、「エクセス・フィルム」で続く

監督と作品の系譜

ロマンポルノの監督としては、曽根中生、田中登、小沼勝、神代辰巳らが高く評価されてきた。

神代辰巳は1968年の『かぶりつき人生』で監督デビューしたが、興行成績は日活の一般作で史上最低だったとされる。1972年にロマンポルノで監督に復帰し、『濡れた唇』(1972年)、『恋人たちは濡れた』(1973年)、『四畳半襖の裏張り』(1973年)、『赤線玉の井・ぬけられます』(1974年)などを残した。1974年には東宝の『青春の蹉跌』がキネマ旬報ベストテン4位に入り、晩年の『棒の哀しみ』(1994年)は1995年の毎日映画コンクール監督賞などを受けている。

小沼勝は1971年の『花芯の誘い』で監督デビューし、40本以上を手がけた。曽根中生は同じ年に『色暦女浮世絵師』でデビューし、1972年の『(秘)女郎市場』、1979年の『天使のはらわた 赤い教室』などを撮った。一方、1972年の曽根作品『色情姉妹』は映倫の再審査を受け、上映3日で打ち切られており、表現の線引きをめぐる緊張は常にあった。

ロマンポルノから出発した人物には、村川透、根岸吉太郎、金子修介、石井隆らがいる。脚本では田中陽造、荒井晴彦らの名が挙がる。若手を育てる現場として働いたことが、この路線の大きな歴史的意味とされる。

わいせつ裁判|「芸術か、わいせつか」を問うた約9年

1972年2月3日、日活の映画本部室長ら4人が警視庁に出頭して取り調べを受けた。同年9月には、映画本部長、製作・配給の責任者、監督、プロデューサーら6人が、わいせつ図画公然陳列の容疑で逮捕された。さらに、作品を審査した映倫の審査員3人も、その幇助の容疑で逮捕されている。問われたのは『愛のぬくもり』『恋の狩人・ラブハンター』『OL日記・牝猫の匂い』と、プリマ企画製作・日活配給の『女高生芸者』の計4本だ。

映倫の審査員まで被告になったことで、問題は日活一社にとどまらなくなった。映画製作者連盟は裁判を支援する対策委員会をつくっている。法廷で争われたのは、まさに「芸術かわいせつか」という点だった。1978年6月、東京地方裁判所は無罪を言い渡した。性的な描写をどこまで許すかは時代とともに変わる社会的な通念で決まるとし、映倫の審査も尊重すべきだと判断したと伝えられる。検察は控訴したが、1980年7月に東京高等裁判所も検察の控訴を棄却して無罪とし、検察が上告を断念して確定した。足かけ9年に及ぶ裁判だった。なお、起訴の時期や確定の正確な日付は、資料に明記がない。

会社の再建と最盛期

ロマンポルノの収益で日活が安泰になったわけではない。1975年に堀雅彦が辞任して堀親子は経営から退き、1977年には製作の中心にいた黒澤満らが東映へ移った。1978年には債務超過で東証一部上場廃止の危機に陥り、社名を「にっかつ」に改めている。1980年、裁判の無罪確定と同じ年に、会社は18年ぶりに復配した。

配給収入は1982年に39億895万円と最高を記録した。この時期には、元アイドルやベテラン女優を起用した「エロス大作」も作られている。

衰退と終了|アダルトビデオと1985年の新風営法

流れを変えたのはビデオだ。アダルトビデオは1981年に登場し、家庭用ビデオの普及率は1987年に約50%に達したとされる。配給収入は1982年のピークから下がり続け、1987年には22億7,000万円になった。

1985年には新風営法が施行され、「女教師」「人妻」といった言葉を題名に使えなくなり、客足が約3分の2に落ちたとされる。同じ年から1988年にかけては、ビデオカメラで撮影した「ロマンX」も公開され、第1作は『箱の中の女』だった。

1988年4月14日、経営陣は「ロマンポルノの映画製作を終了する」と発表した。第1作から約16年半での幕引きだ。最後の作品は5月28日公開の『ベッド・パートナー』と『ラブ・ゲームは終わらない』である。7月1日からは系列館を「ロッポニカ」と改めて一般映画路線を再開したが、不入りが続いて半年ほどで打ち切られた。成人映画の路線は1989年8月3日から別会社の新日本映像に委託され、「エクセス・フィルム」のレーベルで続いている。

その後|リターンズ、リブート、そして再評価

ロマンポルノは終了後に再評価の機会を得ている。2010年には「ロマンポルノ・リターンズ」として、『団地妻 昼下がりの情事』が中原俊監督でリメイクされた(2月13日公開)。2012年の日活創立100周年には企画「生きつづけるロマンポルノ」が開かれ、約1,100タイトルから山根貞男、蓮實重彦、山田宏一の3人が32タイトルを選んだ。2015年には旧作の映倫再審査が始まり、一部がR15+に引き下げられた。

2016年には「日活ロマンポルノ リブートプロジェクト」が発表され、園子温、中田秀夫、行定勲、白石和彌、塩田明彦の5人が参加した。上映時間80分前後、製作費は全作品で統一、撮影期間は1週間、完全オリジナル作品という共通条件で撮られ、2016年11月から2017年2月にかけて順次公開された。28年ぶりの新作企画だった。2022年には50周年企画「ROMAN PORNO NOW」で新作3本の制作が発表されている。

評価と影響

映画評論家の佐藤忠男は、この路線が批評家から高く評価されたと述べている。大島渚は、映画会社が会社をあげてポルノを製作した例は世界的にも珍しいと評した。経営危機の対策として始まった路線が、結果として日本映画の人材の供給源になったという点が、この歴史の核心といえる。

あわせて、ビデオの普及や新風営法がロマンポルノを追い詰めた流れは、成人向けメディア全体の移り変わりとも重なる。ビデオ時代の入り口については、アダルトビデオの歴史の記事でまとめている。

まとめ

日活ロマンポルノは、1960年代後半からの経営危機のなかで、1971年11月に始まった低予算の成人映画路線だ。約1,100本が作られ、神代辰巳、曽根中生、田中登、小沼勝らの作品群と、そこから巣立った映画人を生んだ。1972年の摘発に始まる裁判は、1978年の地裁無罪、1980年の高裁無罪で決着した。1980年代にはアダルトビデオと1985年の新風営法で客足を失い、1988年に製作を終えたが、2010年のリターンズや2016年のリブートなど、その後も振り返られ続けている。

よくある質問

Q. 日活ロマンポルノはいつ始まりましたか?
A. 1971年11月に始まりました。第1弾は『色暦大奥秘話』と『団地妻 昼下りの情事』で、後者は11月20日に公開されています。

Q. なぜ日活はポルノ路線に転換したのですか?
A. 1960年代後半からの経営難のなかで、会社と労働組合の「映像委員会」で提案され、低予算で採算がとれるとして踏み切ったとされます。

Q. 全部で何本作られましたか?
A. 1971〜88年に製作された作品は約1,100タイトルとされています。

Q. 裁判の結果はどうなりましたか?
A. 1978年6月に東京地裁、1980年7月に東京高裁が無罪を言い渡し、検察が上告を断念して確定しました。

Q. ロマンポルノはなぜ終わったのですか?
A. アダルトビデオの普及や1985年の新風営法による題名の制約などで客足が減り、1988年4月に終了が発表されました。

Q. 今も新作は作られていますか?
A. 2016年に5人の監督によるリブートプロジェクトが公開され、2022年には50周年企画で新作3本の制作が発表されています。

参考にした資料

  • Wikipedia「日活ロマンポルノ」「日活」「日活ロマンポルノ事件」「団地妻 昼下りの情事」「ピンク映画」「映倫」「神代辰巳」「小沼勝」「曽根中生」
  • 映画.com「曾根中生監督、日活ロマンポルノ『(秘)女郎市場』を語る」(2012年5月12日)https://eiga.com/news/20120512/12/
  • 映画.com「日活ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」(2016年10月18日)https://eiga.com/news/20161018/15/
  • Real Sound「行定勲ら5人の監督は“ロマンポルノ”をどう蘇らせたか?」(2016年12月)https://realsound.jp/movie/2016/12/post-3519.html
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