※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
奈良市の木辻(きつじ)遊廓は、江戸時代から昭和30年代まで続いた、奈良の代表的な遊廓である。いまの東木辻町、鳴川町、瓦堂町にあたる一帯は、観光地として人気のある「ならまち」の近くにある。この記事では特定の店や営業には触れず、木辻遊廓がどう生まれ、どう栄え、どう終わり、跡地の周辺がいまどうなっているのかを、Wikipediaや奈良市の公式資料など、資料で確認できた範囲で整理する。
木辻遊廓とは
木辻遊廓とは|場所と基本
木辻遊廓は、奈良県奈良市にあった遊廓で、現在の東木辻町、鳴川町、瓦堂町一帯に広がっていた。もとは田園や竹林で、慶長・寛永のころ(17世紀前半)に茶店が2、3軒でき、遊女を置いたのが始まりと伝わる。寛永年間には、虎蔵、竹蔵と名乗る2人が、太夫の万戸と語らって遊里を始めたという話も残る。一帯は、平城京の外京だった旧市街「奈良町」の一角である。1613年(慶長18年)に奈良奉行が置かれたあと、木辻村も奈良町に準じて扱われるようになった。
遊廓という言葉は、公認の貸座敷を集めた区画をいう。木辻は近世の奈良で公認された遊所で、奈良奉行所は18世紀末から19世紀前葉に、木辻以外の遊所を全廃するよう触れを出したことがあるという。ほかの色街や花街との違いは、花街と遊郭の違いの記事に整理してある。
江戸時代|木辻の繁盛と取り締まり
木辻は、江戸時代の早い時期から知られていた。1657年(明暦3年)に江戸で新吉原を開くにあたり、木辻の遊女を湯女(ゆな)にしたという記録がある。当時すでに繁華だったとみられる。1682年(天和2年)刊の井原西鶴『好色一代男』にも「木辻町、北は鳴川」と木辻の名が出る。1687年(貞享4年)の『奈良曝』は、上郎町に町役が20軒あり、揚屋が7軒、遊女屋(轡)が7軒あると記している。宝永年間(1704〜1711年)には、遊女屋が15軒、茶屋が19軒だった。
一方で、取り締まりも繰り返された。万治・寛文年間(17世紀中ごろ)の禁令でいったん衰えたが、天和年間(1681〜1684年)以降に再び栄えたとされる。1842年(天保13年)には、遊女屋から22人の酌女を郡山の東岡町や洞泉寺町の煮売茶屋などに派遣していたが、天保の改革で禁じられた。近くの大和郡山では、洞泉寺町の煮売茶屋が性売買をしていると木辻の側から訴えられ、奈良奉行所が木辻以外の遊所の全廃を触れた記録もある。

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明治から昭和|置屋街としての木辻
1872年(明治5年)に芸娼妓解放令が出されると、木辻は一時的に廃業した。その後、置屋街として再興され、近くの元林院町とともに栄えて、市内の旅館に芸妓や娼妓を派遣した。1879年(明治12年)には貸座敷が19軒、娼妓が89人だった。1880〜86年(明治13〜19年)は貸座敷14〜23軒、娼妓112〜180人の規模である。明治の奈良県には、木辻のほか、同じ奈良市の瓦堂、大和郡山市の洞泉寺と東岡町があり、この4か所は「近代奈良四遊廓」と呼ばれる。洞泉寺は最盛期の1924年(大正13年)に貸座敷17軒、娼妓200人だったと記録されている。
1914年(大正3年)には大きな火事が起こり、往時の建物のほとんどが焼けた。ただ、その後も、軒を深く出した出桁造の置屋が建てられ、町は続いた。この地の置屋は「木辻格子」と呼ばれる独特の格子を用いたとされ、1976年(昭和51年)ごろは、その一部が記念の品として称念寺に残されていたという。称念寺は浄土宗の寺で、木辻遊廓の中にあったため、廓内の娼妓が亡くなった際には引導寺となって、供養を行ってきたと伝わる。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 慶長・寛永のころ | 田園・竹林に茶店ができ、遊女を置く |
| 1613年 | 奈良奉行が置かれる |
| 1657年 | 江戸の新吉原の開設にあたり、木辻の遊女が湯女とされた記録がある |
| 1682年 | 井原西鶴『好色一代男』に木辻の名が出る |
| 1687年 | 『奈良曝』に揚屋7軒・遊女屋7軒と記される |
| 1842年 | 遊女屋から酌女を郡山へ派遣。天保の改革で禁止される |
| 1872年 | 芸娼妓解放令。一時廃業後、置屋街として再興する |
| 1879年 | 貸座敷19軒、娼妓89人 |
| 1914年 | 大火で、往時の建物の多くが焼ける |
| 1916年 | 大火後の再建のなか、大規模な妓楼「本家岩谷楼」が建つ |
| 1956年 | 1月27日、木辻瓦堂町で火災。14人が死亡する |
| 1958年 | 3月15日、売春防止法に伴い置屋が廃業。旅館・喫茶店・料亭などに転業する |
| 2021〜22年 | 最後の遊廓建築とされた旅館が廃業し、2022年4月に解体される |

1958年の終わり|売春防止法と転業
戦後の木辻は、特殊飲食店が並ぶ地域として続いたとみられる。1956年(昭和31年)1月27日には、木辻瓦堂町のアパートから出た火が両隣の特殊飲食店に燃え広がり、14人が亡くなる火災が起きている。そして1958年(昭和33年)3月15日、売春防止法に伴う赤線の廃止によって、木辻町の置屋は廃業した。同法の全面施行は同年4月で、仕組みは売春防止法の記事と赤線・青線の記事にまとめてある。置屋だった建物の多くは、旅館や喫茶店、料亭などに転業した。
跡地の今|最後の遊廓建築は2022年に解体
転業した建物のうち、遊廓建築の面影をもっとも残していたのが、1916年(大正5年)に妓楼「本家岩谷楼」として建てられた旅館である。Wikipediaは、木辻でも最大規模の店で、豪華な庭と玄関口をもち、創立時は娼妓20人、芸者も数人いたとされる、と記している。木造の4棟が中庭をロの字型に囲む構造で、売春防止法の施行後に旅館へ転業し、のちに外国人観光客の多い宿として知られた。しかし、新型コロナウイルスの影響で2020年4月に新規予約を停止し、2021年10月に廃業、2022年4月に取り壊された。これが、木辻の遊廓建築の面影を残した最後の建築物だったとされる。
今回確認できた範囲では、遊廓の姿を直接示す建物は、ほとんど残っていない。名残としては、遊廓内の寺だった称念寺がある。境内には、1694年(元禄7年)9月9日に松尾芭蕉が休んで詠んだ「菊の香や奈良には古き仏たち」の句碑(1793年建立)が立つ。遊廓の歴史をたどるときは、遊廓だった事実を伝える記録と、そこで暮らす人々の現在の生活の両方を尊重してほしい。旧遊廓の建物が解体されていく流れは、各地で共通する課題である。

撮影・作者: Kochizufan / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons

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ならまち周辺と元林院の花街
木辻が属する奈良町は、710年(和銅3年)の平城京遷都のとき、外京として寺社が置かれたことに始まる。江戸時代には元興寺の旧境内を中心に、筆、墨、蚊帳、晒、仏具、酒、醤油などの産業が発達し、17世紀末の調査では人口3万5千人を数えた。第二次世界大戦の大規模な空襲を免れたため、街路と町屋が残り、現在は飲食店や雑貨店、ギャラリーなどに生まれ変わった町屋が点在する観光地になっている。奈良市は1990年(平成2年)4月に「奈良町都市景観形成地区」を指定し、2014年の拡大で面積は約49.3ヘクタールになった。
木辻とは別に、ならまちの猿沢池の西には、いまも芸妓の花街として知られる元林院町がある。奈良市の資料は、明治以来花街として発展してきた元林院町には、置屋や料亭旅館などの遺構が多く残り、芸妓や舞妓の活動も続いていると説明する。町の「検番演舞場及び事務所」は、花街が賑わった1956年(昭和31年)に建てられたとみられ、2017年(平成29年)7月14日に奈良市歴史的風致形成建造物に指定された。Wikipediaによれば、大正時代には芸妓が二百数十人、昭和初期には200人ほどいたが、その後は大きく減り、町では「元林院花街復興プロジェクト」が立ち上がっている。木辻の置屋が元林院とともに栄えたという記述からも、奈良町の花街と遊廓が重なり合う歴史がうかがえる。
まとめ
木辻遊廓は、江戸初期の茶店に始まり、近世の奈良で公認された遊所として栄えた。明治には置屋街として再興され、1879年には貸座敷19軒、娼妓89人の規模になった。1914年の大火、1956年の火災を経て、1958年に置屋が廃業し、多くが旅館や喫茶店に転業した。遊廓建築の面影を残した最後の建物も、2022年に解体されている。一方で、ならまちの元林院は、いまも花街として歴史を伝えている。ほかの地域の遊廓は、近畿の遊郭跡と日本の遊廓の成り立ちと全国一覧の記事で見比べられる。
よくある質問
Q. 木辻遊廓はどこにありましたか?
A. 奈良県奈良市の東木辻町、鳴川町、瓦堂町一帯にあった。観光地のならまちを含む旧市街、奈良町の一角にあたる。
Q. 木辻遊廓はいつ始まりましたか?
A. 慶長・寛永のころ(17世紀前半)に、田園と竹林だった場所に茶店が2、3軒でき、遊女を置いたのが始まりと伝わる。1657年には新吉原の開設にあたって木辻の遊女を湯女にしたという記録がある。
Q. いつ終わりましたか?
A. 1958年(昭和33年)3月15日に、売春防止法に伴う赤線の廃止で、木辻町の置屋が廃業した。多くが旅館や喫茶店、料亭などに転業した。
Q. 「日本最古の遊廓」といわれるのは本当ですか?
A. そう紹介する記述もあるが、今回の調査では裏づける史料を確認できなかった。確かめられたのは、江戸初期までさかのぼる古い遊所だったこと、近世の奈良で公認されていたことまでである。
Q. 遊廓建築はいまも残っていますか?
A. 遊廓建築の面影を残した最後の建築物とされた旅館は、2021年に廃業し、2022年4月に解体された。
Q. 元林院町は木辻遊廓と同じですか?
A. 別の町である。元林院町は明治以来の花街で、芸妓や舞妓の活動が続いている。ただ、木辻の置屋が元林院とともに栄えたという記述があり、両者は歴史的に関わりが深い。
参考にした資料
- Wikipedia「木辻遊廓」
- Wikipedia「静観荘」
- Wikipedia「洞泉寺遊廓」(近代奈良四遊廓)
- Wikipedia「称念寺 (奈良市)」
- Wikipedia「ならまち」
- Wikipedia「元林院町」
- 奈良市「歴史的風致形成建造物(元林院検番演舞場及び事務所)」
- 奈良市「奈良町の歴史」(奈良奉行の設置など)
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このテーマの全体像:遊廓・花街・赤線の歴史ガイド(概説と西日本編)
遊廓と花街の違い・全国概説・東海から九州沖縄の旧遊廓跡。前後に読むならこのあたり。
画像の出典
- 古い絵・絵葉書・古地図: パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
- 写真: Kochizufan 撮影(CC BY-SA 4.0)/Wikimedia Commons
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