※本記事は歴史・文化の解説であり、特定の店舗や営業を紹介するものではありません。歴史には諸説あり、年号や呼び名は資料によって異なる場合があります。
中部・北陸には、名古屋の中村遊廓のような全国屈指の大規模な遊廓から、金沢の茶屋町、小さな城下町や宿場の遊廓まで、成り立ちの違う色街が点在していた。この記事では、資料で確認できた17地点について、いつ・どこにでき、いつ終わり、今どうなっているのかを県ごとにまとめる。店や営業を紹介する記事ではなく、跡地の歴史を整理するものだ。
中部・北陸の旧遊廓・色街
この記事の読み方|範囲と用語
対象は新潟・富山・石川・福井・山梨・長野・岐阜・静岡・愛知の9県だ。三重県は近畿に含める区分が一般的なため、近畿編で扱う。取り上げたのは、Wikipediaや公的な資料で成り立ちや終わりを確認できた地点に限る。1929年末の統計では、新潟と静岡がそれぞれ20か所の貸座敷指定地を持っていたとされ、実際にはここに載せた数よりずっと多かった。
用語も整理しておく。「遊廓」は公許の遊女屋を集めた区画のことで、明治以降は貸座敷の営業を認めた指定地を俗にこう呼んだ。「赤線」は、1946年の公娼制度廃止から1958年の売春防止法施行まで、特殊飲食店として半ば公認で続いた地域をいう。「花街」は芸妓を中心にした町、「新地」は新しく開かれた歓楽地区の呼び名だ。違いは遊郭・遊里・色街・新地・花街は何が違う?、花街と遊郭の違い、赤線・青線とは、売春防止法とはで詳しく解説している。
地域の概観|年表で見る中部・北陸
古い城下町・港町の遊廓と、明治以降に県が指定地を定めた新しい遊廓とに大きく分かれる。主な動きを年表にまとめた。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1612年 | 駿府の二丁町遊廓から遊女屋が移され、江戸に吉原ができたとされる |
| 1731〜32年 | 名古屋で徳川宗春のもと西小路・富士見原・葛町の遊廓が造られる(1736年に廃止) |
| 1820年 | 金沢でひがし・にしの茶屋町が開かれる |
| 1871〜72年 | 甲府に山梨県初の遊廓(1871年)、富山の桜木町に遊廓が集められる(1872年) |
| 1874〜78年 | 名古屋・大須に旭廓(1874〜75年)、長野に鶴賀新地(1878年) |
| 1888〜89年 | 岐阜の金津遊廓(1888年)、佐久の岩村田・多治見の西ヶ原が開業(1889年) |
| 1898年 | 新潟で遊廓が本町通14番町と常磐町に統合され、古町は芸妓の花街になる |
| 1907年 | 長岡新遊廓が開かれ、甲府は大火のあと穴切へ移る |
| 1923年 | 旭廓が中村へ移り、中村遊廓が開業 |
| 1945年 | 甲府・静岡・名古屋の空襲で遊廓が被害を受ける |
| 1946年 | 公娼制度の廃止。多くが赤線となる(名古屋の名楽園など) |
| 1958年 | 売春防止法の全面施行。名楽園は1月、多治見の西ヶ原は前年12月に先に廃業 |
主な旧遊廓・色街の一覧
県ごとに、成立・規模・終わり・現在の様子を資料に書かれている範囲で整理する。現状の記述がない地点は、その旨を明記した。
新潟遊廓・常磐町遊廓(新潟市中央区・本町通14番町〜翁町付近)
新潟では江戸時代から古町周辺に遊女のいる町が点在していたが、明治に入って県が統合を進めた。1893年に古町通8・9番町で火災が起き、県は残った妓楼に1898年8月以降の営業を禁じた。同年5月には本町通14番町が全焼し、楼主たちは隣の常磐町(現・翁町)へ移って新しい遊廓を形づくる。戦後は赤線を経て、1958年4月の売春防止法施行で終わった。跡地の現状は、取得した資料に記述がなかった。
古町花街(新潟市中央区・古町通8・9番町ほか)
遊廓が移ったあとの古町通などの8・9番町は、1898年から芸妓だけの花街になった。昭和初期の新潟には古町・下町(北廓)・沼垂の3花街があったが、戦後の衰退で原型を保つのは古町だけとされる。空襲を免れたため明治後期〜昭和初期の建物が残り、京都型の平入りと違って妻入りの町屋が並ぶ。現役の花街で妻入り主体の町並みは全国で唯一とされる。2020年に東新道・西新道の石畳化が完了し、1934年ごろ築の旧花岡家住宅は2023年に国の登録有形文化財になった。建物の見方は遊郭建築とはも参照してほしい。
長岡新遊廓(長岡市山田町三丁目付近)
長岡の遊廓は、市の南北に南廓・北廓として分かれていたが、1907年4月に文治町(現・山田町三丁目あたり)へ集められて長岡新遊廓になった。開業時は3軒だったが、1912年には52軒に増えた。廓内は一等地と二等地に分けられ、大門から中心の交差点までを東仲之町、その西を西仲之町と呼んだ。終わりの時期や跡地の現状は、取得した資料に記述がなかった。
桜木町の遊廓と東新地(富山市桜木町ほか)
桜木町は、富山藩主の別邸・千歳御殿の跡地だ。1872年に御殿が取り壊されて町割りされ、桜並木にちなんで桜木町と名づけられた。同じ年の12月、県の命令で市内の稲荷町・出町・北新地などに散らばっていた遊廓がここへ集められた。桜木町は芸妓本位の「甲地」、市内のもう一つの遊郭である東新地は娼妓本位の「乙地」とされた。1899年9月の富山大火で68軒が焼け、桜木町の遊郭は取り壊されて桜谷村愛宕村付近へ移った。以後の桜木町は料亭街となり、現在は県内最大の歓楽街として知られる。
ひがし茶屋街(金沢市東山1丁目)
金沢市が文化庁向けにまとめた概要では、ひがしに茶屋町が設けられたのは1820年(文政3年)で、このとき従来の町割りが改められた。1831年にいったん廃止され、1867年に再び公認されたという。明治以降は「東新地」「ひがし」と呼ばれた。約1.8ヘクタールの区域は2001年11月14日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、茶屋建築1棟は2003年に国の重要文化財になっている。資料は「茶屋町」という種別で扱う。詳しくは東山ひがし茶屋街の歴史。
主計町茶屋街(金沢市主計町)
浅野川沿い、北国街道が川を渡る橋のそばにある。金沢市の概要は、茶屋町として公式の免許地だったことはないが、実質的には茶屋町として成り立っていたと説明する。一階に出格子、二階を高く開放した茶屋建築が並ぶ。1970年に町名が消えたが、1999年10月に旧町名が復活し、2008年6月には約0.6ヘクタールが重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
にし茶屋街(金沢市野町2丁目)
ひがしと同じ1820年に、加賀藩の公許を得て犀川の西側に開かれた茶屋町だ。金沢の茶屋街のなかで、在籍する芸妓の数が最も多いと説明されている。保存地区の指定など、文化財に関する記述は取得した資料になかった。
三国湊の出村遊里(福井県坂井市三国町)
三国湊には出村・松ケ下・新地の3つの遊里があったと紹介され、出村は格式が高かったとされる。出村の入口にあたる思案橋(三国町神明3-6)は、丸岡藩(滝谷出村)と福井藩(三国湊)の藩境にかかり、橋のそばには福井藩の川口番所があった。塀で囲んで隔離された場所ではなかったという。取得できたのは観光記事のみで、成立の年や規模、終わりの時期は確認できなかった。
新柳遊廓・穴切遊廓(甲府市宝1丁目ほか)
甲府城下には江戸時代を通じて常設の遊廓がなく、山梨県初の遊廓として1871年に新柳遊廓(22楼)が生まれた。1907年2月の大火で全焼し、同じ年のうちに市街西の穴切田圃(現・宝1丁目)へ移って穴切遊廓になった。1929年刊の『日本全国遊廓一覧』では貸座敷21軒・娼妓201名。1945年7月の甲府空襲で全焼し、戦後は赤線を経て1958年に消えた。2020年時点の資料では、古い建物の外壁に残るカフェー許可のプレートくらいしか面影はなく、マンションなどが建つ住宅街になっている。
岩村田遊廓(長野県佐久市岩村田)
1889年に開業した遊廓で、鼻顔稲荷神社とは湯川を挟んだ対岸にあった。中山道・追分宿から移った「分里郭」が11軒あり、なかには5階建てで屋上にドームを載せた建物もあったという。1940年に廃止されたので、売春防止法より前に姿を消した遊廓だ。跡地の現状は、取得した資料に記述がなかった。
鶴賀新地(長野市東鶴賀町ほか)
長野遊郭とも呼ばれた遊廓で、権堂町にあった遊廓を移して1878年に成立した(資料には1871年とする記述もあり、年が揺れている)。約1万坪を板塀で囲み、1899年ごろには妓楼43軒ほど、芸妓・娼妓445名がいたとされる。娼妓の多くは新潟県の貧しい農家の出だったという。1958年に廃止され、いまは碁盤目状の道路や、普済寺にある娼妓死亡者の供養塔が往時の記憶を伝えている。
金津遊廓・金津園(岐阜市加納水野町)
金津遊廓は1888年に開かれ、当初は現在の岐阜市大富町・栄枝町・柳ケ瀬の西側付近にあった(58軒とされる)。1945年に軍需工場の寮を建てるため手力町付近へ強制移転され、戦後は特殊喫茶街になった。1950年10月に岐阜駅南口の西、加納水野町の工場跡地へ一斉移転し、1軒63坪ずつに区割りされた。赤線を経て、現在は風俗営業の店が集まる地区として続く。2023年7月には市道水野町線が地区を縦断する形で開通した。東海地方では戦後「○○園」の名が流行し、現在まで残るのは金津園だけとされる。
西ヶ原遊廓(岐阜県多治見市広小路2丁目)
1889年に多治見町の西ノ原で開業したが、町内で反対運動が起き、1893年に新羅神社の北側(現・広小路2丁目)へ移った。1900年ごろには妓楼18軒・娼妓100人超。陶磁器産業の景気に左右され、1935年は11軒・87人だった。売春防止法施行の3か月前、1957年12月30日に全軒が廃業している。美濃地方では、金津、大垣の旭と並ぶ遊廓だったという。
二丁町遊廓(静岡市葵区駒形通五丁目付近)
駿府城下に設けられた幕府公認の遊廓で、約1万坪の広さがあったとされる。城下の遊廓の一部が江戸に移されて吉原のもとになり、残った町が「二丁町」と呼ばれたと伝わる。明治以降も続いたが、静岡大空襲で焼失した。跡は静岡市葵区駒形通五丁目付近で、いまは静岡県地震防災センターがあり、往時を確かめられるのは小さな稲荷神社くらいだという。
旭廓・中村遊廓(名古屋市中村区大門町ほか)
名古屋の公娼地は、1874〜75年に大須観音の裏手へ集められた旭廓に始まる。1905年ごろの全盛期には娼家173軒・娼妓1,618人だった。市街の拡大で移転問題が長引き、1923年4月1日に中村へ移って中村遊廓(中村旭廓)になる。外周を堀で囲んだ吉原を模した造りで、日吉・寿・大門・羽衣・賑の5町からなり、1937年ごろには娼妓約2,000人、全国の娼妓の約4.5%が集まる日本最大級の遊廓だった。1945年の空襲で55軒が焼け、戦後は「名楽園」と改称し、1958年1月に自主転廃業した。堀の跡は道路や町境に残り、跡地にはマンション・病院・スーパーが建った。1993年に廓内の4棟が名古屋市の都市景観重要建築物に指定されたが、のち2棟は解体されている。詳しくは中村遊郭の歴史。
港陽園(名古屋市港区港陽)
港陽は、戦後の赤線「新陽園」が南区観音町付近から移ってくることになり、町名が分けられて生まれた地名だ。1949年7月に港陽町が成立し、遊廓として「港陽園」と称していた区画は、1958年に新世界商店街と改称した。現在は港新世界商店街や港陽公園があり、町の史跡として「遊廓港陽園跡」が挙げられている。
江戸時代の名古屋の遊廓(西小路・富士見原・葛町)
名古屋では1610年に遊廓が許可されたがまもなく廃止され、1731年に藩主・徳川宗春のもとで再び許可された。翌年から西小路・富士見原・葛町などの遊廓が造られたが、1736年に西小路からの出火をきっかけに廃止され、1850年代に復活するまで禁じられた。葛町は現在の中区にあった町名で、跡地は田畑に戻ったとされ、町名そのものも1977年に消えた。
地域別の一覧表
ここまでの17地点を表にまとめる。「資料に記述なし」は、取得した資料に書かれていなかったという意味だ。
| 名称 | 所在地 | 成立 | 終わり | 現状 |
|---|---|---|---|---|
| 新潟遊廓・常磐町遊廓 | 新潟市中央区 | 1893〜98年に統合 | 1958年 | 資料に記述なし |
| 古町花街 | 新潟市中央区古町 | 1898年(芸妓の花街) | 現役 | 妻入り町屋・登録有形文化財 |
| 長岡新遊廓 | 長岡市山田町 | 1907年 | 資料に記述なし | 資料に記述なし |
| 桜木町・東新地 | 富山市桜木町 | 1872年 | 1899年に移転(桜木町) | 歓楽街・料亭街 |
| ひがし茶屋街 | 金沢市東山 | 1820年 | 現役 | 重伝建(2001年) |
| 主計町茶屋街 | 金沢市主計町 | 資料に明記なし | 現役 | 重伝建(2008年) |
| にし茶屋街 | 金沢市野町 | 1820年 | 現役 | 資料に記述なし |
| 三国湊の出村遊里 | 坂井市三国町 | 資料に記述なし | 資料に記述なし | 思案橋が残る |
| 新柳・穴切遊廓 | 甲府市宝 | 1871年/1907年 | 1958年 | 住宅街 |
| 岩村田遊廓 | 佐久市岩村田 | 1889年 | 1940年 | 資料に記述なし |
| 鶴賀新地 | 長野市東鶴賀町 | 1878年 | 1958年 | 供養塔・道路割り |
| 金津遊廓・金津園 | 岐阜市加納水野町 | 1888年 | 1950年に現在地へ | 風俗営業の集まる地区 |
| 西ヶ原遊廓 | 多治見市広小路 | 1889年 | 1957年12月 | 資料に記述なし |
| 二丁町遊廓 | 静岡市葵区駒形通 | 江戸初期 | 静岡大空襲 | 地震防災センター |
| 旭廓・中村遊廓 | 名古屋市中村区 | 1874〜75年/1923年 | 1958年1月 | 堀の跡・景観重要建築物 |
| 港陽園 | 名古屋市港区港陽 | 戦後(赤線) | 1958年 | 商店街・公園 |
| 西小路・富士見原・葛町 | 名古屋市中区ほか | 1731〜32年 | 1736年 | 田畑に戻る |
まとめ
中部・北陸の旧遊廓は、駿府の二丁町や名古屋の旭廓のような古い遊廓、明治に県が指定地を決めた地方都市の遊廓、金沢のように茶屋町として公認された町に分けられる。名古屋の中村遊廓は1937年ごろに日本最大級の規模に達したが、跡地は住宅やスーパー、病院に置き換わった。岩村田や西ヶ原のように、売春防止法より先に姿を消した遊廓もある。いま歩いて確かめられるのは、金沢の茶屋建築や新潟・古町の町屋のように、文化財として守られてきた町並みが中心だ。
よくある質問
Q. 中部・北陸で最大級だった遊廓はどこですか?
A. 名古屋の中村遊廓だ。1937年ごろに娼妓が約2,000人おり、当時の全国の娼妓の約4.5%にあたる、日本最大級の遊廓だったとされる。
Q. 遊廓の建物が文化財になっている例はありますか?
A. 金沢のひがし・主計町は茶屋建築の町並みが重要伝統的建造物群保存地区で、新潟・古町では旧花岡家住宅が2023年に登録有形文化財になった。名古屋・中村では、廓内の一部が市の都市景観重要建築物に指定された。
Q. 金沢の茶屋街は遊廓だったのですか?
A. 資料は「茶屋町」という種別で扱う。主計町は、公式の免許地だったことはないが実質的に茶屋町として成り立っていたと説明されている。
Q. 売春防止法より前に終わった遊廓はありますか?
A. 岩村田遊廓は1940年に廃止された。多治見の西ヶ原は施行の3か月前の1957年12月に全軒が廃業し、名古屋の名楽園も1958年1月に自主転廃業した。
Q. 「金津園」のように「園」が付く名前は何ですか?
A. 戦後、赤線の特殊飲食店の組合名として東海地方で流行した呼び名だ。名楽園・城東園・八幡園・新陽園などがあり、現在まで残るのは金津園だけとされる。
Q. ここに載っていない地域はなぜですか?
A. 取得できた資料で成り立ちや終わりの時期を確認できた地点に限ったためだ。浜松など確認できなかった地域は、無理に載せていない。
参考にした資料
- Wikipedia「遊廓」「赤線」「新潟の花街」「古町花街」「中村遊廓」「港陽」「葛町(名古屋市)」「大門町(名古屋市)」「金津園」「西ヶ原遊廓」「岩村田遊廓」「鶴賀(長野市)」「穴切遊廓」「桜木町(富山市)」「二丁町遊廓」「ひがし茶屋街」「にし茶屋街」「主計町」
- 金沢市作成「保存地区の概要 金沢市東山ひがし・主計町・卯辰山麓・寺町台」(文化庁の重要伝統的建造物群保存地区の資料、令和8年更新)
- ニッポン旅マガジン(tabi-mag.jp)「思案橋」(坂井市三国町)
- 『全国遊廓案内』(1930年刊)、草間八十雄の1929年末の統計(Wikipedia「遊廓」の引用による)

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