※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
三重県伊勢市の古市(ふるいち)は、伊勢神宮の外宮と内宮のあいだにある丘に栄えた歓楽地で、お伊勢参りの旅の終わりに「精進落とし」をする場所として知られた。江戸時代には、遊女屋や芝居小屋が並び、参宮の旅人でにぎわった。この記事では特定の店や営業には触れず、古市がどう生まれ、どれほど栄え、どう衰え、いまは何が残っているのかを、辞典や伊勢市・三重県の観光情報、百科事典の記述など、資料で確認できた範囲で整理する。
伊勢・古市遊廓とは
古市とは|場所と基本
古市は、伊勢神宮の参宮街道が通る台地の上にある。外宮と内宮の中ほどにあたる古市丘陵を指すことが多く、「間(あい)の山」と呼ばれる一帯の沿道だ。地名は、もとここに市が開かれていたことに由来するとされる。江戸時代以前は丘の上で水利が悪く、民家もほとんどなく、近くの楠部郷に含まれていた。この土地が歓楽街に変わったのは、お伊勢参りの参拝客が増えたことが大きい。
江戸時代の古市は、辞典によれば、外宮から内宮に至る間の山の旧道沿いの集落で、二見や朝熊方面に向かう道との分岐点にもあたり、旅籠や妓楼が軒を並べていた。「遊廓」と呼ばれることが多いが、幕府が公認した遊廓ではなく、茶屋町として営業を認められた遊里だった。公認の遊廓や、そのほかの色街との言葉の違いは、遊郭・遊里・色街・新地・花街の違いの記事に整理してある。
お伊勢参りと精進落とし
伊勢参りの参拝者は、江戸時代に大きく増えた。江戸の初めは年に2、3万人ほどと推定され、江戸中期には年に20万〜40万人に上ったという。さらに、およそ60年おきに数百万人規模の集団参詣「お蔭参り」が起こった。1705年(宝永2年)は2か月で330万〜370万人、1771年(明和8年)は200万人、1830年(文政13年)は約427万人と推定されている。街道沿いには宿や遊興施設が整い、伊勢参りは信仰の旅であると同時に、観光の旅にもなっていった。
「精進落とし」は、もともと寺社の巡礼や神事など、精進潔斎が必要な行事が終わったあと、肉や酒をとり、ふだんの暮らしに戻ることをいう。伊勢参りでは、道中で身を慎んでいた参拝者が外宮と内宮の参拝を終えたあとに、古市で宴を開き、遊んだ。古市が外宮と内宮のあいだに栄えたのは、この習わしが背景にある。三重県の観光情報は、古市のことを、京都の島原、江戸の吉原と並ぶ、お伊勢参りの精進落としの場だったと紹介している。

茶屋から大遊里へ|江戸時代の繁栄
江戸時代の前期、古市には茶立女や茶汲女と呼ばれる女性を置く茶屋が現れた。元禄年間(1688〜1703年)のころには、高級な遊女を抱える大きな店もできはじめた。最盛期とされる天明年間(1781〜1789年)には、妓楼が70軒、遊女が約1,000人、浄瑠璃小屋が数軒という規模だったと、Wikipediaは記している。同じ記述は、1794年(寛政6年)の大火でも古市は被害を受けたが、かえって妓楼の数は増えたとも伝える。ただし、天明期と寛政期の前後関係までは、今回の調査で確認できなかった。
日本大百科全書は、遊廓、茶店、旅館が800軒もあったと説明する。当時は「伊勢参り 大神宮にもちょっと寄り」という川柳が詠まれたほど、にぎやかだったという。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にも古市が登場する。江戸時代末には、北は倭町から南は中之町まで、妓楼や酒楼が並んでいた。主な大きな妓楼には、備前屋、杉本屋、油屋、千束屋などがあった。観光案内などは、吉原や島原と並ぶ「三大遊廓」と呼び、さらに大坂の新町、長崎の丸山を加えて「五大遊廓」と呼ぶ場合もある。ただし、これは通称であり、幕府の公式の格付けではない。

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伊勢音頭と伊勢歌舞伎
古市は、芸能の町でもあった。大きな妓楼の一つ、備前屋では、大広間で遊女が「伊勢音頭」を唄い踊る総踊りが名物だった。伊勢音頭は、本来は古市の遊廓で遊女が唄い踊るための音曲を指す言葉で、のちに全国に広まった民謡の名にもなった。『神境秘事談』によれば、享保17年(1732年)に古市の遊廓の数軒が名古屋の西小路に出店を開いたとき、客寄せに座敷で出した「川崎音頭」が、古市の伊勢音頭の元になったという。参拝者は、これを「荷物にならない伊勢土産」として各地へ持ち帰ったと伝わる。また、古市では伊勢歌舞伎が盛んで、役者の登竜門として知られ、七世市川團十郎や五世松本幸四郎、三世尾上菊五郎といった名優も舞台を踏んだとされる。江戸や上方へ出る前に、まず古市で名を挙げようとする役者も多かった。

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油屋騒動|歌舞伎になった事件
古市の名を全国に広めた出来事が、1796年(寛政8年)の油屋騒動である。旧暦の5月4日(新暦では6月9日)の深夜、古市の油屋で客が刀を振るい、9人が斬られて3人が亡くなった。油屋は古市のなかでも大きな店で、部屋持ちの遊女だけで24人を数えたという。この事件は参拝客によって瞬く間に日本中に伝わり、わずか10日後には松阪の芝居で取り上げられ、7月には大坂で『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)として上演されて評判になった。この作品は、近代以降も上演回数の多い演目になっている。
古市の地元では、事件を美化した芝居をなかなか受け入れられなかったとされ、古市で初めて上演されたのは事件から33年後の1829年(文政12年)だった。このとき主役を演じた役者が、大林寺に、事件で名の知られた遊女のお紺の墓を建てて供養したと伝わる。大林寺には、その左隣に事件の加害者とされる医師の墓もあり、2つの墓は「比翼塚」と呼ばれる。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 江戸前期 | 茶立女を置く茶屋が現れる |
| 1688〜1703年 | 元禄のころ、高級な遊女を抱える大店ができはじめる |
| 1781〜1789年 | 天明のころが最盛期。妓楼70軒、遊女約1,000人とされる |
| 1794年 | 大火。かえって妓楼が増えたという |
| 1796年 | 油屋騒動。大坂で『伊勢音頭恋寝刃』が上演される |
| 1829年 | 古市の芝居で、題を変えて『伊勢音頭恋寝刃』が初めて上演される |
| 1872年 | 貸座敷33軒、娼妓640人 |
| 明治期 | 古市の丘を迂回する道路が整備され、繁華街の中心が新しい道に移る |
| 1930年代 | 貸座敷22軒、娼妓135人に減る |
| 1945年 | 空襲で、残っていた芝居小屋や遊廓が壊滅する |

Utagawa Kunisada / パブリックドメイン / Wikimedia Commons
明治以降の衰退と戦災
明治になると、古市の丘を迂回する道路が整備され、人の流れは新しい道に移った。Wikipediaによると、1872年(明治5年)に貸座敷33軒、娼妓640人だった規模は、昭和初期の1930年代には22軒、135人にまで減っている。1945年(昭和20年)の空襲で、残っていた芝居小屋や遊廓も壊滅した。油屋は明治に旅館として営業を続けていたが、戦火で失われ、跡地は近鉄鳥羽線の線路のために切り崩されたとされる。戦後は、自動車交通の発達で参宮の道筋から外れ、古市は住宅地になった。

撮影・作者: Miyuki Meinaka / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

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跡地の今|資料館、比翼塚、街道
古市に、往時の繁栄を示すものは多くは残っていない。それでも、いくつかの場所で歴史に触れられる。
- 伊勢古市参宮街道資料館:伊勢市中之町にある。古市の遊郭や、古市を中心に栄えた伊勢歌舞伎の資料、古市参宮街道ゆかりの資料を展示している。展示室は無料で、休館日や開館時間は三重県の観光情報などで確認できる。
- 大林寺:伊勢市古市町にある浄土宗西山禅林寺派の寺で、1625年(寛永2年)の開創とされる。境内にお紺と孫福斎の「比翼塚」があり、供養が続いている。
- 油屋跡の石碑:Wikipediaによると、油屋があった場所は鉄道の線路に変わり、伊勢街道の線路際に「油屋跡」の石碑が立っている。
- 街道沿いの建築:斜面に建てられた江戸時代末期の懸造りの旅館建築が、本館や土蔵など5棟、国の登録有形文化財に登録されている。
伊勢市は、伊勢市駅から古市街道の大林寺、長峰神社、寂照寺、伊勢古市参宮街道資料館をめぐる約2〜3時間の散策コースを紹介している。市の案内は、古市街道を、参宮帰りの精進落としの遊里として賑わった街道と説明する。現在は住宅や寺院が中心の町で、高台にあるため徒歩での移動は多少きつい。見学の際は住民の生活に配慮してほしい。近畿の旧遊廓を全体でみるには、近畿の遊郭跡の記事も役立つ。
まとめ
古市は、外宮と内宮のあいだの丘に、お伊勢参りの精進落としの場として栄えた遊里だった。江戸前期の茶屋から始まり、天明期には妓楼70軒、遊女約1,000人とされる規模になり、油屋騒動は歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』として全国に知られた。明治に道が変わって衰え、1945年の空襲で壊滅し、戦後は住宅地になった。いま残るのは、資料館、大林寺の比翼塚、油屋跡の石碑、街道沿いの寺社や建築である。ほかの地域の遊廓と見比べたい場合は、日本の遊廓の成り立ちと全国一覧や、京都の旧遊郭・花街の記事、大阪の旧遊郭・新地の記事も参照してほしい。
よくある質問
Q. 古市遊廓とはどんな場所ですか?
A. 三重県伊勢市の外宮と内宮のあいだの丘にあった遊里。お伊勢参りの旅人が精進落としをする場所として栄え、江戸時代の最盛期とされる天明のころには妓楼70軒、遊女約1,000人という規模だったとされる。
Q. 古市は幕府公認の遊廓でしたか?
A. 公認の遊廓ではなく、茶屋町として営業を認められた遊里だった。それでも大規模で、観光案内などでは吉原や島原と並ぶ「三大遊廓」と呼ばれる。
Q. 精進落としとは何ですか?
A. 精進潔斎が必要な行事を終えたあとに、肉や酒をとり、ふだんの暮らしに戻ること。伊勢参りでは、外宮と内宮の参拝後に古市で宴を開くのが習わしになっていた。
Q. 油屋騒動とは何ですか?
A. 1796年に古市の油屋で客が刀を振るい、9人が斬られ3人が亡くなった事件。同じ年の7月に『伊勢音頭恋寝刃』として芝居になり、全国に知られた。
Q. 古市遊廓はいつ終わりましたか?
A. 明治以降に徐々に衰え、1945年の空襲で残っていた遊廓や芝居小屋が壊滅した。戦後は住宅地になった。
Q. いま何が残っていますか?
A. 伊勢古市参宮街道資料館、大林寺の比翼塚、油屋跡の石碑、街道沿いの寺社や懸造りの旅館建築などがある。繁栄を示すものは多くは残っていない。
参考にした資料
- Wikipedia「古市 (伊勢市)」
- Wikipedia「油屋騒動」
- Wikipedia「お蔭参り」
- Wikipedia「精進落とし」
- Wikipedia「伊勢音頭」
- コトバンク「古市」(日本国語大辞典、ブリタニカ国際大百科事典、日本大百科全書、世界大百科事典)
- 観光三重「伊勢古市参宮街道資料館」
- 観光三重「大林寺」
- 観光三重「伊勢古市参宮街道」
- 伊勢市「散策コース」(倉田山・古市街道コース)
- 伊勢市教育委員会「文化財通信」(登録有形文化財の旅館建築)
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
遊廓と花街の違い・全国概説・東海から九州沖縄の旧遊廓跡。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 写真: Miyuki Meinaka 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
- 写真: Miyuki Meinaka 撮影(CC BY-SA 3.0)/Wikimedia Commons
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