※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や数字は資料によって異なる場合があります。現地は住民が暮らす生活の場です。
名古屋の「大門」は、名古屋駅の西側、中村区の中央部にある町の名だ。大正の終わりに大須から移ってきた中村遊廓の中心にあたる地区で、いまも道の形や町境に当時の計画のあとが残る。この記事では、遊廓そのものの全体像ではなく、「大門」という場所に着目する。旭廓がなぜ大須を離れることになったのか、移転先でどんな町ができたのか、戦後に町の性格がどう変わり、建物と土地がどうなっていったのかを、市の紹介ページや研究書で確認できた範囲で整理する。営業や利用には触れない。
大門の歴史をたどる要点
大門とは|町名と範囲
大門は、名古屋市中村区にある単独の町名で、丁目の番号を持たない。住居表示も実施されていない。隣り合うのは、東が中島町、西が道下町、南が羽衣町、北が寿町だ。町が成立したのは1927年(昭和2年)5月1日で、当時の西区の則武町と日比津町の一部から分けられてできた。1937年(昭和12年)10月1日に中村区へ編入されている。2019年2月時点の人口は157人、124世帯と記録されており、面積はごく小さい。
「大門」という名前は、遊廓の五つの町のひとつとしても使われた。移転後の中村遊廓は、日吉・寿町・大門・羽衣・賑の五町からなり、「五町街」「五丁町」と呼ばれたからだ。つまり「大門遊廓」という独立した遊廓があったというより、中村遊廓の中の町名が、そのまま地区の呼び名として定着したと考えるのが自然だ。町名の由来を直接説明した資料は、今回確認できなかった。ただ、研究書には、遊廓の内規で娼妓が「大門」から外へ自由に出られなかったという記述があり、出入口を指す言葉でもあったことがうかがえる。
旭廓の時代|名古屋の公娼のはじまり
江戸時代の名古屋では、遊廓の設置はたびたび禁じられ、長続きしなかった。専ら活動していたのは「百花(もか)」と呼ばれた私娼だったとされる。幕末の安政年間には、大須観音の北にあたる北野新地という区画で、役者や芸人の寄宿が許され、しだいに賑わった。
名古屋の公娼が始まったのは明治に入ってからだ。1874年(明治7年)に日出町の近くが遊所の区画と定められ、翌1875年(明治8年)に大須観音の堂裏へ移されて、この一角が「旭廓」と呼ばれるようになった。1876年には新しい区画に女紅場(女子の習い事の施設)が設けられている。全盛期は1905年(明治38年)ごろとされ、娼家173軒、娼妓1,618人を数えた。

なぜ移転したのか|1892年ごろから続いた移転問題
旭廓の移転が本格的に議論されたのは、1892年(明治25年)ごろからだ。名古屋の市街が広がるにつれて風紀上の問題が論じられるようになったこと、遊廓が発展して手狭になったことが理由に挙げられる。
最初に決まった移転先は中村ではなかった。1912年(明治45年)7月、県知事が貸座敷取締規則を改め、尾張国で貸座敷の営業ができる区域を南区の稲永新田(現在の港区錦町)に限り、現在地での営業は4年に限って認める、と発令した。ところが、この移転をめぐる疑獄事件が起き、稲永への移転話は立ち消えになる。その結果、愛知郡中村への移転が決まった。稲永には、のちに熱田の伝馬町からの引っ越しという形で別の遊廓が置かれたとされる。
中村への移転と五町の誕生|1923年
移転地が決まると、名古屋土地株式会社と旭廓土地株式会社の間で、約31,620坪(約104,346平方メートル)の土地の売買契約が結ばれた。整地は1920年(大正9年)3月に始まり、11万9,700円余をかけて組合事務所が建てられ、その周りに新しい家並みが整えられた。開業は1923年(大正12年)4月1日で、この日から「中村遊廓」あるいは「中村旭廓」と呼ばれるようになった。ただし、当時の新聞によれば、4月1日に全業者が一斉に移れたわけではなく、一部は移転が終わらないままの開業だった。
開業後、遊客数は増えた。1925年(大正14年)の遊客は75万5,940人で、1日あたり約2,071人にのぼる。最盛期は1937年(昭和12年)ごろで、娼家は138軒(147軒とする資料もある)、娼妓は約2,000人。同じ年の厚生省の調査では全国の娼妓が44,908人とされ、約4.5%が中村に集まっていた計算になる。日本最大級の遊廓と評されるゆえんだ。1928年と1933年には、京都の嶋原から専門家を招いた花魁道中が催され、他県からも見物客が来たという。
計画された町|堀・斜めの角・建物の形
大門を含む中村遊廓は、もとは田畑だった土地に、遊廓の建設に合わせて計画的につくられた町だ。名古屋市中村区の紹介ページによれば、南北に3本、東西に5本の通りがほぼ直角に交わる格子状で、四隅の道は斜めの放射状にされ、周囲から内側が見えないようになっていた。外周は幅一間の堀で囲まれ、四隅を斜めにしたことで廓の輪郭は不等辺八角形になっていた。東京の吉原を模した造りと説明される。堀の跡は、北東側などで道路として、あるいは町境として残っている。
建物は木造二階建てが基本で、中央に坪庭を置いた「口」の字やコの字の平面が多かった。米軍が1946年に撮影した空中写真でも、その形が確認できるという。1軒の建築費はおよそ30万円とされ、大正末の技術をふんだんに使ったため、近代の建築としての価値も指摘されている。
周辺には関連の施設もあった。遊廓の造成で土砂を掘ってできた遊里ヶ池は、夏には舟遊びや釣りの人で賑わう名所になったが、1935年ごろに埋め立てられ、1937年にその跡地へ日本赤十字社の病院(のちの名古屋第一赤十字病院)が建った。池の中の島に祀られていた弁天寺は移転し、いまは病院の敷地に弁天堂が建てられている。娼妓の検診を担った県立の病院は、1925年に廓の近くへ移っている。

撮影・作者: Asturio Cantabrio / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

撮影・作者: Asturio Cantabrio / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
戦時中から戦後へ|名楽園と1958年の転廃業
日中戦争が始まると客足は年々減り、日米開戦後の1943年(昭和18年)に企業整備が行われて、営業は娼家19軒、娼妓220人にまで縮んだ。休業した家屋は、三菱航空や大同製鋼などの軍需工場の寮に転用された。1945年(昭和20年)3月の名古屋大空襲では55軒が焼失したが、東京の吉原などに比べると、残った建物は多かったとされる。
戦後、公娼制度の廃止にともない、旭廓貸座敷組合は「名楽園組合」と改称した。名称は特殊飲食店、次いで特殊カフェーとなり、いわゆる赤線のひとつとして続く(赤線・青線の戦後史)。1953年ごろの営業者は81軒、給仕婦は約900人で、戦前の活況には戻らなかった。名古屋駅周辺に増えた街娼や非公認の業者が台頭したことも、背景にあると説明されている。
終わりは1958年だ。売春防止法の施行は4月1日だったが(売春防止法の経緯)、名楽園は業界のモデルケースになるとして、1月から自主的に転廃業へ踏み切った。旅館に転じたものが約40軒、トルコ風呂が約10軒、飲食店が約20軒あったという。ただ、転業費用の安い旅館は客が少なく、3か月後の4月には許可を返上する例も出た。組合は解散し、61軒で新名楽園組合がつくられたが、かつてのような同じ営業体の組織ではなかった。
昭和後期から現在へ|跡地のゆくえ
1969年(昭和44年)10月、大門の中心にあった組合事務所の跡地に、スーパーのほていや中村ショッピングセンター(現在のピアゴ中村店)が開店した。旅館は供給過剰が続いたが、1970年の日本万国博覧会の期間は宿泊需要が高まり、貴重な存在になったとされる。その後は老朽化で減り、2009年にはなくなった。この地区が特殊浴場の集まる場所として知られるようになった経緯は、トルコ風呂からソープランドへの歴史に詳しい。1973年の時点では、トルコ風呂18軒、サウナ1軒、バー48軒が数えられていた。
一方で、地元では1991年(平成3年)から新大門商店街として街の賑わいを取り戻す取り組みが続けられている。名古屋市の紹介ページは、道や町の形が今も残る一方、歴史的な建物は年々取り壊されて街の姿が少しずつ変わっていること、商店街のアーチや個性的な店が下町らしさを伝えていることを記す。
失われた妓楼建築と、移された門
大規模な旧妓楼の建物は、この20年ほどで次々に姿を消した。資料によれば、旅館として使われた大観荘は2004年、長寿庵は2014年に解体された。料亭として使われた稲本は2018年に解体されたが、その楼門は愛知県長久手市のジブリパークに移設・復原され、「稲楼門」として立っている(ジブリパーク公式サイトの説明)。遊廓時代の建物を転用した店舗や、元の妓楼の外観を残す家屋も、数は少ないが確認されている。
廓の北西には、1774年(安永3年)創建とされる素盞男神社がある。毎年11月の酉の日の市で知られ、かつては遊廓の商売繁盛の祈願の場でもあり、奉納物には当時の楼名が刻まれているものが多い。大門の歴史を伝える数少ない場所のひとつだ。
大門の歴史年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1874年 | 日出町の近くが遊所と定められ、名古屋の公娼が始まる |
| 1875年 | 大須観音の堂裏へ移され、「旭廓」と呼ばれる |
| 1892年ごろ | 旭廓の移転問題が本格化する |
| 1905年ごろ | 旭廓の全盛期。娼家173軒、娼妓1,618人 |
| 1912年7月 | 県知事が貸座敷の営業区域を稲永新田に限る旨を発令。のち疑獄で立ち消え |
| 1920年3月 | 中村での整地が始まる |
| 1923年4月1日 | 中村遊廓が開業。日吉・寿町・大門・羽衣・賑の五町 |
| 1927年5月1日 | 町名としての「大門町」が成立する |
| 1937年ごろ | 全盛期。娼家138軒(または147軒)、娼妓約2,000人 |
| 1943年 | 企業整備で娼家19軒、娼妓220人に縮小。軍需工場の寮に転用 |
| 1945年3月 | 名古屋大空襲で55軒が焼失 |
| 戦後 | 名楽園と改称し、特殊飲食店、特殊カフェー(赤線)となる |
| 1958年1月 | 売春防止法の施行に先立ち自主的に転廃業 |
| 1969年10月 | 組合事務所跡地にスーパーが開店 |
| 1991年 | 新大門商店街の活性化の取り組みが始まる |
| 2018年 | 旧料亭稲本の建物が解体され、楼門はジブリパークへ |
まとめ
名古屋の大門は、1923年に大須の旭廓が移ってきて生まれた中村遊廓の五町のひとつだ。移転の背景には、市街の拡大、手狭になった旧地、稲永への移転案が疑獄で消えたという曲折があった。移転先は田畑に計画的につくられた町で、堀と斜めの角を持つ独特の町割りは、今も道や町境に残っている。戦後は名楽園となり、1958年1月に自主的に転廃業した。その後、旅館やスーパー、商店街へと顔を変えながら、旧妓楼の建物は解体が進む。移設された稲本の楼門のように、建物の一部が別の場所で受け継がれる例もある。大門を歩くときは、ここが今も人の暮らす町であることを忘れずにいたい。
よくある質問
Q. 大門とはどこにあるのですか?
A. 名古屋市中村区の中央部にある町名で、名古屋駅の西側にあたる。東は中島町、西は道下町、南は羽衣町、北は寿町に接する。旧中村遊廓の五町のひとつだった。
Q. 「大門遊廓」という名の遊廓があったのですか?
A. 確認できた資料では、独立した「大門遊廓」ではなく、中村遊廓(中村旭廓)の中の町名のひとつだ。そのため地区の通称として「大門」が使われるようになったと考えられる。
Q. 遊廓はいつ大須から中村へ移ったのですか?
A. 1923年(大正12年)4月1日に開業した。整地は1920年3月に始まっている。ただし、当時の新聞では、全業者が同日に移れたわけではなかったとされる。
Q. なぜ大須の旭廓は移転したのですか?
A. 市街の拡大で風紀上の問題が論じられたことと、遊廓が手狭になったことが理由に挙げられる。1892年ごろから議論が本格化し、稲永新田への移転案が疑獄で消えたあと、中村に決まった。
Q. 中村遊廓の規模はどれくらいでしたか?
A. 1937年ごろの全盛期で、娼家は138軒(147軒とする資料もある)、娼妓は約2,000人だった。全国の娼妓の約4.5%が集まり、日本最大級とされる。
Q. いつ終わったのですか?
A. 売春防止法の施行前の1958年1月に、名楽園として自主的に転廃業した。法律の施行は4月1日だ(売春防止法の記事)。
Q. 当時の建物は残っていますか?
A. 大規模な旧妓楼は解体が進み、料亭稲本は2018年に解体されて楼門がジブリパークに移された。外観や一部を残す建物は数が少なく、現地は住民の生活の場なので、見学は節度を守りたい。
参考にした資料
- Wikipedia「中村遊廓」(中村遊廓。典拠として『新修名古屋市史』第六巻、名古屋市、2000年が挙げられている)
- Wikipedia「大門町(名古屋市)」(大門町)
- 名古屋市中村区「大門」(中村区の魅力紹介ページ。該当ページ)
- ジブリパーク公式サイト「パークガイド」の稲楼門の説明(ジブリパーク)
- 神崎宣武『聞書き 遊廓成駒屋』ちくま文庫、2017年(筑摩書房の書誌ページ)
- 旅色「大門・中村遊廓」の紹介記事(素盞男神社の創建年などの参照。該当ページ)
あわせて読みたい
このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
遊廓と花街の違い・全国概説・東海から九州沖縄の旧遊廓跡。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 写真: Asturio Cantabrio 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
- 地図: © OpenStreetMap contributors
- 年表: 本記事の内容をもとに当サイトで作成

コメント